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第4章「沈黙の対話」 (七原視点)
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初秋の気配が、街の空気にうっすらと混じっていた。
薄曇りの空。時計の針は、午前十一時を少し回っていた。二度目の診察は、妙に早くやってきた。
予約したわけでもない。ただ目が覚めて、体を起こしたら、足が勝手にクリニックの方へ向かっていた。
意味なんてない。行き先が他になかっただけだ。今の俺は、どこへ行っても、誰の顔も思い出せない。
正直、行きたくはなかった。あの目をまた見るのが、怖かった。
見透かしているのに、何も言わない。それでも、諦めていない目。
――優しさにも、暴力があると思う。
とくに、あの人の優しさは、無言の「正しさ」の匂いがして、息苦しい。でも、俺の中にまだ消えきらない声があった。
「また来い」
あの言葉だけが、ずっと胸に残っていた。
*
診察室のドアをノックして、中に入る。
薄い雲越しの陽射しが、窓から差していて、白衣の男の輪郭を淡く照らしていた。
佐原は前と変わらない顔で、こちらを見た。冷静で、整っていて、どこも崩れていない。
相変わらず、名前は聞かれない。本来なら問診票やカルテがあるはずなのに。
けれど、佐原は何も言わなかった。まるで初めてじゃないように。まるで、ずっと前から俺の沈黙を待っていたように。
俺も、何も言わなかった。
言葉が必要なら、ここには来なかった。言葉なんか、もうとっくに使い果たしていた。
あのとき、言えなかったこと。言ってしまって壊したこと。何も言わないことで失ったもの。
それらが、喉の奥で塊になって詰まってる。吐き出したら、また全部なくなる気がして、怖い。
*
「先週、ここで話してもらったことは覚えてる?」
佐原が静かに口を開いた。
「……覚えてる」
短く答える。嘘はつきたくなかった。でも、これ以上は言いたくなかった。
「薬は、出してないけど……今、眠れてる?」
その声は変わっていなかった。懐かしくて、同時に遠い。
「眠れない日もある。けど、別に……死ぬほどじゃない」
「死ぬほどって、どういうこと?」
「……知らない」
言葉が、宙に浮いて落ちた。彼の問いは罠じゃない。でも、答えるにはあまりに脆い。
沈黙が落ちる。でも、この沈黙は嫌じゃない。
俺は佐原の顔を見なかった。天井を見てた。淡い陽の光が蛍光灯に溶けて、目が滲んだ。
それでも、何かを話したい気持ちは、確かにあった。
「……なあ。今、何人くらい、患者抱えてんの?」
「全体の患者数は言えないが、今日は君が来るまで、十七人の診察をした」
「そっか。それじゃあ、俺のことも“患者”って呼ぶの?」
彼は少しだけ口元を動かした。笑った、ような気がした。
「患者って言葉、あまり好きじゃない」
「じゃあ、何?」
「七原」
呼ばれて、心臓が跳ねた。
その名前は、今の俺を呼ぶには優しすぎた。誰も、そんなふうに俺を呼ばない。
だけど、佐原が言うと、それはひどく重たくて、心の奥の、使っていない部屋に触れられるようだった。
「俺……たぶん、あんたに会いに来たわけじゃない」
「うん」
「ただ、戻れそうな気がして……来ただけ。戻る場所なんて、どこにもないけど」
「戻らなくてもいい。ここは進む場所でもあるから」
そう言われて、また黙った。
そうだ。ここは、前を向くための場所だった。でも俺は、あの頃に立ち戻りたかった。
まだ何も壊れていなかった時間へ。あの朝、ベッドの中で黙っていた佐原の手の温度を、思い出した。
*
「また来ても、いいの?」
「もちろん」
あまりに自然に言うから、少しだけ腹が立った。でも、救われた気もした。
腹が立つのに、安心するって、どういうことなんだ。
「じゃあ……来週も、来る」
それだけ言って、立ち上がった。
背中に彼の視線を感じた。
