ひまわりの涙

ゆうぜん

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塔坂の提案で俺は涙を流さず我慢することを余儀なくされた。それは俺にとって難しいことで、決して楽に出来るものではなかった。リハーサル二日目。二人だけで練習をしていたが時間が経つにつれて涙は枯れていった。どうしたら我慢できるのかわからないまま、リハーサルは終わった。
「本番まであと二日……どうしたらいいんだ……」
悩んでも出てこない答えに俺は焦りを感じていた。ソファに横たわり腕を額に当てそのまま目をつむる。一日中考えて疲れた頭はもはや使い物にならず、自然とため息が出る。
「お疲れ様。どう、上手くできそう?」
その声に俺はまぶたを開く。母さんがマグカップを持って俺を見ていた。
「上手くできるように頑張るしかないかな。まだ完成したわけじゃないから…」
答えながら俺は体を起こし、母さんの隣に座りなおす。持ってきてくれたマグカップを受け取り、ひとつ飲む。
温かい空気が、自然と言葉を零れさせる。
「母さんは……俺の癖、どう思ってる……?」
ずっと聞いてみたかった。でもどう思われるか分からなくてずっと聞けずにいた。迷惑だって思われてるかも、悲しい思いをさせてるかもしれない。俺が泣いた時、母さんはいつも寂しそうな顔をする。その意味が分かっているのに俺は……
「璃人は優しい子だから私のために無理をしているのは分かってる。それが自分の中で苦しくなって、癖になってることも」
見破られていることは承知だった。心が悲しみに耐えられなくなって、疲れている。我慢することが出来なくて、溢れ出る涙はその疲れを倍増させる。
「涙が出るのは璃人が優しいからよ。たとえそれが自分でコントロール出来なくても、誰か止めてくれる人が側にいる限り、我慢なんてしなくていいと思うわ。璃人が癖だと思うその涙の中にはちゃんとあなたの心が入ってるもの。私が言うのも変だけど、お母さんは璃人の涙が好きよ」
心地良い声が疲弊した心にそっと寄り添う。我慢しなくていい。涙が好き。その言葉が心に水を与える。。枯れていた涙がマグカップの中に落ちていく。
「俺……母さんを、笑顔にしたい。泣いて欲しいんじゃなくて…笑って、欲しいんだ…だから……」
俺は母さんを見て、
「頑張るね」
困ったように笑い、頷いた。その笑顔が心にのしかかり、余計涙が出てしまう。すぐ横で泣くのなんていつぶりだろう。
俺は考えることをやめ、ただただ泣き喚いた。



「限界に近いよ。あの子の心は」
不思議なオブジェが寝ている俺の顔を見て言った。見た目は案山子かかしの様で、頭に麦わら帽子を被り、体の真ん中には渦を巻く謎の空間がある。
そいつは俺の周りを飛び跳ねて弾んだ声で言う。
「君は自分の問題をもう自分で超えられるくらい強くなってる。でもあの子は違う。自分で押し殺して耐えてる。そうやって徐々に擦り切れていく心を無視してるんだ。君にはあの子の本当の心が分かるかな?」
俺は体を起こしその場で跳ねる案山子を見る。
「俺は知りたい。あいつが抱えているものを。話して欲しい、俺に」
草が揺らめき青く輝く空は段々と曇っていく。案山子は一本しかない足で俺に近づき、目の前まで来ると藁でできた手で俺の胸ぐらを掴んだ。
「それじゃあ……この恐怖を知るがいい」
雲が空を覆い、光るものが降ってくる。
目を凝らして見てみると、それは刺繍針だった。空から降り注ぐ針は草原に刺さり、刺さった箇所からは真っ赤な液体が溢れていた。
途端、俺の右太ももに激痛が走った。足をおさえ、地面に倒れる。何かが刺さった様な鋭い痛みが足を駆け巡り、俺は苦痛に顔を歪ませる。
「こ、これは……」
半開きの目で案山子を見る。
地面に刺さる針を抜き、それを別のところへと刺す。すると今度は頭を鈍器で叩かれたような衝撃が走った。
「はあ…、あぁっ……」
まともに起き上がることができず、その場にのたうちまわる。一体どうなってるんだ。この痛みは、空から降ってくる針は一体何なんだ。
「うぅ…」
頭の中を痛みが主張して何も考えられなくなる。
ガンッ!という音とともに頭をおさえていた手が地面に張り付き、全く離れない。両手を広げ、足と頭の痛みと戦いながら目を開ける。
案山子は俺の顔を覗き込んで言った。
「これがあいつの抱える痛みと恐怖だ。そしてそれをどうすることもできない不安だ。お前はこの状況をどう脱出する?」
呼吸が整わない。苦痛に顔をしかめて俺は必死に頭を働かせる。
落ちてくる針。刺さった場所から流れる赤い液体。体とリンクしているのか、案山子が刺した瞬間痛みが走る。離れない手。動くのは目と口だけ。痛みに耐えながら考え続けることは、不可能。実際、先程までとは比べ物にならないほど痛みが激しくなって、頭の中を駆け巡っている。ガンガンと鳴るたび頭がふらついて視界もおぼつかなくなる。
