制御不能な最適愛

カニカマ

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 年に一度の健康診断は、庁舎の地下にある検査区画で行われる。
 白い光が床から天井へ流れるように走り、立ったままの私の体に沿ってスキャンが行われる。AIの柔らかな声が、身体の状態を読み上げた。

「主要臓器に異常なし。睡眠時間は基準を下回っています。軽度のストレス反応。体表に複数の打撲痕。損傷は治癒過程。体表異常の理由を入力してください」

 目の前のスクリーンに選択肢が並ぶ。事故、労務、運動、その他。
 私は短く息を吸い、「その他:諸事情」と入力する。毎年これで通している 。AIも、特に追及しない。働く上では問題のないくらいの傷をいちいち詮索する方が無駄だからだ。

「総合評価:良好。数値向上項目推奨を提示します」

 壁のスクリーンに、淡い色のカードが整列した。栄養、運動、睡眠、対人。
 私は最後のカードを見つめる。

「対人最適化:結婚を推奨。互換性の高い候補者を提示」

 名前が三つ、写真と簡単なプロフィールと一緒に浮かぶ。笑顔はどれも柔らかく、清潔で、統計的に安心できる形に整えられていた。
 私は指先を宙で止め、「スキップ」を選んだ。

「理由を入力してください」

「家族がいます」

「現在、五十嵐様に家族登録はありません。扶養単位:零。生活補助対象:なし。訂正の有無を選択してください」

 指がわずかに震えた。画面の文字は、正確な情報。
 法的には、私と烈人は何者でもない。再婚の失効処理で戻された出生姓。共同生活の継続は「効率のための暫定措置」であって関係ではない。データにとって烈人は家族ではない。

「⋯⋯保留で」

「次回診断時に再提示します。本日の結果を保存しました。お大事になさって下さい」

 光が消え、区画の扉が静かに開く。冷たい空気が頬を撫でた。私はジャケットを着直しながら、薄い痛みの残る腹に無意識に触れた。
 AIは正しい。ここでの通行証は、正しさだけだ。



 終業のアナウンスが庁舎に流れ、私は端末を閉じてエレベーターホールへ向かった。
 規則正しい照明の下、壁面の大型スクリーンでは翌日の業務予報と防犯自動ドローンが巡回している。ドアの前で待っていると、横に立った同僚が小さく会釈した。確か、最近結婚したばかりの女性だ。社内婚だからか、やけに祝われていた。

 エレベーターが到着し、二人で乗り込む。無人ゲートの照明が背中で明滅し、彼女は健診結果のポップを閉じながら首を傾げる。

「どうでした? 今年の健診」

「睡眠が少し足りないくらいで。あとは⋯⋯標準どおりです」

 打撲の項目は口にしない。口にしなければ、そこには存在しない。AIでさえ、問われなければ深追いしないのだから。
 
「さすが五十嵐さん。そうだと思いましたよ」

 笑いながら、彼女は自分の結果をひらつかせた。

「私は鉄分が不足って。朝の食事パック、赤系を増やせって出ました。あとはストレス指数が休日に跳ねてて、運動をして活動的にですって」

「休日に上がるのは珍しいですね」

「家でゴロゴロしてると逆にダメみたい。AIのおかげで気付けましたよ」

 自動ドアが空き、検査区画の淡い青が廊下へこぼれる。並んで歩き出したところで、彼女が思い出したように振り向いた。

「五十嵐さんは“改善提案”ありましたか? まだご結婚なされていないですよね?」
 
 鏡面仕上げの壁に、彼女の左手のリングが光った。AIが推奨する合金製。軽く、アレルギー反応の低い材質。効率の良い愛の証。

「どうです? 結婚。インセンティブも大きいし、睡眠の質が上がる人、多いですよ。メンタルの波形、安定するって」

「貴方は先月にされてましたよね⋯⋯ご結婚おめでとうございます」

 彼女は嬉しそうに肩を竦める。階数表示が下へ落ちていく間、彼女は続けた。

「AIが出してくる相性リストって当たるんですよ。私もおかげで結婚できました。話が早いし、喧嘩にもならない。感情で選ぶと失敗する、って昔の人が証明してくれてるんだなって。五十嵐さんならいい人、たくさん提案してもらえたんじゃないですか?」

「私は⋯⋯家に弟もいるので」

 口にした瞬間、彼女はわずかに目を瞬かせた。エレベーターが地上で開き、スライダー乗り場へと人の流れが移る。自動改札を抜ける直前、彼女が振り返った。

「弟さんって天城さんですよね? 成人してますし、現場の評価も高いって聞きました。もう手がかかる年齢じゃないでしょう?」

 言葉が、喉に小さく引っかかった。
 成人。評価。自立。言葉はすべて正しい。正しい。しかし現実とはずれる。

「そう、ですね。検討してみます」

 曖昧な返事に、彼女は特に深追いせず挨拶をして別のラインへ歩いていった。
 私は帰路へのラインへ進み、透明な防音壁越しに流れるプラットフォームの広告を眺める。家族ユニットの成功例が連なる映像が、上向きの曲線だけを穏やかに描く。

