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序章
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♢ ♢ ♢
かくして私とジェラルド王子の出会いは最悪なわけで――。
子どもらしい子どもをお世話するつもりだった私は私の思い描いていた子ども像とは全くかけ離れた王子にお仕えすることになったのである。
――けれども
『……どうしたらいいのかしら?』
彼と出会って、すでに一週間をすぎようとしていた。こちらがいくら声をかけようとも自分に関わるなとばかりにふいっと足早に去っていく。最近では私の顔を見るなり、明らかに迷惑そうな顔を浮かべさえする。ここまで近寄れない子どもは前世でも出会ったことがない。ほとほどに困り果てて、私は彼と出会ったあの桜の木の下に腰を下ろしていた。一つだけ、誤解が生まれる前に言い訳をさせてほしい。これは別にサボっているわけではないのだ。私の顔を見るなり眉をひそめてどこかに消えてしまったジェラルドを探しまわったが、どこにも見つからず仕方なくここで思案しているだけだ。
ここで諦めるのは簡単。けれど
『私は、負けず嫌いなのよ』
その程度で心が折れる私じゃないのよ。見てなさい!ジェラルド・アルバーン!!ぎゃふんと言わせてあげるわと心の中でそう決意し、私はポケットの中からペンと小さなノートを手にした。
『アップルパイが好物……と。案外可愛いところあるじゃない』
ノートに書いてある好物リストのところに『アップルパイ』と勢いよく書いた。ジェラルドと一体一で語らうのは諦めた。その代わりに彼の兄上様、ジョシュア様にジェラルドについて聞いていたのである。他にも好きなことは、乗馬、チェスなどなど。一通り、ジョシュア様に教えてもらった。
ジョシュア様は、ジェラルドとはタイプが全く違う。私とジェラルドよりも3歳上の彼は、まさに前世で思い描いていた王道の王子様。黒というよりも少し灰色がかった髪を持つ彼は、魔力の高さは弟のジェラルドほどではないけれど、かなりの実力者だ。おまけに人格者でもあり、11歳ながら臣下からの信頼も厚い。先ほど、ジェラルドに話しかけようと試みたところ、見事に避けられた。どうしたものかと途方にくれているところを声をかけてくれて、恐縮している私に年が近いのだから気楽にしてくれと言ってくださった。侍女の私なんかに、気を遣ってくださるなんてどこぞの王子とは全く違ったわけで……。兄弟だとは思えない。
と、いかんいかん。話が脱線してしまった。そこでジョシュア様にジェラルドの好物や好きなことを聞いたのである。
相手との距離を縮めるには、趣味の話が一番だ。けれども、残念ながら乗馬やチェスは私の専門外だ。と、なれば……
『作るか、アップルパイ』
胃袋を掴むしかない。自慢ではないが、前世での趣味はお菓子作りだ。休日の休みに作っては近所のおばちゃんに配って回っていたのが懐かしい。保育士になっていなかったら、パティシエになっていたかもしれない。
と、まぁ、そんなことよりも今はアップルパイを作ってジェラルドに『美味しい』と言わせて見せることだ。よし!やるぞ!と気合を入れなおしたときだった。
『思ったことが、口に出るのか。お前の頭は単細胞でできているのか』
『!?』
目の前から声が降ってきた。思わず私はびくっと肩を震わせた。恐る恐る視線を上げれば、そこにいたのは
『ジェ、ジェラルド様!?』
漆黒の髪、サファイアの瞳を携えた件の人物。ジェラルドが左足に体重をかけて軽く腕を組んで立っていた。
『一体、いつからそこに――』
『好物がアップルパイとかなんとか言っていた辺りから』
静かに告げられた言葉に私は顔が真っ青になる。
『案外可愛いところがあるとか言っていたな。誰のことを言っているのだろうな』
『そ、それは……』
聞かれていたか、そこ!