薄く開いた目には針を持つ案山子が映る。そいつの体の謎の空間がやけに気になった。思い頭を起こし案山子に声をかける。
「お前……その、空間は一体っ……なんなんだ」
案山子は振り返り俺のところへと歩いてくる。手が顔の近くまで出され、目の前に闇が広がる。渦を巻く空間は見ているだけで全身を震え上がらせた。
だが、同時にチャンスだと思った。俺は差し出された手を噛んで一気に引き寄せる。
体は倒れ、俺はその渦の中に頭を入れた。
目を開けるとそこは暗い何かが台風のように空間を激しく取り囲んでいた。暴風の中俺は目を凝らしを見る。
吹き荒れているのは文字だった。よく見ると短い言葉ばかりが辺りを包み込んでおり、その文字に俺は見覚えがあった。
「わ、すれないで……怖い……痛い…不安、喪失…」
これは……あいつの心の中なのか。言葉が渦を巻き、それが集合して闇を作っている。呆気にとられるのもつかの間、まるで磁石でくっつくかのような衝撃で頭が闇から遠のく。強制的に戻された。すると噛み付いた手が今にも外れそうな勢いで俺の髪を引っ張った。
「よくも、よくも心の中」
俺は言い終わる前に口を開いた。
「お前はすげぇやつだよ!!」
声が響いて草が大きく揺れる。雲は一気に晴れ、針はもう落ちてこない。案山子は一瞬たじろいだが、片手に持っていた針を俺の脇腹に勢いよく刺した。
「ぐあっ…!」
血が吹き出し、一気に力が抜ける。案山子が掴んだ髪に頭の重みが乗り、一層痛みを感じる。目をつむり、口から滴る血が言葉を濁す。
「なん…で、話してくれ……なかったんだ……俺、ば……お前を、理解……したい……お、おれ…は……」
残る力全てを案山子を睨むことに集中する。口に溜まる血を吐き出し、むせる。それでも目だけは案山子を見つめていた。
「生きろよ……とう、さか……にげるな……おれは、お前を……」
目に光が無くなり、掴んでいた手から髪が抜ける。震える手が、体が、立ち上がる動作をおぼつかせる。後ろから差し込む光が案山子の本当の姿を映し出す。逆光に照らされるその姿は塔坂葵そのものだった。依然流れ続ける血は草をかき分けみるみるうちに広がっていく。針が刺さったままの地面と合わさり世界が青と赤に染まる。
顔をあげ、どこまでも続く空を見る。
一人たたずむその人は、果てた世界に何を見ているのだろう。頰から流れる涙は、一体誰に向けられた涙なのか。それは誰にも分からなかった。



目を覚まして世界を見つめる。心にある闇は光を浴びぬまま、体を蝕んでいく。カーテンを開け、朝日に照らされる部屋。その眩しさが身に染み、目を細める。ゆっくりとドアへと歩みを進める。するといきなり携帯が鳴った。驚きつつも画面を見る。そこには短い言葉が表示されていた。
"今日、頑張ろうぜ。ちゃんと見てろよ"
力のない笑みがこぼれ、携帯を手に持ちながら部屋を出る。

朝ごはんを終え、時計を見る。もう出る時間だ。急いでカバンを持ち、両親に手を振る。今日は二人共来ると言っていた。自分の脚本をどう思うか気になるな。
玄関の扉を開け、涼しい風に身を投げ出す。
今日だ。勝負の日は。
僕は明るい空を見上げ手を伸ばす。
どうか、劇がうまくいきますように。そして、璃人がちゃんと、



教室の外まで声が聞こえた。もう間も無く始まる祭りに高揚感を隠しきれない人で溢れているのが分かる。今日、明日行われる文化祭で演劇部の舞台は一日目の14時から始まる。それまで璃人と空と見て回りたいな。
僕は教室に入って真っ先に璃人に声を掛けた。
「おう、いいぞ!母さんも今日はお昼食べてから来るって言ってたからそれまで見に行こうぜ」
「俺は姉弟来るから少ししか回れねぇ、ごめんな」
「大丈夫、璃人と後でいじりに行くから」
「お前俺にもからかい始めたな!?」
思わず笑ってしまう。心が、軽い。これからみんなで笑って過ごす時間が楽しみでしょうがない。
「座れー、朝礼始めるぞー」
明るい空気がその一声で一気におさまる。内から溢れる思いはみな同じで、先生もそれを分かっていた。
「今日は文化祭一日目。クラスの模擬店、有志の発表、演劇部も今回は相当力が入ってるらしいな。各々楽しく、そしてルールを守ってしっかりやれよ。先生も楽しみにしてるからな」
ドッと笑いが起きる。この空気を遠くから見るのが僕は好きなんだ。みんなが笑ってる。期待に高揚に色々な思いが交差する時間。それは祭りが始まったら薄れていってしまう。この、祭りが始まる前の時間が好きなんだ。頬杖をついて僕も笑う。横を見れば遠くで璃人が一人だけ外を見ていた。何を、見ているのだろう。璃人だけ、何か違うことに心を奪われている。それは外なのか、あるいは自分の内にある思いになのか分からない。でもこの状況を見ないで違うことに集中しているってことは璃人にとってそれは大切なことなんだと思う。僕は前を見る。
