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詩方夢那

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第一話 絶望混乱ミルフィーユ

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 今、彼女の目の前にあるのは、食器棚の奥に仕舞い込まれていたぺティナイフ。使われた形跡はなく、錆びている様にも無い。
 現在、彼女が居る部屋の温度、摂氏三十四度半。南西に向いた窓から差し込む光が、容赦なく室温を上げる。
 今日は八月十三日。時刻は午後三時三分十二秒。
 木珠こだま明日歌あすかは摂氏三十四度半の室内で、ナイフを握っていた。
 人生に行き詰まった今、残されているのは、そうする事だけだ、と。
「だめーっ だめだめ、だめだめ、だめーっ!」
 皮下の浅い所を通る頸動脈に、その刃が向けられた時、黒い塊が何処からともなく壁と窓の向こうから、散らかった室内に転がり込んできた。
「だめだってば、だめだって、だめなのーっ!」
 転がり込んできた黒い塊は、人。
 その塊だった人物は、人間なら確実に首を捻挫ねんざするであろう奇怪な動きで、転がり込んできた姿勢から身を立て直すと、明日歌の握るナイフを掴んだ。
「ちょ、ちょっと、放して、放してってば、ちょっと待て!」
 あろう事か、その黒い塊だった人物は、ペティナイフの刃を掴み、ガラクタと化した扇風機の方に放り投げた。
「ちょ、ちょっと、あ、あんた誰なのよ!」
「だから駄目なの、今死んじゃ駄目なの、めんどくさいんだってば!」
 全く噛み合わない二人の叫び声が収まると、蒸し風呂に等しい室内に、沈黙が訪れた。
「……だからあなたは誰なのよ!」
 一瞬の沈黙に、攻勢を取り戻したのは明日歌だった。
「……あ」
 彼女の目の前で、黒い布を被った様なその人物は、恐ろしいほど間抜けな声を上げた。
「やば……もしかして、キミ、ボクの事、見えてる?」
 それは首を傾げるが、明日歌は何も言えなかった。こいつは、一体何を言っているのか、と。
「あちゃー、やらかしっちゃったなぁ……」
 ただでさえぼさぼさの黒い髪を掻くその人物は、一見すると、若い男。ただ、黒いマントの様な物を羽織っている事以外は。
 突然、何処からともなく、転がり込んできた事以外は。
「えーっとね、ボクは死神なんだ」
「……は?」
 明日歌は怪訝けげんに、威圧する様に、短く問い返す。
「だーかーらー、ボクは死神なの。もうすぐ死ぬ人の所に行って、魂を回収する仕事の……なんだけど、君、別に回収いつでもいいってなってたのに、よりによってこんな時期に死のうとするのが悪いんだよ!」
 逆上というには、意味不明な言い掛かりだった。
「あのさー、お盆の時期ってあの世とこの世が繋がっちゃうから、魂、冥府めいふに連れて行くのめっちゃ大変なんだよ? それなのに、よりによって今死ぬとか勘弁してよ! 逃がしちゃったら捜索担当にお説教されるんだよ? これ以上ランク落ちしたらボクは死神失職しちゃうんだから!」
 その人物は熱弁するが、明日歌には意味が分からなかった。
「って、ていうか、そ、そもそも何で死神なんて居るわけ、意味分かんないわよ、適当な事言わないでよ!」
「適当な事なんて言ってないよ! だって、ボクは死神なんだから!」
 死神を名乗る若い男は立ち上がると、徐にマントから右手を出した。
「ホイ」
 間抜けな掛け声とともに、男の手に現れたのは、銀色に光る大鎌だった。
「あのさー、次にヘマしちゃうと、これがくっそダサい木の柄の、しょぼーい鎌になっちゃうの!」
 男は鎌を持つ手を引いた。すると、鎌は何処へとも無く消え、男の白い手だけが残った。
しかし、明日歌はまだ信じられずに居た。
「……もし、あんたがマジで死神だったとして……どうして此処に居るわけ?」
「だーかーらー」
 男は脱力する様に座り込む。
「ボクはキミの魂の回収担当なんだけど、今死なれたらお盆で面倒だから止めに来たの」
 僅かな沈黙の後、明日歌は思い切り叫んだ。
「もーっ、どうして、どうしてなのよ、折角今なら死ねると思ったのに、どうして止めてくれるのよ!」
 明日歌の目からこぼれ落ちた涙に、死神を名乗る男は眉をひそめた。
「あのさ……別に、今日死ななくても、キミの事、これから一ヶ月の内に殺す事になってるんだから、そう悲観しないでよ」
「は?」
 明日歌は濡れた瞳で黒い人影を見る。
「キミの魂の回収は、今から一カ月以内の仕事なんだ。キミはさ、なんか特別な魂の持ち主らしいから、わざわざボク達死神が派遣されてるし、急ぎの仕事が無ければ、適当な時期にいい感じで殺せるんだけど……どうせ死ぬんだから、今止めたからって」
 死神の顔面に、電池の切れたデジタル目覚まし時計が投げつけられた。
「ちょ、ちょっと、何を」
「だったらさっさと殺してよ! エアコン壊れて散々なのに、扇風機まで壊れて昨日から一睡もできないって言うのに、もう勘弁してよ! こんな部屋じゃ寝られない! いっそ永遠に寝かせてぇ!」
 死神は時計を持ったまま、呆然と明日歌を見た。そして、ふとある事を思い出し、懐に手を突っ込んだ。
 ――木珠明日歌、二十五歳、金銭的苦悩による自殺念慮あり。本日より一カ月以内に適宜その魂を回収せよ。
 依頼の書きつけられた、古めかしいおもむきの手帳。死神はそれを懐に突っ込み、明日歌を見た。
「……あのさ、もし、仕事が無いって言うなら、仕事、あるよ?」
「……は?」
 明日歌は疑念に表情を歪ませる。
「ボク達の溜まり場、白菊町のオラクルってカフェ、求人出しても誰も来ないし、普通の人間なら採用する気ない店だけど、来ない?」
 明日歌は混乱した。確かに、仕事が無く、金も無い。だが、何故、今、死神という得体の知れない何かに、そんな話を聞いているのか。その上、採用する気の無い求人とはどういう事か、理解出来ない事が多過ぎた。
「ていうか、人手足らな過ぎて、いや、やる気無いスタッフしか居なさすぎて店回って無いんだよ。そうだ、どうせ後一カ月だけなんだし、おいでよ、店に」
「あのさ、あんた一体……」
「あ、そーだ。今晩はボクが魔法で部屋を涼しくしてあげるから、ね!」
 死神は満面の笑みを浮かべた。
 そして再び沈黙が訪れた時、彼女の部屋の真下、丁度玄関の辺りから物音が聞こえた。
 仕事を終えた彼女の親が、帰って来たようだった。
「……帰って来ちゃった……って、あんた」
 ふと現実に帰り、明日歌は焦りを覚えた。もし、目の前に死神が居るとして、どう説明すればいいのかと。
 だが、死神はまるでそれを見通していたかのようにもう一度笑った。
「大丈夫、姿、見えなくしておくから」
 言うと、彼女の目の前から死神の姿は消えてしまった。
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