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1巻
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しおりを挟むプロローグ 性悪と呼ばれて
「――カリーナ! 昨夜はよくも恥をかかせてくれたな。まさか、婚約者である俺の誕生会を欠席するとは……!」
半年ぶりに夕食の席に呼ばれた私が食堂へ入ったとたん、罵声が飛んできた。
見ると、赤毛を逆立てるようにこちらを睨みつける、この国の第二王子、オリバー殿下がいる。
その青いアーモンド型の眼は私への敵意にかギラギラと輝き、端整な顔は怒りで歪んでいた。
豪華な料理が並んだ長テーブルには他にも、普段は宮廷の仕事で忙しくしている父と、社交に飛び回っている義母と義妹の姿がある。
既視感のある光景に、私はそっと溜め息をつく。
とりあえず言い返すのは後にして無言で着席し、胸の前で両手を組み合わせて目を瞑った。
信心深い母の教えを受けた私にとって、この大陸で広く信仰される水と豊穣の女神イクス様への感謝は、他の何よりも優先される。
そうして食前のお祈りを終えた私は、おもむろにオリバー殿下に向き直り事実を述べた。
「出席しようにも、殿下からの招待状を受け取っておりませんし、誕生日だと知りませんでした」
すると、すかさず斜め前方から甲高い声が飛んでくる。
「何を言っているの、カリーナ! 私は確かに手渡しましたよ。だいたいお前が今着ているのは、そのために仕立てた新しいドレスでしょうに。いつもながら言い訳のために平然と嘘をつく、恐ろしい娘だこと!」
事実無根の義母の非難に、父が嫌味ったらしい口調で追随した。
「どうせ最初から殿下の誕生会を口実に贅沢なドレスが欲しかっただけなのだろう? いずれにせよ父親として嘆かわしい。わざわざ王都からお越しくださった殿下に向かって、最初に発した言葉が挨拶でもお詫びでもなく、恥知らずな言い訳なのだからな! カリーナ、いったいお前はいつになったら、貴族の娘としての最低限度の礼儀を身につけるのだ?」
毎度のこととはいえ、理不尽な言いがかりに呆れてしまう。
病的な嘘つきなのは義母のほうだし、その口車に乗って私に家庭教師を一人もつけず、教育を与えないで放置したのは父なのに。
おかげで大陸の覇権を握るイクシード王国の名門貴族デッカー公爵家の娘として生まれながら、私は身分に相応しい礼儀や教養どころか、一般常識さえ身につけぬまま十五歳になっていた。
「――待ってください」
と、私が反論しかけたとき、遮るように義妹のリリアが泣きそうな声を上げる。
「オリバー様、私の力不足でごめんなさい! 昨日、出かけるのが億劫だと言う姉に、オリバー様のように素晴らしい婚約者をないがしろにしてはいけないと必死に訴え、出席するようお願いしたのですが……」
計算高いリリアは義母と違い、決して人前では私に露骨な攻撃をしかけてこない。
毎回こうして、いかにも『けなげな』演技をして周りの同情を誘い、巧妙に私を悪役に仕立て上げるのだ。
ゆるく波打つストロベリー・ブロンドの髪に大きな緑色の瞳。庇護欲を誘う幼さを残した愛らしい顔立ちと、小柄で華奢な身体。
そんなリリアの見た目に誰もが騙され、父に至っては最早、溺愛しているとしか言えない。
「おお、リリア! 相変わらずなんと心優しく、思いやり深いことか」
父は感嘆の言葉と共に愛情いっぱいの眼差しをリリアに向けた後、打って変わった憎々しげな目で私を見やる。
「比べてカリーナときたら、見た目と同じで心も人間味が薄く、冷たい」
昔から父は母譲りの私の容姿――青みがかった銀髪を「人の髪色ではない」、アイスブルーの瞳を「ガラス玉のよう」、顔立ちについても「人形みたいだ」とけなしていた。
「誰がどう見ても、天使のようなリリアに何一つ罪などない――悪いのはすべてカリーナだ!」
もっとも、そう断定した父だけではなく、この場にいる誰もがそう思っているらしい。
義母は当然ながらオリバー殿下を含め、周りに控える執事やメイド達までもがいっせいに私に非難の視線を注いでいる。
――それはすっかり見慣れたお決まりの光景。