『兄上から聞いた。どうやら俺のことを嗅ぎまわっているようだな』
『嗅ぎまわっているわけでは――』
座り込んでいる私がジェラルドを見上げると丁度太陽と重なって眩しくて目を細めた。おかげでジェラルドがどういう表情を浮かべているのかは伺い知れない。
『お前が求めているものは何だ?地位がほしいのか?』
『地位って……』
『どうせ、お前も俺の力だけが目的なのだろう?』
何故だろう。表情は見えないが、その声は悲しい響きを持っていた。
あとから聞いたことだけれども、彼が避けていたのは私だけではなかったらしい。
深い黒、漆黒の髪は魔力が高い証。この世界の人々は多種多様な髪色をしているが、黒だけは別格だ。髪の黒さは魔力に比例する。黒に近ければ近いほど他に類を見ないほどの高い魔力を持っているということだ。漆黒の髪を持つジェラルドは幼少期からその魔力の高さ故、ある時は周囲の人から腫れ物のように扱われ、ある時は地位を高めるために利用されたそうになったのだという。だからこそ、国王、皇后、そしてお兄様のジョシュア様以外に信じられる者がおらず、誰かを信じることを諦め、拒絶するしかなかった。
見た目だけは妖精のように愛らしいのに口から紡がれるものは皮肉交じりな悪魔のような言葉。次第に、彼に言葉をかける者はいなくなったのだという。大人の侍女、執事はことごとく手を焼き、幼い私に白羽の矢が立ったのである。要するに同じ年の子どもならばと。
そんなこと当時の私は知る由もなかった私は
『私がジェラルド様のことを知りたいのです!ジェラルド様のことを知りたいと思ってはいけないのですか!?』
ジェラルドの言葉にカチンときて、思わず立ち上がった。
『…………』
対してジェラルドはそのサファイアの瞳を大きく見開いて虚をつかれたような表情を浮かべていたっけ。まるで信じられないものでも見ているかのような様子。その口から紡がれる言葉はなかった。
『あ……』
その様子を見て、かっとなっていた頭が少しだけ冷静になった。
(やばい、言いすぎた)
相手がいくら子どもと言えど(まぁ私も子どもなのだが)、この国の第二王子であることは変わりない。侍女が王子に言い返すなんて、失敬罪に問われても仕方がない。お父様、お母様、ごめんなさい。せめて極刑だけは。現世は天寿を全うさせてくれと血の気が引く思いで、ジェラルドを見ると
『…………』
いつの間にかジェラルドは私に背を向けていて、黒髪が風でさらさらと揺れていた。
『あの……ジェラルド……様?』
その後ろ姿に恐る恐る名前を呼びかけた。その瞬間、コォォーと強い風が私とジェラルドの間を通り過ぎていった。強い風のせいで桃色の花びらが舞い上がった。
――桃色の桜の花びらが舞う中、彼はわずかに振り返ってある言葉を口にした。
♢ ♢ ♢
「遅い!」
「ひゃい!」
すぐ近くで聞こえた少し不機嫌そうな声で私は思わず飛び跳ねてしまう。おまけに間の抜けた声が出てしまった。
「……ジェラルド様!?」
そして振り返って驚いた。いつの間にいたのだろう。ジェラルドがキッチンの扉に腕を組んで体を預けるように立っていた。
その姿を見て思い出した。あぁ、そうだ。ジョシュア様に紅茶の追加を頼まれて、お湯を沸かしに来たんだったと物思いに更けていた頭を切り替えて、ふと疑問が湧いた。
「一体、いつの間にいらっしゃったのですか?」
目を瞬かせながらジェラルドを見て言えば
「お前が口を開けたまま考え事をしていたときにはいた。考え事をすると他の動作が疎かになるとは、相変わらずお前の頭は単細胞なのだな」
とふっと笑いながら言ってきた。どこか面白がってるふうだ。しかも、何気酷いこと言われていない?
「私、そんなに口を開けてましたか?」
「あぁ、間抜けな顔をして」
(ま、間抜け……ですか?)
