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1.白い世界
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テレビから今年一番の冷え込みですと聞こえた朝が、ぼくが人生で一番ひどいことをすると決めた日だった。
空を食べ尽くした雲からしんしんと雪が降る。窓の外は魔法がかかったみたい。
眠れ、眠れ、白い世界。
お願いだから、まだみんな起きないで。まだ今日を始めないで。赤くなった両手をこすりながら、黒いランドセルの隣で膝を抱えた。
いま何時?テレビのすみっこに記された6:30。もうすぐだ。もうすぐ帰ってくる。
壁の薄いアパートは冬将軍の足音を防げない。頭から毛布をかぶっても、白い息を吐いた喉はひりひり。早起きしてもいいことなんてないのに、寒くて、寂しくて、ぼくの目は毎日すぐに開いちゃうんだ。
がらんとした氷の世界に、かちゃんと鳴る雪解けのような鍵音。ぼくはすっかり固まった膝を伸ばして、冷たい廊下を裸足で走った。
「兄ちゃん、おかえり」
見上げるくらい大きな影から、ハラハラと白い粉が舞い落ちる。寒い部屋に増えたたった一つの熱源は、僕よりずっと冷たそうだ。
「楓、邪魔」
兄ちゃんは右足にくっついて離れない重りを引き摺り、コートと鞄を椅子にかけた。
「飯は?」
「炊けてるよ。ねぇ、ぼくが目玉焼きつくろうか?」
「いや、楓は火を使うな。病院に行ったらまた金がかかる」
力のない大きなあくび。目の下のくま。ぼくと一緒に痩せていく肩。兄ちゃんは、変わった。太陽みたいだった頭も今はカラスみたいに真っ黒だ。服もだいたいいつも同じ。洗いすぎてくたくたになっても「別にいい」と言いながらそっぽを向く。
ねぇ、「誰」が兄ちゃんを変えてしまったの。どうして兄ちゃんを昼も夜も働かせるの。どうして兄ちゃんに辛い思いをさせるの。
鏡の中に暗く映る小さな影。ぼくはそいつが憎い。絶対に、絶対に許さない。
楓おいでって呼ばれて、お仏壇の前に二人で座る。お線香のそばには、ぼくが並べた緑色のミニカー、パンダのぬいぐるみ、かぼちゃのキャンディ、オレンジ色のおはじき、星の形の積み木。
兄ちゃんにもらうたびにパパとママのお写真の前に置いてあげるの。そしたら二人がよかったねと笑い返してくれるから。
「楓、荷物はまとめたのか?」
少し焦げた目玉焼きが、不機嫌そうな兄ちゃんの箸でぱかりと割れる。
「十時に迎えが来るから、それまでにちゃんと出て行く準備しておけよ」
うん、と頷きながら白いご飯をひと口頬張る。いつもならホカホカ幸せが口いっぱいに広がるのに、今日はなんだか砂みたい。
兄ちゃん、ぼくね、荷物なんか用意しないよ。宝物もぼくの代わりにお線香の隣に残していくよ。
「ワガママ言ってあんまり叔母さんを困らせるなよ。ご飯も好き嫌いせずしっかり食べろ。それから…」
あんまり笑わない兄ちゃん。注意事項を並べるときもやっぱり無表情。
兄ちゃん、二人でいられるのは目玉焼きを食べたら最後なんだよ。ぼくは本当は泣きたいけれど、泣いたら兄ちゃんが怒るから絶対に泣かない。
でもお前は叔母さんのところで幸せになれなんて言わないで。ぼくが平気だと思わないで。噛み付いた箸に鉄の味が混ざって、ご飯はもっと美味しくなくなった。
兄ちゃんはぼくがお茶碗を洗っている間に薄い布団に転がった。こうなったらお昼までは起きない。ぼくはタオルで手を拭いてから足音と息を殺して兄ちゃんのそばに近づいた。
ぽてりと大きな背中に寄り添う。どうかぼくのほっぺが兄ちゃんの低い体温を永遠に忘れませんように。
音量を下げたテレビが町の雪景色を映し出している。モニターの角で数字が動く。ぴったり8:00。十時まで、あと二時間。
…いかなきゃ。
大人用のパーカーをパジャマの上から着込んで、裸足のまま土に汚れた靴を履く。一人で外に出たら、待ち構えていた冬将軍がぼくを連れて行こうと白い粉を撒いた。