病弱だった母が七歳の時に亡くなり、その一ヶ月後に父が再婚してからのこの八年間。私は義母とその連れ子のリリアの虚言により、繰り返しこうやって陥れられてきた。
人前で濡れ衣を着せられては悪者にされ、一方的に我儘、性悪というレッテルを貼り続けられてきたのだ。
結果、今では周囲にすっかりそのイメージが定着し、何が起こっても最初から私が悪いと決めつけられる。
それでなくても現在の公爵家には、義母に忠実でその手先のような使用人しかいない。そうでない者や、少しでも私に好意的な者は次々にクビを切られていったから。
オリバー殿下も二回しか会ったことのない婚約者の私より、仲の良いリリアの話を信じる。
まさに誰一人味方のいない、敵に囲まれた状況。
何を言ったところで無駄どころか、真実を主張すればするほど父は激高し、オリバー殿下の反感を買うだけだ。
ほぼ同じ場面を半年前にも経験していたのでわかっていた。
でも、誇り高かった母の娘として、違うものは違うとはっきり訂正せねばならない。
『いつでもどんな状況でも、正しいことは正しい、間違ったことは間違っていると、勇気を持って言える人間でありたいの』
生前の母の言葉を胸に、私は再度口を開く。
「何と言われようとも、貰っていないものは貰っていません。このドレスについてもお義母様が勝手に仕立てたもの。他に入るサイズの盛装がなかったので、選択の余地がなく着てきただけです」
さもなければ誰がこんな派手で下品なデザインのものを選ぼうか。
一同を見回して私が言い切ると、そこで父がわざとらしくオリバー殿下に頭を下げてみせた。
「申し訳ないオリバー殿下。悪いのは父親であるこの私だ。どうやら上の娘への教育を間違ってしまったらしい」
義母が父を庇うように畳みかける。
「いいえ、旦那様のせいではありませんわ。聖女の子孫であることと美しさを鼻にかけ、常に人を下に見たカリーナの態度。すべてその身に流れている傲慢な母親の血のせいですわ」
自分のことは何と言われても我慢できる。でも母のことは別だった。
「お母様を悪く言うのは止めてください!」
私がとっさに義母の暴言に抗議すると、父が忌々しそうに舌打ちする。
「まったく、いちいち私に逆らう反抗的なところまで母親にそっくりだ」
確かに母は何かと父と対立することが多かった。
でも、それは強欲で横暴な父が、領民や使用人などの多くの人を苦しめていたからだ。
「私の記憶にある限り、お母様は何一つ間違ったことをおっしゃってはいませんでした」
それにいくら折り合いの悪かった母に似ていたとしても、父にとって私は血を分けた実の娘。
なのに、どうしてここまで目の敵にするのか。義母の連れ子のリリアばかり可愛がって私を冷遇するのか。
どんなにこの境遇に慣れてもそれが理解できず、悲しい。
胸の痛みをおぼえながらも毅然と見返すと、私への忌々しさのせいか父のたるんだ顎がぶるぶると小刻みに震えた。
「なんと、強情で生意気な! これでは、来月から始まる王立学園での生活が思いやられる。この調子でリリアの足を引っ張り続けないといいが……!」
父の言う通り、イクシード王国の貴族の子女には十五歳になると王立学園に入る義務がある。
とはいえ、生まれた時からずっと領地のこの城に閉じ込められて育ってきた私は、学園に行かせてもらえるか大いに不安だった。
これまで『お前のような恥ずかしい娘を外には出せない』と、父にいっさいの外出を禁じられ、ごく少ない社交の機会も今回のように義母に悉く潰されている。
デッカー公爵家主催の集まりもあるはずだけど、父の再婚後は王都の屋敷で行われているらしく、領地に篭もっている私は一度も参加したことがなかった。
半年前の私とオリバー殿下の婚約披露パーティーすら、私が嫌がっているという嘘の理由で行われなかったくらい。
もっともそれも、今日のように夕食に呼ばれ、オリバー殿下に苦情を言われて初めて知った。
とにかく今まで異常とも思えるほど、外の世界に出ることも関わることも妨害されてきた。
しかし、父も国の定めには逆らえないらしい。
誕生日が一ヶ月違いのリリアと一緒に、私も春から王立学園への入学が決まっていた。
しかも学園は王都にあり全寮制。
つまりようやく私も人並に教育を受けられる上に、この牢獄のような生活から解放される。