 スライダーが滑り込み、ドアが無音で開く。乗り込み、立ったままバーに手を添えると、車内の案内表示が静かに流れ始めた。
 窓に映る自分は表情なく揺らいでいる。
 
 家族、とは何だろう。

 法律上、私は独りだ。
 生活上、烈人と二人。
 心の中では、ずっと言葉にできない何かが渦巻いている。
 


 夜。
 玄関のロックが外れる音。私は振り向く。銀色の髪、無造作な笑み。明日は休日だから、機嫌が良さそうだ。

「千景、なんかいいことあった?」

「⋯⋯なにも」

「だろうな。いつもより辛気臭い顔して。ま、今日もいつも通りな?」

 いつも通り。
 その合言葉で、私は呼吸を浅くする。AIが定義する最適ではなく、私たちの部屋にだけ通用する秩序だ。
 支配と、観察と、搾取と、受容。
 それらを積み上げた先に、私たちだけの温度がある。

 シャツを捲られる。指が腹の痣の縁をなぞる。少し押し込まれ痛みでひきつる。
 
 烈人の歪んだ愛情表現──支配、搾取、観察。
 それを受け入れてしまったのは私だ。
 
 家族ではない。兄弟でもない。それでも結び目はある。

 私は、人間らしさをうまく持てない。彼の欠け方に、どこか一安心する。
 不完全なピース同士が、ねじれたまま嵌め込む感触。社会は許さないだろう。

 AIは今日、私に結婚を勧めた。私は家族がいると嘘をついた。嘘ではない、と本心で思う。
 家族とは、何か。
 答えは、まだ出ない。
 出ないけれど、私の身体はもう知っている。
 支配され、従い、受け入れる場所にだけ、どれだけ拠り所にしているか。

 そして、彼の手がそこにある限り、私は今日も、ここにいる。



 烈人が宿直になった。部隊の詰所に一週間。彼が家を空けるのは、初めてだった。

 鍵が回らないだけで、家の空気は変質する。冷蔵庫の駆動音、空調の規則的な吐息、時々鳴る配水管の水音。それらが妙に大きく聞こえ、気づけば時計の針の進み方を目で追う。気がつけば太陽が昇って一日が始まっていた。

 浴室の鏡で、痣の色が薄くなるのを眺める。
 黄味がかった色が、境界を失って肌色に溶けていき、二の腕の痕も、腹の脈打つ痛みも、日に日に静かになっていく。
 良いことのはずだ。それなのに、心が波立つ。

 職場では端末の前に座る時間が長くなった。視線は画面に向いているのに、思考は定まらない。指先の入力が空回る。

「五十嵐管理官、ストレス指数が連日上昇しています。休息提案:軽運動/入眠導入音/対人接触の増加。」

 AIが私の端末に、淡々と提案を差し込んでくる。提案のどれも実行可能だ。実行したところで埋まる気配はなかったが。

 昼休み、食堂で栄養バーを噛んでいると、同僚に声をかけられた。

「五十嵐さん、顔色がいつもより悪いですよ。寝不足ですか?」

「⋯⋯そう見えますか」

「AIの波形、今朝注意出てましたよね。たまには、気分転換に飲みにでもどうですか?夜に何人かで今日集まる予定で」

「私は大丈夫です。ありがとうございます」

 早々と席を立った。「大丈夫」と言うたび、内側が空になる。気を遣われるのも、人が集まる場所に行くのも、あまり得意ではない。

 夜の廊下は音がない。寝室の照明を落とし、ベッドに体を沈める。静けさが耳に刺さる。目を閉じて、帰宅音を想像してしまう。
 乱暴に開く鍵の音、床板の沈む癖、無造作に置かれる制服、洗面所の水の走る気配。
 私は、身体の奥から薄く震えるような不安に枕を押し付けた。

 烈人がいないと、頼るものがなくなる。私が何者でもなくなる。

 AIに与えられた役割は、外から見える機能だ。烈人といるときだけ、そこに価値が生まれる。
 それが支配だとわかっていても、搾取だと知っていても、私はそこでしか存在を感じられない。

 日が進む。痣はさらに薄くなる。鏡の中の顔は、別に健康そのものに見えた。
 それでもAIの注意は消えず、同僚からも「本当に大丈夫ですか?」と繰り返した。



 一週間が過ぎた夜、玄関のロックが荒い音を立てて外れた。制服の袖に擦り傷、手の甲に乾きかけの赤、喉のあたりに新しい痕。目の奥が煌々としている。
 烈人が帰ってきた。過酷だったのだろう。あるいは、楽しかったのかもしれない。

