制御不能な最適愛

カニカマ

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 その朝、空気の粒子が、ほんの僅かに重たく感じられた。温度、湿度、照明──すべては定数の通りに保たれていたはずなのに、皮膚の裏側だけが、わずかに引っかかるような違和感を抱えていた。

 席へ向かう途中、正面から同僚が歩いてきた。

「五十嵐さん。この日の終業後何してましたか?」

「報告書を一本、出してから帰りました」

「そうですか。監査から照会が来てまして。内部ブースの一つで、指令局窓の使用ログがあるんです。端末の位置情報が五十嵐さんのバッジと一致していまして」

 意外と早く気づかれた。対策は用意してある。だから、焦らず返せばいい。

「そうですか。確認しておきます」

「ありがとうございます。⋯⋯それと、もう一つ」

 同僚は声のトーンを半歩下げた。

「天城実働官、評価が落ちてます。感情処理指数が、極端に。AIのダッシュボード、見ました?」

 見ていた。もちろん知っている。が私は小さく否定した。

「見ていません。家では変わりないですが」

「じゃあ、先に言っておきます。AIが彼を“再教育対象”にマークしました。現場の負荷に耐えられない反応が増えている、だそうです。ここ数日、行為選択が荒いって。人による監査が済んだら、矯正プログラムが組まれる可能性が高いです」

 矯正プログラム。再教育。
 生活単位の切り離し、接触制限、薬を使った安定化、行動パターンの上書き。数字は戻る。出力は整う。数字は戻っても、人は戻らない。
俗に“廃人”になる、と言われている。

「ご忠告ありがとうございます。弟と家で話してみます」

 それ以上、何も言えなかった。同僚は、私の顔を一瞬覗き込んでから、いつもの調子へ戻して軽く会釈した。

「照会の方もよろしくお願いします」

 彼は去っていく。背中を見送ったあと、私は席についた。端末の画面に光が走る。今日のタスクを確認。どれも、難しくはない。手順どおりに処理すれば終わる類のものだ。
 だが、指がキーボードの上に浮いたまま、落ちていかない。

 私が手をつけた記録は、たやすく剥がれる類のものではない。理由も積んだ。言葉も選んだ。ログも流した。
 それでも、世界のほうが一枚上手だ。

 私はメガネの端に触れ視界の片隅に画面を呼び出した。烈人のダッシュボード。このメガネはただの視力矯正ではなく閲覧記憶を呼び起こせるものだ。
 
 感情処理指数:急落。再教育対象マーク。
 言葉での抑止に反応しない事例の増加。
 その下に、小さなバナー。

【家族・居住同居者による受け入れ体制の可否を確認します。該当者:未登録】

 思わず、笑いそうになった。
 この都市において、「家族」は記号であり、制度だ。そこに私たちは家族ですらない。

 午前のタスクは手早く終わらせた。入力の精度は上がっていた。焦点の合わない目でも、手は訓練どおりに動く。私はこの職に向いている。適性の通りの人間である。
 昼休みのアナウンスが流れ、私は立ち上がって食堂に向かった。AIが選んだ簡素な食事を取り、端の席で静かに咀嚼する。味は薄い。ちょうどいい。
 トレイを返却したとき、二人の職員が背中合わせに立っているのが見えた。私を見るともなく、視線が一瞬だけこちらを掠める。
 AI記録の情報はすぐに知れ渡る。



