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第二章 Gambling with the Devil
2-7-2 Summer's glory
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レインが通されたのは作り付けの棚を備える板張りの小部屋。店舗が現役だった頃、ミカの母親もまたこの部屋で服や雑貨を作っていた。
ミカの母親は採寸から仕立てた祖母とは異なり、一般的なサイズで個性的な服を作っていた。故に母親と祖母の折り合いは悪く、二人が揃って店に出る事は一度も無かった。
祖母が店を退いてから、店舗部分は母親の作った品物や個別に仕入れた服飾雑貨の類を販売するセレクトショップとなったが、それも十年ほど前に店を開けなくなり、この部屋で商品を作る事は無くなった。
それからしばらくの間、母親がそのままにしていた生地や裁縫道具が放置されていたが、二年ほど前にミカはこの部屋を片付け、自分の作業場所にしている。
「エアコン点けたの、出る前だったから、まだ暑い?」
麦茶を手に現れたミカは、欄間の様な隙間の空いた壁を見上げる。
「いや、そうでもないよ」
「そう? だったら、よかった」
「あぁ、そういえば、向こうのエアコンって」
「レイさんのおかげでつけて貰えたエアコンだよ。大分助かってる」
「そっか、よかった」
「でも、窓開けられないのは、考え物だよね」
ミカは傍らの小机に麦茶を下ろし、くたびれた座布団に座る。
「田舎って空気がいいイメージだったけど、そうでもないんだね」
「そうじゃなくなった、というのが正しいかな」
古くは農耕地帯だった地域にあるミカの実家は、長い間住宅の立地がまばらな環境だった。だが、この数年で農地は激減し、隣接していた古い家屋も解体され、分筆された土地には二軒の住宅が詰め込まれている。
以降、ミカの自宅にはひどい生活臭が流入する様になり、ミカを悩ませている。
「空気だけじゃなくて水もどうなんだか……三十年ほど前には、レストランの排水は洗剤がきついからけしからんって、店が潰されちゃった事も有ったらしいけど、今は流れるだけで凄い匂いの排水が平気で出て行ってる。もう終わりよ」
「酷い話だね」
「ええ、酷い話よ。でももっと酷いのは、今更こんな土地に住もうと思う神経だわ」
レインは首を傾げた。
「電車、あんまり来ないでしょ?」
「田舎はこんなものだと思ってたけど」
「バスなんてもっと酷いわよ、その内消えるのは時間の問題みたいな有様。電車は有るけど、元々駅が遠くて電車に乗れない人だって多いのに」
「確かに駅は不便そうだけど、そんなに?」
「最寄り駅まで歩いて一時間とか、そもそも歩ける距離ですらない場所の方が多いわよ」
「そっか……そりゃ、離れたいと思うのも無理ないか」
都会育ちのレインには澱んだ空気も汚れた水も、得体の知れない人間さえも当然だった。それ故に寂れた沿岸地域は平和で綺麗な場所だとレインは思っていた。
だが、ミカの話を聞いていると、この土地が既に平和で綺麗な場所でもないのだろうとレインは納得する。
「おまけに行政も、改革出来る様な政治家どころか、まともな首長さえも暫く不在だったから、無策の内にインフラはガタガタ、財政もグダグダ、せめて綺麗な空気でもあればいい物を、環境施策まで手も頭も回せなくなってしまった……酷いものよ。田舎なんてこんなものなのかもしれないけど、それにしても、よ」
レインは考える。あのあばら家や古民家の様に、不便で自然の脅威に晒される危険があるとしても穏やかな空気感の中に佇む場所が有ったとして、その周囲に都心と同じ様な人が集まり、無節操に暮らすとしたらどうなるか、と。
「環境がいいとかなんとか言って若い人は住みたがってるらしいけど、荒んだ空き家と休耕田の向こうでこの世の終わりみたいな汚染をぶちまけながら暮らす人間しかいなくて、インフラから見放されて子供は出ていくばっかりで、病院も閉じていく一方のベッドタウンとか、ただの地獄よ」