そう考え、胸を弾ませていたとき、義母が大仰に溜め息をつく。
「本当に頭の痛いこと。せっかくリリアが王太子であるルシアン殿下の婚約者候補の一人に選ばれたというのに……! いいこと、カリーナ? 協力してとは言わないけれど、せめてリリアの邪魔をしないでちょうだい」
――まさに寝耳に水の話だった。
私は義母の発言の前半部分の内容に衝撃を受け、思わず持っていたスプーンを落としてしまう。
ガチャン、と皿が鳴り、はっとした私は動揺を隠すためにパンに手を伸ばした。
やはり今日も私だけ別のメニューで、目の前に置かれているのはいつもと同じパンと豆の入ったスープ。
義母の数々の捏造の中に私が極度の偏食だというものがあり、毎回出されるのはこの二品のみである。もう何年も肉や魚を見ていない。
でも、他のことと違い、食べ物については文句を言うつもりはなかった。
どんな内容でも日々の糧は、神に感謝し大切に味わって頂くべきものだから。
しかし、心が波立ったままで、食事の味がまるでしない。
それでも食べ物を粗末にしてはいけないという一心で、私はパンを口に入れては呑み下す。
一刻も早くこの吊るし上げの場から去り、一人になって落ち着きたい。
そんなふうに私が急いで食べている間も会話は続いていた。
「大丈夫。学園でのことは一学年上の俺に任せてほしい。俺が盾となって、カリーナのいじめからリリアを守ろう」
オリバー殿下が胸を叩いて請け合い、リリアが感動したように見つめる。
「まあ、オリバー様はまるで騎士のようですね」
「本当に、頼りになりますわ。オリバー殿下、ありがとうございます!」
「殿下には、重ね重ねご迷惑とお手間を取らせ、申し訳ございません」
義母のお礼に続いてうやうやしく謝罪した父は、そこで声の調子を一転させる。
「いいか、カリーナ、少しでも問題を起こすようなら、即刻領地に連れ戻すからな!」
ちょうど最後のスープの一口を飲み終えた私は、恫喝の言葉に溜め息をついてから、席を立つ。
品数と量が少なかったおかげで、素早く料理を食べ終えることができた。
「食事が済んだので、部屋に下がらせていただきます」
「待て、カリーナ!」
父が怒鳴って制止しても構わず、私は急ぎ食堂を立ち去る。
そして、ホールを歩きながら、改めて知ったばかりの事実を思った。
「リリアがルシアン様の婚約者候補……」
苦く噛みしめるように呟き、胸が切なく痛んだとき、端にある大型の置き時計が鳴り始める。
ボーン、ボーン、ボーン――
その音に導かれるように、私の心はたちまち八年前に引き戻されていった。
そう、初めてルシアン様と会ったあの日へと――
* * *
忘れもしない、あれは父の再婚祝いのパーティーが盛大に開かれた夜。
城中が祝いの雰囲気に包まれるなか、幼い私は、一人取り残されたような寂しい気持ちでいた。
そばについていてくれる者は誰もいない。
母が死ぬのを待っていたかのように公爵家に出入りするようになった義母により、生まれたときから世話してくれていた乳母は解雇されていた。
以来、広い城の中に毎日一人で捨て置かれ、私は悲しみと孤独と共に「自分はいらない子ではないか」という不安と疑念を徐々に深めていく。
だからそれを晴らしたくて、その夜、城内にある礼拝堂の祭壇の陰に身を隠したのだ。
そうして、膝を抱えながら、ひたすら祈った。
――どうか、私がいないことを誰かが気づいてくれますように。お父様が捜しにきてくれますように……と。
しかし、願い虚しく、誰も来ないまま、ただ時間だけが過ぎていく。
やがて、礼拝堂内にある時計が三度目の時打ちの音を響かせ、やはり自分を気にかける者など一人もいないのだという失望に胸が覆われていた頃。
ようやく扉が開かれる音がして、私は希望に目を見張った。
ところが、祭壇の陰から頭だけ出して覗き見て、すぐに慌てて頭を引っ込める。
なぜなら現れたのが父でも使用人でもなく、陽の光を集めたような金髪と空色の瞳をした見知らぬ少年だったから。
彼が歩いてくる気配に、私は座った格好で膝に顔を埋め身を縮める。
すると、すぐ横で足音がぴたりと止まり、いきなり声をかけられた。
「ここにいたんだね。初めまして、僕はルシアン。君はカリーナだよね?」