「さあ、体育館に集合だ。遅れるなよ」
先生は一足先に教室を出た。僕も席を立ち、璃人のところへ行く。途端、誰かに腕を引っ張られた。振り返ると、真面目な顔をした空がいた。
「どうしたの、空」
「璃人は今集中してるんだ。あいつ、前の段階で気持ちを作っておかないと舞台に集中できないやつだから」
そっか。それは邪魔しちゃ悪いね。僕は空の言うことを聞き、教室から出た。


「それで。決まったのか、覚悟」
ピクリとも動かない頭に手を乗せる。ゆっくりと顔が正面を向く。
「うん、大丈夫。決まった」
「そうか。んじゃ、頑張れよ」
預本が頭をポンポンする。覚悟は決まった。あとはこれをあいつが受け取れるか、だ。俺は席を立ち預元の横を通り過ぎる。今日は俺にとってもあいつにとっても覚悟のいる日なんだ。それを、あいつは気付いているのだろうか。


12時半。文化祭が始まって2時間が経った。俺たちのクラスは外で焼きそばを作っており、クラスのほとんどは調理や接客に徹していた。俺たち3人は演劇部で忙しいことが分かっているのでクラスの方は担当していない。なので午前中は自由に見て回れる。
塔坂はあちこち教室を見てはクレープを食べたりゲームをしたり作品を鑑賞したり、文化祭を思う存分楽しんでいた。あまりにも目を輝かせながら言うので俺も仕方なく付き合ってやった。正直書道部や美術部は見ていてもすぐに飽きてしまったが、塔坂は食いついて見ていた。やはり同じ創作をする人にとってはどれも面白く見えるのだろうか。俺には分からないや。
ある教室の前で塔坂の足が止まった。そこはいかにも不気味な装飾がしてあり、俺は静かに後ろを向いた。だが、塔坂は俺の首根っこを掴み、無理矢理引っ張った。
「やめろぉ!!俺は行かないぞ!!」
「あれ、璃人怖いのー?」
「…うぐ」
「あれ、古海先輩と塔坂先輩?」
「ん?」
教室の前の受付で座っていたのは、1年生の南雲さんだった。ちょうどそこに加賀美君もいて、二人で何か話していたらしい。
「僕と璃人で、お願いします」
「はい。ではこの懐中電灯を持って中に入ってください。途中、どこかに巾着袋が落ちているので、それを拾って帰ってきてください。それでは、楽しんで」
教室のドアが開き、塔坂の後ろに隠れながら前に進む。完全に閉められ、辺りは道を照らすほのかな明かりだけで、全体的に暗かった。塔坂は懐中電灯を持ち、ワクワクしながら歩いていた。俺は後ろで袖を掴みながら歩く。前を見ている塔坂がいきなり止まった。恐る恐る前を見ると、そこには小さな鏡があった。
「これ、普通の鏡かな?」
「さ、さあ……ほら、関係無いなら早く行こうぜ」
「あ!」
「なんだよ!?」
塔坂は懐中電灯の電源を入れたり消したりしていた。そこでふっと明かりが消え、懐中電灯は役に立たなくなってしまった。
「え。電源切れたの?」
「らしい。まあ、このくらいの暗さなら目を慣らせば見れるよ。さ、行こう」
「お、おう…」
唯一の頼りがなくなってしまい、一気に怖さが増す。はぐれないよう、必死に袖を掴む。
「そんなに怖い?」
塔坂が笑っているのがわかる。馬鹿にしてるなこいつ。
「暗い所は……苦手なんだよ」
「へえ、おばけも?」
「…………ぁぁ」
「なんか意外。そういうの平気そうなのに」
「意外も何もあるか。ほら早く行こうぜ」
俺は耐えられず塔坂の背中を押す。
「分かった、分かったから。璃人も巾着見つけられるように周り見といて」
「ああ」
どこからか聞こえる不気味な音と共に、後ろから足音がした。振り返ると首を落とし、こちらに迫る男が俺を見ていた。
「ちょ、塔坂!はやく、はやく前に!」
「よーし、行こー!」
塔坂の声は弾んでいて楽しんでいるのがわかる。それに比べて俺は迫り来る男に怯え、塔坂の背中をバンバン叩いていた。早足になる塔坂の後ろを必死について行き、後ろをチラチラと見る。良かった、もういない。角を曲がったところで男はもう追っては来なかった。
「あ。これ巾着じゃない?」
壁に貼ってあった薄いカーテンをめくり、鏡の前に置いてある巾着袋を指差し塔坂はそれを持つ。
「よし、巾着見つかったしこんなとこ早く出よう」
辺りを見渡しながら袖を掴もうと、手を伸ばす。だがその手はくうを掴み、呆気なく振り下ろされる。
「塔坂?おい、塔坂!」
「……あきと!」
遠くから聞こえる声を頼りに俺は薄暗い廊下を進む。途端、足に何かが当たる。下を見ると、廊下は手で埋め尽くされていた。気味の悪い光景に、体が震える。ゆっくり足を踏み入れ、慎重に進む。
「と、塔坂……どこだ?」
震える体をおさえ、手が埋め尽くす廊下を歩き終える。先に見える角を曲がろうと歩調を早める。
「うわあ!」
塔坂がいきなり飛び出し、大きい声を出す。
「おわあああ!」
驚き過ぎて後ろに尻餅をついた。