「確かに」
伏し目がちに言い捨てるミカの向かいでレインはレースカーテンの向こうに思いを馳せながら、ぬるい麦茶のグラスを手に取った。
ミカの母親は採寸から仕立てた祖母とは異なり、一般的なサイズで個性的な服を作っていた。故に母親と祖母の折り合いは悪く、二人が揃って店に出る事は一度も無かった。
祖母が店を退いてから、店舗部分は母親の作った品物や個別に仕入れた服飾雑貨の類を販売するセレクトショップとなったが、それも十年ほど前に店を開けなくなり、この部屋で商品を作る事は無くなった。
それからしばらくの間、母親がそのままにしていた生地や裁縫道具が放置されていたが、二年ほど前にミカはこの部屋を片付け、自分の作業場所にしている。
「エアコン点けたの、出る前だったから、まだ暑い?」
麦茶を手に現れたミカは、欄間の様な隙間の空いた壁を見上げる。
「いや、そうでもないよ」
「そう? だったら、よかった」
「あぁ、そういえば、向こうのエアコンって」
「レイさんのおかげでつけて貰えたエアコンだよ。大分助かってる」
「そっか、よかった」
「でも、窓開けられないのは、考え物だよね」
ミカは傍らの小机に麦茶を下ろし、くたびれた座布団に座る。
「田舎って空気がいいイメージだったけど、そうでもないんだね」
「そうじゃなくなった、というのが正しいかな」
古くは農耕地帯だった地域にあるミカの実家は、長い間住宅の立地がまばらな環境だった。だが、この数年で農地は激減し、隣接していた古い家屋も解体され、分筆された土地には二軒の住宅が詰め込まれている。
以降、ミカの自宅にはひどい生活臭が流入する様になり、ミカを悩ませている。
「空気だけじゃなくて水もどうなんだか……三十年ほど前には、レストランの排水は洗剤がきついからけしからんって、店が潰されちゃった事も有ったらしいけど、今は流れるだけで凄い匂いの排水が平気で出て行ってる。もう終わりよ」
「酷い話だね」
「ええ、酷い話よ。でももっと酷いのは、今更こんな土地に住もうと思う神経だわ」
レインは首を傾げた。
「電車、あんまり来ないでしょ?」
「田舎はこんなものだと思ってたけど」
「バスなんてもっと酷いわよ、その内消えるのは時間の問題みたいな有様。電車は有るけど、元々駅が遠くて電車に乗れない人だって多いのに」
「確かに駅は不便そうだけど、そんなに?」
「最寄り駅まで歩いて一時間とか、そもそも歩ける距離ですらない場所の方が多いわよ」
「そっか……そりゃ、離れたいと思うのも無理ないか」
都会育ちのレインには澱んだ空気も汚れた水も、得体の知れない人間さえも当然だった。それ故に寂れた沿岸地域は平和で綺麗な場所だとレインは思っていた。
だが、ミカの話を聞いていると、この土地が既に平和で綺麗な場所でもないのだろうとレインは納得する。
「おまけに行政も、改革出来る様な政治家どころか、まともな首長さえも暫く不在だったから、無策の内にインフラはガタガタ、財政もグダグダ、せめて綺麗な空気でもあればいい物を、環境施策まで手も頭も回せなくなってしまった……酷いものよ。田舎なんてこんなものなのかもしれないけど、それにしても、よ」
レインは考える。あのあばら家や古民家の様に、不便で自然の脅威に晒される危険があるとしても穏やかな空気感の中に佇む場所が有ったとして、その周囲に都心と同じ様な人が集まり、無節操に暮らすとしたらどうなるか、と。
「環境がいいとかなんとか言って若い人は住みたがってるらしいけど、荒んだ空き家と休耕田の向こうでこの世の終わりみたいな汚染をぶちまけながら暮らす人間しかいなくて、インフラから見放されて子供は出ていくばっかりで、病院も閉じていく一方のベッドタウンとか、ただの地獄よ」
「確かに」
伏し目がちに言い捨てるミカの向かいでレインはレースカーテンの向こうに思いを馳せながら、ぬるい麦茶のグラスを手に取った。
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