「千景」

 呼ばれて、立ち上がる。
 距離が一気に縮まり、背中が壁に当たる。喉元に熱い息。
 おかえりと言う前に、私は顎を掬われた。

 強い。いつもより、雑で、急いでいる。押され、引かれ、息を奪われ、彼の腕に包まれる。痛みは待っていた。定位置に戻るように。

 私は、抗わなかった。熱を持った指が、性急に背後へ差し入れられる。浅く呻くと、烈人の笑う気配が耳元に落ちた。

「⋯⋯っは。用意いいな」

 言葉に滲む、確信と嗤い。この一週間、彼が戻ったとき、こうなることを疑っていなかった。初めて自分で中を柔らかくしておいた。見抜かれている。

 指がゆっくりと動き始める。
 痛みはない。けれど羞恥だけが生々しく残る。私は目を閉じ、息をひとつだけ、長く吐いた。

「いい子だな」

 喉の奥が震える。羞恥も、安堵も、同時に来る。
 
 視界が滲んだ。彼の手が私の頬を雑に撫で、荒い呼吸が重なって、部屋の空気が熱を帯びる。
 強引な口づけ。指の跡が残るほどの掴み方。それでも、私は首を振らなかった。彼の重さが、私の輪郭を確かめてくれる。


 揺さぶられながら、一年前の日を思い出す。初めて抱かれた日のことを。
 その夜のことは、今でもよく覚えている。

 扉を開けた瞬間、部屋に漂うアルコールの残り香に、私は思わず立ち止まった。テーブルの上には、AI管理システムによる推奨数をはるかに超えた空き瓶。ラベルが剥がれかけた一本を手にしたまま、烈人はソファにもたれ掛かっていた。

「⋯⋯ただいま。烈人?」

 呼びかけに返事はない。薄く開いた目が、私をぼんやりと捉えたかと思うと、すぐにまたどこかを彷徨い始める。
 彼が酒を飲んだのは初めてだった。この社会では体質診断に基づく摂取制限が徹底されている。烈人はアルコール分解酵素が極端に弱く、AIから「摂取非推奨」とされていた。それを破ってまで、飲んだ。
 ボトルの水を渡したが、投げ捨てられる。ため息をついてソファの横に座る。

「烈人。誕生日、おめでとう」

 ポケットから取り出した小さな箱を、彼の目の前に差し出す。黒の細身の腕時計。無機質だが、彼の好みに合わせたデザイン。
 烈人はそれに一瞥をくれただけで、手も伸ばさず、ただ私の方を見た。

 熱を帯びた視線に、なぜか背筋が冷えた。
 次の瞬間、私は押し倒されていた。

 強く床に背を打ち、反射的に目を閉じる。いつもの暴力だ。そう思った。
 頬か、腹か、どこかに拳が来るのだろうと身を強張らせた。けれど──。

 唇に、柔らかな熱が落ちた。

「⋯⋯っ?」

 思わず目を開ける。目の前にあったのは、酩酊で赤く染まった烈人の顔。唇はもう一度重なり、舌が押し込まれた。口腔をまさぐるような動きに、驚きと戸惑いしか返せない。
 拒もうとするが、烈人の体は大きくとても退かすことはできなかった。

「れつ、と⋯⋯」

 呟こうとした名は、舌で塞がれて溶けた。
 そして、ズボンを脱がされる。

 冷気と羞恥が一気に肌に降りる。心も体も、追いつけない。彼が何をしようとしているのか。理解する前に指が、初めての場所に触れた。

「なっ、ま、まてっ」

 言葉は届かない。押し込まれてきたのは、今までとまったく違う暴力だった。
 暴力ではない。それでも、暴力より深く侵す。
 準備もないまま、彼のそれが無理矢理押し込まれ、腹の奥が灼けるように熱くなる。

「ぁ、あ゛ッ⋯⋯い、た⋯⋯っ!」

 裂けた。熱が伝う。血だ。下腹がきゅう、と攣る。視界が滲み、涙が流れても、烈人は止まらない。

 私は、ただされるがままに、彼の体温と重さを受け入れていた。朝まで何度も貫かれて。
  


 苦しい瞬間が通り過ぎ、呼吸が落ち着くと、烈人は額を私の肩に預けた。しばらく、音だけが部屋に残る。

「⋯⋯一週間で随分やつれたな」
 
 彼は私の耳たぶを軽く噛んだ。声が喉で擦れ、私は目を閉じる。

 痣は、この一週間で消えた。
 そして今、また増える。
 消えては戻って、戻っては消えて、それでも私は。

 AIは言うだろう。最適ではない、と。世間は言うだろう。間違っている、と。たしかに、正しさではないのだと思う。
 正しさでは、生の実感は得られない。

 眠りに落ちる直前、窓の外が薄く明るくなっていく。烈人の手が、腹の上で止まる。呼吸が静かに揃っていき、私は目を閉じた。

 兄弟ではない。
 けれど、他の誰よりも深く繋がっている。

 世界がどうであれ、AIが何と言おうと、
 私たちは、いつもここに戻ってくる。

 間違っていても、温かい場所へ。
 そこだけが、私たちの生き延び方だ。
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