その様子を笑いながらみる塔坂に怒りを感じ、俺はすぐさま立ち上がる。
「お前!ずっと俺をおどかそうとしてたのか!」
「いやぁ~ごめんごめん、あまりにも面白くてつい……はぁ、笑った。ほらもう出口だよ、安心して」
塔坂の後ろにはドアがあった。俺はそれを見つけると一目散に飛びつきドアを開けた。
開放的な空気、明るい廊下に俺は息をついてその場に座り込む。
「お疲れ様でした。無事巾着は見つかりましたか?」
「うん。ちゃんと見つかったよ、でも途中で懐中電灯が切れちゃって、璃人が大騒ぎしてさー」
「それはいいだろ!?」
「すみません、こちらのミスで……これは使わないように言っておきます。それとこれは巾着を探し出した人にあげてるお菓子です。良かったらどうぞ」
「わあ、ありがとう南雲さん。ほら璃人もそんなところで休んでないで受け取って」
塔坂の呆れた目を横に俺はへろへろになりながら南雲さんからお菓子をもらう。
「あ、ありがとう…」
「楽しんでいただけて何よりです!」
「うん……じゃあまた後でね」
「はい」
俺たちは教室を後にし、廊下を歩く。塔坂はさっきもらったお菓子を食べ、嬉しそうに外を見ていた。
「僕、こんな風に誰かと文化祭を楽しむことってなかったからなんだか夢みたいだ…」
その言葉の通り塔坂はどこに行っても楽しそうにしていたのを俺は見ていた。
だからこれを言わなきゃいけないのが躊躇われる。この空気を乱したくない。でも言わなきゃ……言って塔坂の本当の気持ちを知りたい。
「塔坂」
「なに?」
笑って振り返る塔坂はどこまでも真っ直ぐで、それが俺の言葉を詰まらせる。
「あの……えと……」
言葉を待つ間塔坂は俺から目を離さなかった。それは俺の言葉を聞こうとする姿勢で、俺の口から出る言葉を待っている姿勢で。
それを見て覚悟は決まった。俺はやっと言葉を放つ。
「お前は……今の時間が、楽しいか?」
「?……うん、楽しいよ」
「じゃあ…………お前が今……生きていることも?」
一瞬目を見開いた。だが意味が分からなそうに頭を傾げる。
「どういうことかな?」
俺は一歩前に出て塔坂の目を見る。
「お前が!生きることを諦めてるように見えるんだよ!楽しいことを楽しいと感じて、一緒に笑って俺だって嬉しいのに、お前はそれをどこか引いて見てる。この前図書室で勉強してた時に見たんだ。お前のノートにワスレナグサの花言葉が書いてあったのを。それはお前が隠してる本当の気持ちで、でもそれと同時に諦めた心なんだ。どうして!どうして今生きてるのにそんなこと思うんだ!お前は…………死にたいのか?」
重い言葉を放つ口は震えていて、拳を握る手に力が入る。目の前の塔坂は何も言わずただ黙っていた。下を向き、表情が見えない。
その態度に俺は思わず塔坂の胸ぐらを掴んだ。
「なんとか言えよ!!」
うなだれる頭に、前髪が垂れ、隙間からこちらを見る目が見える。
襟を掴んでいた手が横に弾かれる。
「君には関係ないだろ!?」
廊下に響く声に、俺は驚いた。
塔坂の体が後ろを向き、その場を離れようとする。途端、勢いよく地面を蹴り、走り去る。それを追いかけようと俺も足を動かす。
「璃人!」
動いていた足が止まった。見開いた瞳は体ごと後ろを向く。
「母さん……」
俺の顔を見た母さんは俺の腕を引っ張り、
「璃人のクラスはどこ?実は私璃人のクラスが焼きそばを作るってしおりで見たからお昼食べてこなかったの。璃人もお腹空いたでしょ、食べに行きましょう」
「で、でも母さん……」
「ほら早く行って食べないと劇の時間に間に合わないわよ」
裏庭の時計を見るともう1時を過ぎていた。確かにそろそろ食べたほうがいいかもしれない。先へ行った塔坂のことを気にしつつ、俺は母さんの手に引かれて外に出る。


昼時ともなると人は多くなっていた。ちらちらと辺りを見つつ、俺のクラスの出店に案内する。すると出店近くのテーブルに座る預本を見つけた。俺は母さんが列に並んでいる間、預本に事情を話した。
「そうか。まあ、確かに分かったような口聞かれたらそうなるわな。で。塔坂を探すのを手伝ってほしいと」
「あぁ。頼む」
「分かったよ、俺も家族とは一応会えたしな。ただ、今からだともう時間がないぞ。劇が終わってからじゃダメなのか?」
「……今見つかったとしても話し合いが劇の開始時刻までに終わるとは思えない。だったら終わった後の方がいいのかもしれない……どうせあいつ体育館に来るだろうし」
「だな。誰かクラスのやつに頼んどくよ。劇が終わったら塔坂を引き止めるようにって」
「ありがとう、預本」
笑いながら預本は空になった焼きそばのパックを捨てる。
正直心は重いしこのままの状態で演じるのは気が引ける。だが、終わった後のことを考えるより、今はもうすぐ始まる舞台の方に集中しなくては。塔坂と演劇部のみんなで作り上げた舞台を成功させる為に。