顔を上げた私は、天井画から抜け出てきた天使みたいな少年の美貌に目を奪われ、言葉を失った。
呆然と見返す幼い私に、当時九歳だったルシアン様はくったくない笑顔を向けてくる。
「君が見当たらなかったので、どこにいるのかと思って捜し回っていた。そうしたら、祭壇の裏から布が出ているのが見えたんだ」
どうやらスカートの裾がはみ出ていたらしい。
ルシアン様は私の手を掴み、引き上げるようにして立たせる。そして思いをこめるように両手を握ってきた。
「ちょうど遠方にいて葬儀には出られなかったけど、デッカー公爵夫人が亡くなった知らせを聞いてから、ずっと娘の君のことが気になっていた……」
気遣う言葉と手の温もりが、孤独に凍えていた小さな胸に染みる。
思わず涙が込み上げてきたとき――
「大丈夫? カリーナ」
ルシアン様に優しく問われ、涙と共に堪えていた悲しみが言葉となって一気に私の口から溢れ出した。
「……大丈夫なんかじゃない……今までずっとお母様と一緒だったのに、私を置いていなくなってしまった……私もお母様がいるところへ行きたい!」
泣きながら訴えると、ルシアン様は「辛いよね」といったん私の気持ちを受け止めた上で、こう言う。
「でも、幼い娘を残していかなければならなかったデッカー公爵夫人は、もっと辛かったはずだ。自分がいなくなった後の君のことを思って、どんなに無念で心残りだっただろう――」
そう言われた瞬間、私は目が覚める思いがした。
『お母様はいつもそんなに長く神様に何を祈っているの?』
『それはね、カリーナがこの先もずっと健康で元気なまま長生きできますように……そして綺麗な心をいつまでも持ち続け、誰にでも優しく親切にして、皆に愛される存在になりますように、と祈っているのよ』
生前の母はいつも私の幸せを願っていた。
それを思い出し、余計に涙をこぼす私の頭を、ルシアン様が胸に引き寄せてくれる。
刹那、母の温もりを思い出し、私は彼にすがりついて号泣してしまう。
ルシアン様はそんな私の背中に腕を回してぎゅっと抱き締めると、涙がおさまるまでずっとその状態でいてくれる。
さらに時間の許す限りそばに付き添ってくれた後、別れ際に、こう言って力づけてくれた。
「カリーナ、そばにいなくても、お母さんはいつも天から君を見守っている――どうかそのことを忘れないで」
私にとって、今でもその出会いの記憶、貰った優しさと言葉は、大切な宝物になっている。
そして、夢のように現れ、悲しみと孤独を癒やしてくれたルシアン様は、初恋の王子様だった。
以来、残念ながら顔を合わせる機会はなかったものの密かに彼との再会を夢見てきた。
王立学園に入学できれば二歳年上の彼と再会できると、十五になる日を心待ちにしていたのだ。
――ところが半年前、夢見る期間は唐突に終わりを迎える。
「喜びなさいカリーナ、あなたとオリバー殿下との婚約が決まったわ」
義母にそう告げられた瞬間、私はすぐに現実のことだと呑み込めなかった。
「……私が……婚約……?」
「そうよ、なんとこの国の第二王子とね。遠い昔にたった一度、聖女を輩出しただけの血筋が役に立ったわね」
母方の家系――ファロ家は、遙か昔イクス神殿を建立したという偉大なる祭司の一族。
かつてその権勢は「イクス教」が広まると共に増してゆき、最盛期には王をも凌ぐ力を持っていた。そう城の図書室にある歴史書には記されていた。
しかし子孫に恵まれず衰退してゆき、今では義母に限らず多くの者にとって「聖女の出身家系」程度の認識になっている。
「ああ、思い出すわ。十六年前、そのありがたい血を欲した公爵家によって、愛し合っていたあなたのお父様との仲を引き裂かれたことを……その後、四十も年上の老伯爵に嫁がされた私と違い、カリーナ、あなたはなんて幸運なのでしょう」
恨み言混じりに義母はそう言ったが、私にとってそれは嬉しいどころか「初恋の終わり」を意味する、辛い知らせだった。
婚約者がいる身で他の男性を慕い続けるなど許されない。
そう思った私はその日、ルシアン様への恋心を断ち切る決心をした。
でも、どうしてもうまくいかない。
いくら考えないようにしても、ルシアン様のことばかり頭に浮かんでしまう。