でも寒くなんてない。怖くなんてない。今日、ぼくは人生で一番ひどいことをする。見つかる前に、はやく行かなきゃ。
空を食べ尽くした雲からしんしんと雪が降る。窓の外は魔法がかかったみたい。
眠れ、眠れ、白い世界。
お願いだから、まだみんな起きないで。まだ今日を始めないで。赤くなった両手をこすりながら、黒いランドセルの隣で膝を抱えた。
いま何時?テレビのすみっこに記された6:30。もうすぐだ。もうすぐ帰ってくる。
壁の薄いアパートは冬将軍の足音を防げない。頭から毛布をかぶっても、白い息を吐いた喉はひりひり。早起きしてもいいことなんてないのに、寒くて、寂しくて、ぼくの目は毎日すぐに開いちゃうんだ。
がらんとした氷の世界に、かちゃんと鳴る雪解けのような鍵音。ぼくはすっかり固まった膝を伸ばして、冷たい廊下を裸足で走った。
「兄ちゃん、おかえり」
見上げるくらい大きな影から、ハラハラと白い粉が舞い落ちる。寒い部屋に増えたたった一つの熱源は、僕よりずっと冷たそうだ。
「楓、邪魔」
兄ちゃんは右足にくっついて離れない重りを引き摺り、コートと鞄を椅子にかけた。
「飯は?」
「炊けてるよ。ねぇ、ぼくが目玉焼きつくろうか?」
「いや、楓は火を使うな。病院に行ったらまた金がかかる」
力のない大きなあくび。目の下のくま。ぼくと一緒に痩せていく肩。兄ちゃんは、変わった。太陽みたいだった頭も今はカラスみたいに真っ黒だ。服もだいたいいつも同じ。洗いすぎてくたくたになっても「別にいい」と言いながらそっぽを向く。
ねぇ、「誰」が兄ちゃんを変えてしまったの。どうして兄ちゃんを昼も夜も働かせるの。どうして兄ちゃんに辛い思いをさせるの。
鏡の中に暗く映る小さな影。ぼくはそいつが憎い。絶対に、絶対に許さない。
楓おいでって呼ばれて、お仏壇の前に二人で座る。お線香のそばには、ぼくが並べた緑色のミニカー、パンダのぬいぐるみ、かぼちゃのキャンディ、オレンジ色のおはじき、星の形の積み木。
兄ちゃんにもらうたびにパパとママのお写真の前に置いてあげるの。そしたら二人がよかったねと笑い返してくれるから。
「楓、荷物はまとめたのか?」
少し焦げた目玉焼きが、不機嫌そうな兄ちゃんの箸でぱかりと割れる。
「十時に迎えが来るから、それまでにちゃんと出て行く準備しておけよ」
うん、と頷きながら白いご飯をひと口頬張る。いつもならホカホカ幸せが口いっぱいに広がるのに、今日はなんだか砂みたい。
兄ちゃん、ぼくね、荷物なんか用意しないよ。宝物もぼくの代わりにお線香の隣に残していくよ。
「ワガママ言ってあんまり叔母さんを困らせるなよ。ご飯も好き嫌いせずしっかり食べろ。それから…」
あんまり笑わない兄ちゃん。注意事項を並べるときもやっぱり無表情。
兄ちゃん、二人でいられるのは目玉焼きを食べたら最後なんだよ。ぼくは本当は泣きたいけれど、泣いたら兄ちゃんが怒るから絶対に泣かない。
でもお前は叔母さんのところで幸せになれなんて言わないで。ぼくが平気だと思わないで。噛み付いた箸に鉄の味が混ざって、ご飯はもっと美味しくなくなった。
兄ちゃんはぼくがお茶碗を洗っている間に薄い布団に転がった。こうなったらお昼までは起きない。ぼくはタオルで手を拭いてから足音と息を殺して兄ちゃんのそばに近づいた。
ぽてりと大きな背中に寄り添う。どうかぼくのほっぺが兄ちゃんの低い体温を永遠に忘れませんように。
音量を下げたテレビが町の雪景色を映し出している。モニターの角で数字が動く。ぴったり8:00。十時まで、あと二時間。
…いかなきゃ。
大人用のパーカーをパジャマの上から着込んで、裸足のまま土に汚れた靴を履く。一人で外に出たら、待ち構えていた冬将軍がぼくを連れて行こうと白い粉を撒いた。
でも寒くなんてない。怖くなんてない。今日、ぼくは人生で一番ひどいことをする。見つかる前に、はやく行かなきゃ。
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