俺は母さんのところへ行き、焼きそばをもらう。近くにひとスペースだけ空いていた場所に母さんを座らせ、俺は立ちながら麺をすする。
「うん。美味しい。私より上手かも」
「確かに美味い。母さんに負けるけど」
「あら、嬉しい」
お互い笑いながら食べ進める。
この時間が堪らなく苦しくなる。周りが笑顔を見せているのに、さっき放った言葉が俺の頭を駆け巡り、重圧で押し潰されそうになる。
「璃人。大丈夫?緊張してる?」
母さんが優しく声をかけてくれる。
「全然平気だよ」
「そう。私は楽しみにしているけど、璃人自身が楽しまないと意味がないわ。緊張はあなたが楽しむ為のスパイスなのよ」
「それ、ドラマのセリフでしょ」
「当たり。今の璃人にぴったりよ。それに今日はビデオカメラも持ってきたの」
カバンから取り出したそのカメラは記憶の中の楽しい記憶を引っ張り出すかのような懐かしさを思い出させた。
「父さんがよくそれで撮ってくれたっけ。まだ使えるんだ」
「……璃人が楽しいことは私もずっと撮っておきたいもの」
カメラに触れ、優しい表情が少し寂しくなる。
「璃人!そろそろ行くぞ!」
遠くで預本が呼ぶ。
「じゃあ母さん行ってくるね」
「楽しんでらっしゃい」
手を振る母さんに笑顔を送る。
時計を見ると、もう30分を過ぎていた。
「塔坂のことは言っといたから、お前は劇に集中しろよ」
「分かってるよ」
大急ぎで理科室に駆け込む。そこにはほとんどの人が集まっており、衣装や小道具のチェックをしていた。俺はクラウンの衣装とポルカの私服を持ち、隅に行く。
「お、いいじゃん。クラウンの服!美術部の人に聞いて正解だった」
「なにが?」
「お前が伝言届けに来てくれたやつだよ。美術部の人に暗い場所で目立つ色は?って質問したやつで、"青より黄色の方が目立つ"って教えてくれたじゃん」
「あぁ、あれそういう意味だったのか」
確かにこの衣装なら遠くからでも見やすそうだ。羽やフリルが沢山付いていて、舞台では誰よりも目立つに違いない。
俺たちは着替えを終え、体育館に続く廊下を歩く。
こっそり舞台袖に行きわきで出番を待つ。携帯の画面を見る。あと10分で始まる。心臓の鼓動がうるさく、気を紛らわすため預本のそばに行く。
「今緊張してるか?」
深妙な面持ちで舞台を見る預本は、首を縦に振った。
隣でこうやって出番を待つ時間も、慣れない緊張も、全ては預本が誘ってくれたからで、俺は少し笑った。
"楽しんで"。"お前と舞台に立てることが何よりも嬉しい"。そう言ってくれる人の為にも俺はこの舞台を成功させなければ。そこでふと思い出す。本番で涙を我慢しなきゃならないことを忘れていた。まだ一回も成功していないのに、本番で出来るのか?不安が俺の心を支配する。
「なーにしけた面してんだよ!」
急に預本の明るい声が聞こえ、体が横を向く。
「今更悩んでも仕方ねぇだろ。舞台上ではお前はクラウンで、俺は支配人だ。どう足掻いてもお前は道化なんだ。面白おかしく舞台を支配してみろ。お前の才能を、ぶちかませよ」
拳を握り、腕を前に出す。
「調子いい奴。飲み込まれても知らねぇぞ」
お互いに拳を合わせ笑い合う。預本のお陰で緊張が解けた。舞台袖にいるみんなの顔を見渡し、最後にカーテンの隙間から眩しい光を放つ舞台を見る。
「只今より、深山高校演劇部による舞台『クラウン』を開演致します」
アナウンスとともにセットが動き出す。音楽が鳴り、ナレーションが入る。
さあ、お道化てやろう。最高のクラウンに。
は靴を鳴らして地面を蹴る。笑い声と共に舞台の真ん中で回る。観客の視線が僕に集まるのが分かる。
「僕の名前はポルカ。サーカス団のクラウンとしてみんなを笑わせる愉快な男さ!」
笑顔が不思議と零れる。いきなり舞台に登場した男はスポットライトを浴びて輝く。それは空を舞う蝶のように優雅で、かと思えば暴れ馬のように激しく体を動かし見るものの笑いを誘う。いつのまにか懐から出した丸い玉を投げながらギャグを飛ばす。
背面で玉をキャッチし、拍手が起きる。僕は満足した笑みを浮かべながらお辞儀をする。
「さあて、ここからは不思議な話。あるところに、勇敢な兄と家族思いの妹がいましたとさ……」
舞台が暗くなり、セットが変わる。
僕は衣装チェンジのため袖にはける。ここからは兄妹の話が始まる。
少しだが舞台に上がって全体を見渡せた。奥は見えなかったが手前の方に母さんが座っているのは見えた。塔坂の姿は確認出来なかったが、これから舞台に上がる機会はいくらでもある。気にしつつやっていこう。
「ルミア!大丈夫か!この森を抜ければ…!」
「お兄…ちゃん……」
繋いでいた手に重さが乗る。倒れたのだと分かり、ケインはとっさに体を支えておんぶする。
「待ってろ。すぐ森を抜けるからな」
振り絞るような声で励まし、自身の力の限り一歩、また一歩と歩みを進める。