「そ、それはお見苦しいところをお見せしました」
は、恥ずかしい。物思いに更けていたとはいえ、はしたないところを見られた。思わず両手で顔を覆うと
「冗談だ。第一、後ろからお前がどんな顔しているか、わかるわけないだろう。」
ジェラルドはふっと笑って見せた。
「え?冗談?」
私は思わずぽかーんと口を開けてしまう。その瞬間、水を入れたポットが沸騰する音が聞こえた。
「まぁ、あながち冗談でもないな。今、まさに間抜けな顔をしている」
「なっ……!」
指摘されて慌てて右手を口元に手をやって、恨みがましくジェラルドを見るとどこ吹く風でゆっくりとした動作でこちらへ歩いてきて、私が沸かしていたポットを指さした。
「そのポットを持っていくのか?」
「あ、はい」
「貸してみろ」
「え?ジェ、ジェラルド様!?」
私が頷くと私の制止も聞かずにジェラルドは何事もないようにひょいっとポットを持ち上げた。
「とろいお前じゃ、兄上のところへ持っていくまでに冷やしてしまいかねないからな」
毒舌なところは10年前とちっとも変っていない。
「むしろ、どこかで転んで盛大に零しそうなほどには鈍くさい女だからな、お前は」
「鈍くさ……い女」
いや、むしろ磨きがかかってすらいる。
(でも、私は知っている)
(ジェラルド様は口が悪いけれど)
「だから、俺が持っていく」
そう言って彼は私に背を向けて歩き出した。その後ろ姿は10年前よりもはるかに高く、体つきもほどよく筋肉がついて逞しい。けれども、そんな彼の黒髪は“あの時”と変わらない。それがなんだか嬉しくて私は小走りで彼を追いかけた。
「さっきは、ジェラルド様と出会ったばかりのことを思い出していました。あとでアップルパイ焼きますね」
追いついた彼の左後ろに並んで私が笑顔を浮かべて言えば、ジェラルドは私の方をわずかに振り向いて一瞬驚いたように目を瞬かせたが
「……好きにしろ」
そう言ってそっぽを向いた。
(たまに小さく笑うことを)
(本当は優しい人だということを)
(私は知っている)
彼が小脇に抱えているポットが彼が歩くたびに小さく音を立てていた。
♢ ♢ ♢
ーーあの日
『……にしている』
『え?』
『だから、アップルパイ、楽しみにしているといっている』
幻想的な世界の中、彼は確かにそういった。サファイアの瞳に先ほどまで私に向けていた鋭さはなく、わずかに口元を緩めているような気さえした。
(笑ってる?)
そして、そのまま彼は振り返ることもなく真っすぐに歩いていく。その後ろ姿がついてこいと言っているようで、私はつられるように足を踏み出した。
ーーそれが私に彼が初めて見せた優しい笑顔だった
桃色の世界の中を、二つの影が次第に近づいていった。
それを大きな桜の木が見守っていた。
かくして私とジェラルド王子の出会いは最悪なわけで――。
子どもらしい子どもをお世話するつもりだった私は私の思い描いていた子ども像とは全くかけ離れた王子にお仕えすることになったのである。
――けれども
『……どうしたらいいのかしら?』
彼と出会って、すでに一週間をすぎようとしていた。こちらがいくら声をかけようとも自分に関わるなとばかりにふいっと足早に去っていく。最近では私の顔を見るなり、明らかに迷惑そうな顔を浮かべさえする。ここまで近寄れない子どもは前世でも出会ったことがない。ほとほどに困り果てて、私は彼と出会ったあの桜の木の下に腰を下ろしていた。一つだけ、誤解が生まれる前に言い訳をさせてほしい。これは別にサボっているわけではないのだ。私の顔を見るなり眉をひそめてどこかに消えてしまったジェラルドを探しまわったが、どこにも見つからず仕方なくここで思案しているだけだ。
ここで諦めるのは簡単。けれど
『私は、負けず嫌いなのよ』
その程度で心が折れる私じゃないのよ。見てなさい!ジェラルド・アルバーン!!ぎゃふんと言わせてあげるわと心の中でそう決意し、私はポケットの中からペンと小さなノートを手にした。
『アップルパイが好物……と。案外可愛いところあるじゃない』
ノートに書いてある好物リストのところに『アップルパイ』と勢いよく書いた。ジェラルドと一体一で語らうのは諦めた。その代わりに彼の兄上様、ジョシュア様にジェラルドについて聞いていたのである。他にも好きなことは、乗馬、チェスなどなど。一通り、ジョシュア様に教えてもらった。