婚約話を聞かされただけで、こんなにも心が乱される。
依然、私の中でルシアン様への想いは大きいままだった。
でもそれは考えてみれば仕方のないこと。
私にとってルシアン様の存在だけが、長く心の支えだったのだから。
この八年間、周囲からの酷い仕打ちに耐えられたのもルシアン様のおかげだった。
* * *
辛い記憶が蘇ると共に、はっと物思いから覚め、私は急ぎ自室に戻る。
そして中に入るなり扉に鍵をかけ、真っ先に部屋を留守にしたときの習慣――壁の鏡板を一枚はがして奥に隠してある母の形見の無事を確認した。
それは渦巻く波をかたどった凝った細工の銀の髪留め。
たった一つだけ残された私の宝物だった。
他の大切なものは、義母やリリアの命令を受けたメイドによって全部奪われている。
ベッドの下に隠そうと、服の下に身につけていようと気づかれ、それで終わりだった。
そのトラウマから、これだけは守りたくて、決して持ち歩かず、慎重に部屋に隠すようにしている。
髪留めを見てほっとした私は、ようやくけばけばしいドレスを脱ぎさり、室内にいるときの定番の格好――シュミーズ姿になった。
私が持っている服はすべて義母に押し付けられた悪趣味なものなので、下着でいるほうがましなのだ。
室内にある調度品に関しても一見数多く豪華だが、物置代わりに使わなくなったものを詰め込まれているだけ。
だから、いっさい未練はなく、ほぼ身一つでここから出ていける。
家具は王立学園の寮に備え付けのもので充分だし、服も制服があるのでほとんどいらない。
問題があるとしたらものより、私自身の知識や経験不足だろう。
それでも新生活への不安より、期待のほうが圧倒的に上回っていた。
母を亡くして以来ずっと人の温もりに餓えていた私にとって、新しい環境で一から人間関係を築けることが特に嬉しい。
入学までの日数を指折り数え、期待に胸を膨らませる。
――学園に入ったら、お母様の願いを叶えるためにも、たくさん友達ができるように頑張ろう。
「できれば、お互いをわかり合えて、心が通じるような相手と出会えるといいな」
一番の願いを口にしながら、やはり脳裏に浮かんだのは、幼い私の悲しみに寄り添ってくれたルシアン様の顔だった。
あの日貰った優しさと言葉に、これまでどんなに救われ、励まされてきたか。
たとえ恋心は明かせなくても、いつかそれだけはルシアン様に伝えられるといいなと願った。
第一章 学園生活の幕開け
待ちに待った王立学園への移動は、入学式の前日。
リリアやメイド達が乗用馬車なのに対し、私は幌付きの荷馬車に乗せられての出発となった。
それでも、生まれて初めての外の世界と旅は新鮮で楽しく、リリアの衣装箱や家具に囲まれての窮屈な長時間移動も苦にならない。
これまで領地の城の中庭しか外に出たことがなかった私は、後ろを流れていく景色を見ているだけでも飽きなかった。
ただ、昼過ぎに出たので王都に入る前に日が落ちたことが寂しい。
目的地である王立学園の高い鉄柵門に囲まれた広大な敷地に入ったのは、辺りがすっかり夜闇に包まれた頃だった。
旅行鞄を持って寮の前に降り立った私は、期待に胸を高鳴らせながら、ついに新居に足を踏み入れる。
――そして、そこでさっそく厳しい現実を突きつけられた。
待ちかねていたように玄関ホールに並んでリリアを出迎えるたくさんの令嬢達。彼女達から冷ややかな眼差しと聞こえよがしの噂話を向けられる。
「リリアさん! 良かった。到着が遅かったので心配しておりましたわ」
「ええ、また新しい怪我を負わされたのではないかと」
「ねえ、その方が例のあなたをいじめる底意地の悪いお姉様?」
「聖女の血筋が聞いて呆れるわ。虚言癖に癇癪と暴力だなんて最低ね」
建物に入ったとたん令嬢達からいきなり中傷された私は衝撃を受けて固まった。
底意地が悪いのも虚言癖があるのもリリアのほうだし、暴力なんて私は一度もふるったことはない。
わざと怪我して私にやられたふりをするのはリリアの常套手段。入寮がぎりぎりになったのも、私と違って持ち物が膨大なのに荷造りしないで遊び回っていたリリアのせいだった。
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