だが、いくら歩いても同じような木ばかり。次第にはどこから来たのかさえも分からなくなった。
ふらふらとおぼつかない足取りに力が抜ける。そのまま崩れるように地面に倒れた。
「は、やく……奴らが追ってくる、前に……!」
伸ばした手はどこにも届かず、音もなく力尽きた。辺りが暗くなり、闇が広がる。
暗闇でセットが動き、僕も持っていた椅子を舞台の真ん中に置く。
舞台が明るく照らされ、そこには一つの部屋が浮かび上がる。
ひとつのベッドに横たわる兄妹。近くで椅子に座り二人を覗き込むポルカ。
ぴくりとまぶたが開き、体を起こす。
「ここは……どこだ?」
「良かった、目が覚めて……」
ここからは稽古でもあった通りポルカと兄妹が初めて会う場面になる。
僕は安堵の笑みを浮かべた。


劇も中盤に入り体が少し重くなる。それは精神的にも体力的にも負荷がかかる。僕はサーカス団のみんなと舞台を盛り上げていた。世界を巻き込む音楽が観客の拍手と笑顔を作り出す。
「また、皆様に素敵な夢を届けに参ります。本日は誠にありがとうございました!」
陽気な声が会場を包む。キャストがはじからはけていく。舞台が仄暗くなり、鈴虫の声が聞こえる。誰もいなくなった舞台の真ん中でポルカは上を見上げる。
「僕は……今日もうまく出来ただろうか。観客の心からの笑顔を引き出せただろうか……」
頭上に輝く星は、今にも消えそうな弱い光を放っていた。見上げる度に一つ、また一つと輝きが失われていく。いつかはこの広い空から星が消えてしまうのだろうか。そんな不安がポルカにはあった。飲み込まれそうな闇に佇む僕は、下を向き、ゆっくりと歩き去る。


日々募る不安がポルカの周りを少しずつ変えていく。自分一人で飛び込んだ世界は、僕に笑いではなく冷やかしや罵倒を投げつける。笑いの中に生まれる、醜い心。それがいつしか当たり前になって、サーカス団の演目の最後にクラウンは出るようになった。観客が待ち望んだように僕が出てきた途端拍手や声をあげる。その行為の意味ももう嬉しいものではなくなった。
僕は舞台の上に立つ人間だ。だからどんなに辛いことがあっても決して笑顔は崩さない。
「今日も俺たちにくっだらないギャグを飛ばしてみろよ!」
「最高に可笑しいわ!」
「笑いの天才ね」
次々に聞こえる声が頭の中に響いてくる。
「これも使えよ!」
舞台上に投げられたのはついさっき食べ終わったばかりの肉の骨だった。僕はそれを掴み、ステッキのように回す。
止まない笑い声と言葉。うるさいくらいに吐き出される音の中で、最前列にいた男が誰よりも小さな声で言う。
「物を投げられ、騒音がお前を包む。その全てがお前への祝福なんだよ」
ポルカに浴びせられるどんな音よりもポルカにはその言葉がまるで耳元で囁かれたようにはっきりと聞こえた。
笑顔が、弾むステップが、ゆっくりと歪んでいく。音という音が体全体に重くのしかかり、刃物のように心を切りつけ、ポルカという存在の動きをやめさせる。
舞台に上がる人間として笑顔は絶やしてはいけない。それなのに、ポルカにはもう限界だった。下を向き、持っていた骨を落とす。何もしなくなったポルカを見て、観客は声を、投げる動作を、あげていた手を、ストップさせた。辺りが静寂に包まれる。
やがて一人がつまらなそうな顔をして席を立つ。持っていた物をその場に置き、帰っていく。ぞろぞろと会場から人がいなくなる。誰も声を出さず、物も投げない。そのかわり、ポルカを虚無の目で見る。残された空気はよどんでいて、笑顔を失ったポルカはそれが心地よく感じた。
横から出てきた支配人がポルカに向かって言う。
「ちょっとこっち来い」
怒りに満ちた声に従い体は動く。心が折れたポルカの瞳には少しの光も宿っていなかった。


傾く夕日は面妖な森の中に届かず、そこに入る二人の男の姿も目に入らない。霧が立ち込み、これから襲いくる夢幻の空間を演出する。
髪を引っ張り、太い木に体を打ち付ける。空になった体はその反動で地面に倒れた。
「おい。こっちに持ってこい」
誰かに話しかけ、足音は遠ざかる。残った男はポルカに近づき座り込む。
「お前がそうなるのを待ってたんだぜ、ずっと。ずっとな」
不敵な笑みを浮かべる。ポルカはそれを見ず、ただ地面に頭をつけていた。
「……して!……離してよ!」
遠くから聞こえた声にポルカの体は反応する。ゆっくりと頭が上がり、近づいてくるを見ようと体を起こす。
視界に入るその姿に、ポルカの目は見開く。
「……!」
両腕を押さえられ、激しく抵抗する二人。
かつて夢を語り、笑顔に救われた二人が今目の前で縛られている。どうして。無事家に着いたと手紙が来たのに!動揺する頭で目の前に立つ男を見る。
「お前が笑顔を失った時。それはお前の存在意味がなくなった時だ。誰にも必要とされず、浴び続けた苦痛はお前の精神を蝕み、やがて空っぽになる」