ジョシュア様は、ジェラルドとはタイプが全く違う。私とジェラルドよりも3歳上の彼は、まさに前世で思い描いていた王道の王子様。黒というよりも少し灰色がかった髪を持つ彼は、魔力の高さは弟のジェラルドほどではないけれど、かなりの実力者だ。おまけに人格者でもあり、11歳ながら臣下からの信頼も厚い。先ほど、ジェラルドに話しかけようと試みたところ、見事に避けられた。どうしたものかと途方にくれているところを声をかけてくれて、恐縮している私に年が近いのだから気楽にしてくれと言ってくださった。侍女の私なんかに、気を遣ってくださるなんてどこぞの王子とは全く違ったわけで……。兄弟だとは思えない。
と、いかんいかん。話が脱線してしまった。そこでジョシュア様にジェラルドの好物や好きなことを聞いたのである。
相手との距離を縮めるには、趣味の話が一番だ。けれども、残念ながら乗馬やチェスは私の専門外だ。と、なれば……
『作るか、アップルパイ』
胃袋を掴むしかない。自慢ではないが、前世での趣味はお菓子作りだ。休日の休みに作っては近所のおばちゃんに配って回っていたのが懐かしい。保育士になっていなかったら、パティシエになっていたかもしれない。
と、まぁ、そんなことよりも今はアップルパイを作ってジェラルドに『美味しい』と言わせて見せることだ。よし!やるぞ!と気合を入れなおしたときだった。
『思ったことが、口に出るのか。お前の頭は単細胞でできているのか』
『!?』
目の前から声が降ってきた。思わず私はびくっと肩を震わせた。恐る恐る視線を上げれば、そこにいたのは
『ジェ、ジェラルド様!?』
漆黒の髪、サファイアの瞳を携えた件の人物。ジェラルドが左足に体重をかけて軽く腕を組んで立っていた。
『一体、いつからそこに――』
『好物がアップルパイとかなんとか言っていた辺りから』
静かに告げられた言葉に私は顔が真っ青になる。
『案外可愛いところがあるとか言っていたな。誰のことを言っているのだろうな』
『そ、それは……』
聞かれていたか、そこ!
『兄上から聞いた。どうやら俺のことを嗅ぎまわっているようだな』
『嗅ぎまわっているわけでは――』
座り込んでいる私がジェラルドを見上げると丁度太陽と重なって眩しくて目を細めた。おかげでジェラルドがどういう表情を浮かべているのかは伺い知れない。
『お前が求めているものは何だ?地位がほしいのか?』
『地位って……』
『どうせ、お前も俺の力だけが目的なのだろう?』
何故だろう。表情は見えないが、その声は悲しい響きを持っていた。
あとから聞いたことだけれども、彼が避けていたのは私だけではなかったらしい。
深い黒、漆黒の髪は魔力が高い証。この世界の人々は多種多様な髪色をしているが、黒だけは別格だ。髪の黒さは魔力に比例する。黒に近ければ近いほど他に類を見ないほどの高い魔力を持っているということだ。漆黒の髪を持つジェラルドは幼少期からその魔力の高さ故、ある時は周囲の人から腫れ物のように扱われ、ある時は地位を高めるために利用されたそうになったのだという。だからこそ、国王、皇后、そしてお兄様のジョシュア様以外に信じられる者がおらず、誰かを信じることを諦め、拒絶するしかなかった。
見た目だけは妖精のように愛らしいのに口から紡がれるものは皮肉交じりな悪魔のような言葉。次第に、彼に言葉をかける者はいなくなったのだという。大人の侍女、執事はことごとく手を焼き、幼い私に白羽の矢が立ったのである。要するに同じ年の子どもならばと。
そんなこと当時の私は知る由もなかった私は
『私がジェラルド様のことを知りたいのです!ジェラルド様のことを知りたいと思ってはいけないのですか!?』
ジェラルドの言葉にカチンときて、思わず立ち上がった。
『…………』
対してジェラルドはそのサファイアの瞳を大きく見開いて虚をつかれたような表情を浮かべていたっけ。まるで信じられないものでも見ているかのような様子。その口から紡がれる言葉はなかった。
『あ……』
その様子を見て、かっとなっていた頭が少しだけ冷静になった。
(やばい、言いすぎた)
相手がいくら子どもと言えど(まぁ私も子どもなのだが)、この国の第二王子であることは変わりない。侍女が王子に言い返すなんて、失敬罪に問われても仕方がない。お父様、お母様、ごめんなさい。せめて極刑だけは。現世は天寿を全うさせてくれと血の気が引く思いで、ジェラルドを見ると