 午後、私は呼び出された。
 監査室。
 椅子は柔らかく、壁は白く、窓は細く、声の反響は少ない。落ち着くようにできている。落ち着いたほうが、正確に話せるからだ。

「確認させてください」
 
 監査官が、穏やかに切り出す。
 
「内部ブースで、指令局窓を開かれましたね」

「はい。交差事件の照合のためです」

「照合対象の事件名は?」

 私は用意しておいた番号を口にした。実際に近い案件。監査官は端末を見て、短く頷く。

「もう一点。天城実働官の個人ダッシュボードへのアクセスが記録されています」

「職務上の確認です。現場ログと警告の整合性を見ました」

「五十嵐管理官。では一つだけ。あなたは“家族”ですか?」
 
「法的には違います」
 
「なら、なぜ彼のダッシュボードを」
 
「交差事件の時系列を照合しました。映像の切れ目が不自然で」

 監査官は目を少しだけ細め、私の顔を見た。探るような視線。私の仮面が、どの程度の厚さで貼られているかを測っている。

「五十嵐管理官。あなたは、最適です。判断も、処理も、言葉も──整っている。だからこそ、“その整い”の裏に、逸脱が潜むこともある。」

 それきり、深追いはされなかった。形式通りの注意。
 部屋を出るとき、指先がわずかに震えた。ドアノブを離すと、その震えも消えた。



 定時を少し過ぎた頃、烈人からメッセージが入った。珍しい。嫌な予感がした。

《再教育の話が来た》

 私は歩みを止めた。画面に映るその文は、驚きも怒りも持たないただの報告だった。
 
 彼は、いつだってそうだ。自分に起きることを、まず観察し、次に結果を見て、私の反応を見る。

《詳細は?》

《三つ。薬、プログラム、隔離。どれか。たぶん薬から》

《拒否は?》

《できるけど、面倒。時間取られる》

《帰るから、待っていてくれ》

 通信はそこで切れた。私は端末を握りしめたまま、執務フロアへ戻った。
 もう一度、やるのか。頭のどこかで、そんな声がした。
 だが、今日は駄目だ。今度は必ず捕まる。
 全てに逆らえば、自分も対象になる。その文言が、はっきりと真ん中に立った。

 私は、できる方法を探した。最短で、合法で、効果があって、目立たない方法。どれも、欠けている。

 唯一、線上に残ったのは、意見書だった。
 市民による意見の提出。
 監査に対し、現場の評価に対し、近しい者としての観察を添える。結果に直結しない。効力は弱い。だが、ログの色は薄い。危険は小さい。

 私はその画面を開き、カーソルを一行目に置いた。
 手が、止まった。
 何を書けばいい。
 彼は残すべきだ。では、何も動かない。
 彼には価値がある。本当だろうか。

 何千行も書いてきた報告書より短い、たった数行の欄に、何も置けない。
 過去に書いた無数の言葉が、いまはただ空白を押し広げるだけだった。
 私の仮面が、ひび割れる。理性で支えてきた面が落ちて、その下から、醜く歪んだ自分が出る。

 私は、烈人を愛しているのか。
 それとも、依存しているだけなのか。
 
 烈人のためと考えていたことが自分が生きるための理由と変わっていた。
 
 その告白を書けば、AIは笑うだろう。いや、笑いもしない。ただ無意味として捨てられる。最適の世界に、非最適の動機は提出できない。

 画面を閉じた。たったそれだけの動作が、敗北の記録のように感じられた。
私は席を立ち、端末をロッカーへしまい、コートを着た。
 帰る。何も打てなかった。何も守れなかった。
 その無力感を抱えたまま、帰る。



 スライダーは空いていた。夜の街は清潔で、穏やかで、正しい。
 ガラス越しに自分の顔が映る。最適な角度で整えられた表情。それが、今日は保てない。
 眉間が微かに寄る。口角が少し下がる。目が疲れている。
 
 綺麗だ、なんて言われるが。本当は自分なんて大嫌いだ。顔も、性格も。
 
 だが、その呼吸が乱れてしまえば、仮面はずれる。

 鍵が開き、灯りがつく。烈人は、テーブルに腕を投げ出して座っていた。私を見ると、いつも通りの声を出した。

「おかえり」

「⋯⋯ただいま」

「再教育でも、俺は困らない」

 ひやりとした。

「いいことなど、ひとつもない」

「楽になるんじゃない、周りが」

「周りが、楽になる」

「そう。俺は、別にどっちでも」

 自分が変わることを、彼は気にしない。
 変わる前と後で“心”がどうなるか。彼には、比べる基準がない。
 私だけが、怖がっている。私だけが、ここを守りたいと思っている。