マントを羽織った男性の懐から剣が姿を現わす。それを受け取り男性はゆっくりポルカに近づく。
両手を縛られ、なお足掻く兄妹達。ケインは空になったポルカに言葉を放つ。
「ポルカ!!お前言ってたよな、みんなを笑顔にしたいって!あん時のお前はキラキラしてて、笑顔が眩しくて、俺たちに希望を見せてくれた。なのに!お前が笑顔じゃなくてどうすんだよ!!」
真っ直ぐな言葉は軽くなった体に響き、その圧に立ち上がる体がよろめく。
「お前が笑うことはもうない!一生な!」
「ポルカ!!」
笑い声と叫びが響く。
ーー
虚ろな目はそこにいる観客を睨んだ。やがて力なく歩き、舞台の真ん中へと移動する。
下を向きながら、胸を抑えながら言葉を吐き出す。
「……苦しい。苦しいんだ、ケイン……」
絞り出したその言葉をケインとルミアは悲痛な表情で受け止める。
「人を笑顔にするのって大変なんだ。孤独なんだよ……浴びせられる罵声も冷やかしも受け止めなきゃいけない。独りで抱えるのは苦しいんだ……耐えられないほどつらくて、独りで流す涙は、寂しいんだ……」
弱々しく、呟くように言う。その声は震えていて、今にも消えてしまいそうだった。
「でも……」
みんなの視線が僕に集まるのが分かる。今にも零れ落ちそうな涙が目の前を覆う。決意したように前を向く。辺りを見渡し固く閉じた口に言葉を乗せようと息を吸う。
ーーそこで、視界に入ってしまった。舞台から見えるギリギリの位置、照明の反射が、持っていたカメラを暗闇に映し出す。カメラを顔の横に添えて真っ直ぐこちらを見るその顔は、溢れる涙で濡れていて、しゃくりをあげるのが分かった。嘘、だと思った。見開いた瞳が、驚いた表情がその顔から離れない。今は大事な場面で、成功させなきゃいけないのに、がどうしても表に出てしまう。下を向き、涙が溢れてしまう。
塔坂に怒られる。ここまで順調にいってたのに、我慢しようとしていたのに。
でも…でも……!
心は古海璃人だった。ポルカになれず、が出てしまう。だって、母さんが、泣いてるんだ。あの時から一回も涙を見せなかった母さんが、今、泣いてる。
それだけで胸が苦しくなる。胸を押さえていた手に力が入り、嗚咽が漏れる。
舞台上でただ一人のために泣く自分を観客はどう思っているのだろう。ポルカになれない自分を、どう思っているのだろう。
「ぐす……はあ……っ……」
なんとか高まる鼓動をおさえ、再び前を向く。
「辛い時…どうしようもない時……そういう時に支えてくれるのは、いつだって……心にある笑顔だった」
詰まりながらも言葉を放つ。ケインとルミアの顔を見る。これはポルカの叫びであり、魂のこもった大切な思いだ。
「僕は!!……心の中に、笑顔がある限り……涙は流さない!!」
言葉の意味が今の自分と合っていないのは充分分かっている。でも今はこれでいいと思う。ポルカは、今は涙を流したい時だと思うから。
「観客が、見たいのは……道化の涙じゃない……笑顔だ」
ハッとした顔で支配人は叫ぶ。
「何を馬鹿なことを!お前はもう笑顔は作れないはずだ!現に今涙が出てるじゃないか!」
とっさの判断で預本が台詞を変える。
「これは……ポルカの涙だ。クラウンの涙じゃない」
「ぐっ!」
舞台を降りればクラウンではなく、ただのポルカだ。それを分かっているからこそ支配人は悔しさに唇を噛んだ。
「ポルカの…心にある笑顔は、決して苦しくても……なくならない。僕の中の笑顔は、誰にも奪えやしないんだ!!」
ポルカの叫びが全体に響く。それは言葉の弓となって心を撃ち抜いていく。
男性の支配から逃れたポルカはその地に根付く草のように力強く歩みを進める。
瞳には涙が溢れ、込み上げる激昂が支配人の胸ぐらを掴む手にこもる。
「ケインとルミアを離せ!僕はもう、お前の言いなりにはならない!!」
鋭い眼光が支配人を睨みつける。
「わ、分かったよ!お前はもうサーカス団にはいらねぇ!それにアイツらもどっかでくたばればいいんだ!」
投げつけた言葉は地面に転がり、その場に虚しく消えていく。
マントを羽織った男性は二人を押さえていた手を離し、すぐさま森を後にする。
「お前なんてクラウンじゃねぇ。ただのだ」
そう言い残し支配人は霧の中に消えた。
三人になり、それぞれが顔を見る。ポルカの瞳からはまだ涙が零れており、緊張が解けたのか、その場に崩れ落ちた。慌てて二人が側に駆け寄る。
「ははっ……なんでだろう、安心したのかな……」
自分でも震える足に力が入らなくて困っていた。本当に、苦しかった。涙が、今までのポルカの我慢が、せきを切ったように溢れ出す。思わず二人を抱き寄せた。
驚いた顔をする二人だったが、その行為に優しくポルカを包み込んだ。
「ありがとう……ありがとう……二人の笑顔があったから、僕は今涙を流せてる。笑顔を取り戻せてる。独りの時間は苦しくて……辛くて……どうしようもないくらい不安で……二人の顔が見たくてたまらなかった……本当に、無事で良かった……」