『…………』
いつの間にかジェラルドは私に背を向けていて、黒髪が風でさらさらと揺れていた。
『あの……ジェラルド……様?』
その後ろ姿に恐る恐る名前を呼びかけた。その瞬間、コォォーと強い風が私とジェラルドの間を通り過ぎていった。強い風のせいで桃色の花びらが舞い上がった。
――桃色の桜の花びらが舞う中、彼はわずかに振り返ってある言葉を口にした。
♢ ♢ ♢
「遅い!」
「ひゃい!」
すぐ近くで聞こえた少し不機嫌そうな声で私は思わず飛び跳ねてしまう。おまけに間の抜けた声が出てしまった。
「……ジェラルド様!?」
そして振り返って驚いた。いつの間にいたのだろう。ジェラルドがキッチンの扉に腕を組んで体を預けるように立っていた。
その姿を見て思い出した。あぁ、そうだ。ジョシュア様に紅茶の追加を頼まれて、お湯を沸かしに来たんだったと物思いに更けていた頭を切り替えて、ふと疑問が湧いた。
「一体、いつの間にいらっしゃったのですか?」
目を瞬かせながらジェラルドを見て言えば
「お前が口を開けたまま考え事をしていたときにはいた。考え事をすると他の動作が疎かになるとは、相変わらずお前の頭は単細胞なのだな」
とふっと笑いながら言ってきた。どこか面白がってるふうだ。しかも、何気酷いこと言われていない?
「私、そんなに口を開けてましたか?」
「あぁ、間抜けな顔をして」
(ま、間抜け……ですか?)
「そ、それはお見苦しいところをお見せしました」
は、恥ずかしい。物思いに更けていたとはいえ、はしたないところを見られた。思わず両手で顔を覆うと
「冗談だ。第一、後ろからお前がどんな顔しているか、わかるわけないだろう。」
ジェラルドはふっと笑って見せた。
「え?冗談?」
私は思わずぽかーんと口を開けてしまう。その瞬間、水を入れたポットが沸騰する音が聞こえた。
「まぁ、あながち冗談でもないな。今、まさに間抜けな顔をしている」
「なっ……!」
指摘されて慌てて右手を口元に手をやって、恨みがましくジェラルドを見るとどこ吹く風でゆっくりとした動作でこちらへ歩いてきて、私が沸かしていたポットを指さした。
「そのポットを持っていくのか?」
「あ、はい」
「貸してみろ」
「え?ジェ、ジェラルド様!?」
私が頷くと私の制止も聞かずにジェラルドは何事もないようにひょいっとポットを持ち上げた。
「とろいお前じゃ、兄上のところへ持っていくまでに冷やしてしまいかねないからな」
毒舌なところは10年前とちっとも変っていない。
「むしろ、どこかで転んで盛大に零しそうなほどには鈍くさい女だからな、お前は」
「鈍くさ……い女」
いや、むしろ磨きがかかってすらいる。
(でも、私は知っている)
(ジェラルド様は口が悪いけれど)
「だから、俺が持っていく」
そう言って彼は私に背を向けて歩き出した。その後ろ姿は10年前よりもはるかに高く、体つきもほどよく筋肉がついて逞しい。けれども、そんな彼の黒髪は“あの時”と変わらない。それがなんだか嬉しくて私は小走りで彼を追いかけた。
「さっきは、ジェラルド様と出会ったばかりのことを思い出していました。あとでアップルパイ焼きますね」
追いついた彼の左後ろに並んで私が笑顔を浮かべて言えば、ジェラルドは私の方をわずかに振り向いて一瞬驚いたように目を瞬かせたが
「……好きにしろ」
そう言ってそっぽを向いた。
(たまに小さく笑うことを)
(本当は優しい人だということを)
(私は知っている)
彼が小脇に抱えているポットが彼が歩くたびに小さく音を立てていた。
♢ ♢ ♢
ーーあの日
『……にしている』
『え?』
『だから、アップルパイ、楽しみにしているといっている』
幻想的な世界の中、彼は確かにそういった。サファイアの瞳に先ほどまで私に向けていた鋭さはなく、わずかに口元を緩めているような気さえした。
(笑ってる?)
そして、そのまま彼は振り返ることもなく真っすぐに歩いていく。その後ろ姿がついてこいと言っているようで、私はつられるように足を踏み出した。
ーーそれが私に彼が初めて見せた優しい笑顔だった
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それを大きな桜の木が見守っていた。
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