何も聞かず、何も追わず、ただそこにある目。
見守ることと、見透かすことの違いを、俺は少しだけ、思い出しはじめていた。
薄曇りの空。時計の針は、午前十一時を少し回っていた。二度目の診察は、妙に早くやってきた。
予約したわけでもない。ただ目が覚めて、体を起こしたら、足が勝手にクリニックの方へ向かっていた。
意味なんてない。行き先が他になかっただけだ。今の俺は、どこへ行っても、誰の顔も思い出せない。
正直、行きたくはなかった。あの目をまた見るのが、怖かった。
見透かしているのに、何も言わない。それでも、諦めていない目。
――優しさにも、暴力があると思う。
とくに、あの人の優しさは、無言の「正しさ」の匂いがして、息苦しい。でも、俺の中にまだ消えきらない声があった。
「また来い」
あの言葉だけが、ずっと胸に残っていた。
*
診察室のドアをノックして、中に入る。
薄い雲越しの陽射しが、窓から差していて、白衣の男の輪郭を淡く照らしていた。
佐原は前と変わらない顔で、こちらを見た。冷静で、整っていて、どこも崩れていない。
相変わらず、名前は聞かれない。本来なら問診票やカルテがあるはずなのに。
けれど、佐原は何も言わなかった。まるで初めてじゃないように。まるで、ずっと前から俺の沈黙を待っていたように。
俺も、何も言わなかった。
言葉が必要なら、ここには来なかった。言葉なんか、もうとっくに使い果たしていた。
あのとき、言えなかったこと。言ってしまって壊したこと。何も言わないことで失ったもの。
それらが、喉の奥で塊になって詰まってる。吐き出したら、また全部なくなる気がして、怖い。
*
「先週、ここで話してもらったことは覚えてる?」
佐原が静かに口を開いた。
「……覚えてる」
短く答える。嘘はつきたくなかった。でも、これ以上は言いたくなかった。
「薬は、出してないけど……今、眠れてる?」
その声は変わっていなかった。懐かしくて、同時に遠い。
「眠れない日もある。けど、別に……死ぬほどじゃない」
「死ぬほどって、どういうこと?」
「……知らない」
言葉が、宙に浮いて落ちた。彼の問いは罠じゃない。でも、答えるにはあまりに脆い。
沈黙が落ちる。でも、この沈黙は嫌じゃない。
俺は佐原の顔を見なかった。天井を見てた。淡い陽の光が蛍光灯に溶けて、目が滲んだ。
それでも、何かを話したい気持ちは、確かにあった。
「……なあ。今、何人くらい、患者抱えてんの?」
「全体の患者数は言えないが、今日は君が来るまで、十七人の診察をした」
「そっか。それじゃあ、俺のことも“患者”って呼ぶの?」
彼は少しだけ口元を動かした。笑った、ような気がした。
「患者って言葉、あまり好きじゃない」
「じゃあ、何?」
「七原」
呼ばれて、心臓が跳ねた。
その名前は、今の俺を呼ぶには優しすぎた。誰も、そんなふうに俺を呼ばない。
だけど、佐原が言うと、それはひどく重たくて、心の奥の、使っていない部屋に触れられるようだった。
「俺……たぶん、あんたに会いに来たわけじゃない」
「うん」
「ただ、戻れそうな気がして……来ただけ。戻る場所なんて、どこにもないけど」
「戻らなくてもいい。ここは進む場所でもあるから」
そう言われて、また黙った。
そうだ。ここは、前を向くための場所だった。でも俺は、あの頃に立ち戻りたかった。
まだ何も壊れていなかった時間へ。あの朝、ベッドの中で黙っていた佐原の手の温度を、思い出した。
*
「また来ても、いいの?」
「もちろん」
あまりに自然に言うから、少しだけ腹が立った。でも、救われた気もした。
腹が立つのに、安心するって、どういうことなんだ。
「じゃあ……来週も、来る」
それだけ言って、立ち上がった。
背中に彼の視線を感じた。
何も聞かず、何も追わず、ただそこにある目。
見守ることと、見透かすことの違いを、俺は少しだけ、思い出しはじめていた。
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