心が泣いている。それは悲しいからじゃなくて、嬉しいからで、我慢していたものがドッと溢れる。涙が止まらず、その時間がやけに長く感じる。
そこでふと音がした。後ろで手を叩く音がする。それは徐々に増え、会場を埋め尽くす。収まりきらない音が僕達に向けて放たれる。三人は驚き後ろを向く。ケインとルミアの手を借り、ポルカは立ち上がる。
その光景は、涙で染まった心を、役を通り越して自身の空っぽの頭に、ズシンとのしかかった。思わず頭を下げた。それにつられて横にいた二人も同じく頭を下げる。鳴り止まない拍手が舞台に立つ者に感動と笑顔を与える。胸が詰まり、涙を流しながら笑顔を作る。今は、目の前の光景を目に焼き付けることに専念しよう。一生忘れないであろうこの光景が、涙と共に枯れないように。
ーーこうして、舞台は大盛況で幕を閉じた。



舞台袖にはけたにも関わらず鳴り止まない拍手に、放送が遅れる。
「こんなこと初めてよ…」
後ろにいた大佳先輩が傍から顔を出す。
「ど、どうしたらいいんでしょうか」
「音響室に行ってお礼を言ったら?その後にナレーションを入れてもらいましょう」
「分かりました」
後ろを向き、音響室に続く階段を上がる。ドアを開け、中にいた演劇部員に声をかける。
「お礼を言いたいから少し借りてもいい?」
「あ、どうぞ。ここを押せば始まりますので」
「ありがとう」
俺は深呼吸をし、心を落ち着かせてからボタンを押した。
「舞台『クラウン』を観に来てくれた皆様、誠にありがとうございました。ポルカ役の2年古海璃人です。こんなにも温かい拍手をもらえたこと、本当に嬉しいです。俺達が作り上げたこの舞台が皆様の心に残ってくれることを祈りつつ、幕を閉じたいと思います。本当にありがとうございました!」
放送を終え、席を変わる。
「ポルカがあなたで良かったです。素敵な演技をありがとうございました」
二人だけの空間で言われたお礼に、俺は素直に嬉しくなった。
「ありがとう。放送、よろしくね」
「はい」
お互いに背を向け、前を見る。ゆっくりとドアを閉め、階段を降りる。
やっと拍手の音がまばらになり、少し落ち着きを取り戻した舞台袖は、俺を迎え入れるように部員が輪の形に集まっていた。
「古海くん、真ん中!真ん中に入って!」
「えぇ……こうですか?」
俺を囲むように作られた輪の中で、大佳先輩は声を上げる。
「クラウン。無事終了、おめでとう!素晴らしい劇を作ってくれたみんなにお礼を!そして、見事主役を演じ切ってくれた古海くんに感謝を!ほんっとうにお疲れ様でした!」
「お疲れ様ー!」
「ありがとう!」
「よく頑張ったな!」
溢れる言葉に、俺はまたもや涙が込み上げる。嬉しいことが重なりすぎて、頭がパンクしそうだった。
「俺もみんなのおかげでここまで来れたと思ってます!!本当にありがとうございました!」
輪の中心で叫ぶ俺は、嬉しさの中にまだやらなきゃいけないことが残っているのを思い出す。この思いを、感謝を届けられていない人がいる。その人に会って、言葉を交わさないといけない。この劇を作ってくれた大事な人と向き合う覚悟を改めてもらった今なら受け止められるはずだ。
「すいません!やらなきゃいけないことがあるので抜けます!また戻ってきますので!」
「頑張れよ」
瀬川先輩と預本が声を揃えて言う。その言葉に俺は頷いて返す。力強く放つ扉を飛び出し、あいつの元へ向かう。今頃、体育館のどこかで呼び止められてるはずだ。舞台上では見えなかったが、いたはずなんだ。自分が作った劇を一番見たがっていたのはあいつだから。体育館の正面玄関を目指し走る。次々と出てくる人の波に呑まれながら、必死にその姿を探す。
「塔坂!どこだ!?」
人混みを抜け、覚えのある顔を思い出す。今なら言えるんだ、塔坂にこの思いが。受け止められるんだ、塔坂の苦しみが。
「塔坂!」
笑い声の中に小さく縮こまる姿が見えた。何人かのクラスメイトに囲まれて困った顔をする塔坂。やっと見つけた……俺は真っ直ぐそちらに歩み寄る。近づく俺に気付いたのか、塔坂がこちらを見て驚いた顔をする。目が合った。周りがぼやけ、塔坂の姿が鮮明に映る。
「璃人!」
その声は誰かとかぶって聞こえた。ずっと探していた声と、絞り出すような、泣きながらの声。
途端、衝撃と共に目の前が暗くなる。何が起こったのか分からず、目を開けようとする。だが遠のく意識に、必死に叫ぶ顔がおぼろげに見えるだけだった。どうして、そんなに必死な顔をするんだ。俺は……
全身から力が抜ける。目を閉じ、そのまま力尽きる。
心配する声は、倒れるその人に向けられ、悲痛な思いは空の彼方へと消えていった。
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