「夕食は食べたか」

「まだ。お前待ってた」


 私はキッチンでAI推奨のパックを温め、二人分をテーブルに置いた。スプーンが皿に触れる微かな音。
 ほとんど味がない、いや味を感じることができなかった。
 食べ終えるまで、烈人はいつものように話をしていたがその内容はよく覚えていない。

 洗面所で皿を流す。水の温度は機械が勝手に合わせる。泡が流れていくのを目で見ているだけで、思考はどこにも行かない。
 背後で床が鳴った。烈人が枠に寄り、こちらを見ていた。

「今日、監査に呼ばれたろ」

 手が止まる。泡が蛇口の下で白く崩れ、流れ落ちる。

「何もできなかった」

「ふうん?」

 興味なさそうに烈人は私の手元を見てまだ終わらないのか、と首を回している。

「私と烈人は家族ではないと言われた」

「事実だな」

 
 洗面所で皿を洗う。単調な作業。無心に行う。自動食器洗いはこの前壊れた。

「どうにもならないのか」

 自分の声が、想像より掠れていた。烈人は首を傾げる。

「何が?」

「何もかもだ」

 彼は瞬きをして、肩をすくめた。



 その夜、私は眠れなかった。AIの睡眠導入音をかけても、脳は浅い水面の上で揺れるだけだ。
 明かりを落とした部屋で、天井の影を見ていると、端末が震えた。
 通知。
 反射的に身を起こし、画面を開く。

《再評価:天城烈人/再教育プログラム:準備開始》
《第一段階:薬理的安定化(任意)/説明会:明後日》
《同居者チェック:該当なし》
《接触制限の可能性:あり》

 端末を握ったまま、私はベットに沈み込む。
 何か打つべきだ。誰かに。何かに。
 だが、打つべき言葉はない。
 私にできるのは、“最適に従う”か、“非最適に沈む”か。
 昨夜は後者を選び、今日は前者に怖じ気づいた。
 どちらも、弱い。

 唐突に、涙が出た。
 驚くほど静かに、頬を伝って、落ちる。
 泣くことで、何が変わるわけでもないのに。

 背後で、布団が擦れる音。
 烈人が寝返りを打ったらしい。
 彼は、眠っているときだけ、穏やかな人間らしく見える。
 感情の値も、攻撃性の波形も、すべて平らになる。
 私と同じように。

 最適の仮面は、眠りのためのものではない。
 起きているあいだ、社会に対して貼るためのものだ。
 私は、その仮面を失くしかけている。
 職場で。監査室で。鏡の前で。そして、彼の前で。

 端末の画面を伏せ、私は目を閉じた。
 泣き止むまで、呼吸を整える。
 “どうにもならない”。
 それを、正直に認める。
 それができたらどれだけ楽だろうか。
 


 翌朝、私は時間通りに起き、時間通りに支度をし、時間通りに出勤した。廊下の空気は、やはり少し重いように感じる。

 剥がれかけの縁から、ひやりとした空気が入ってくる。
 最適の仮面は、私を守ってきた。
 しかし同時に、私の顔を覆い続けた。
 その下で、私は、私のままでいられなくなっている。

 烈人は、仕事へ出た。
 再教育の説明は明後日。まだ説明。実行はまだ。
 私は、その間に何ができるのかを考え続ける。
 合法のまま、彼を守る方法。
 ない。
 非合法なら、ある。だが、それを繰り返せば、私が落ちる。
 落ちれば、彼はひとりになる。
 ひとりになった彼が、何をするか。私は、想像したくない。

 結局、私は何も打てない。
 端末に向かって、定時までにタスクを正確に片づけることだけが、今日できる全てだ。
 その正確さこそが、私の存在理由だ。
 そして、その正確さこそが、私を空にする。

 夕方、AIは静かに言う。

「本日の業務もお疲れ様でした」

 優秀という印は、鎧にもなれば、檻にもなる。
仮面をつけたままでは──その扉は、内側からは開けられない。
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