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夢への足掛かり編 第二話
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金曜日。土地を見に行く日がやってきた。
6月下旬とはいえ、初夏を感じさせるムシムシと暑い日だった。関東は今日一日、晴れらしいので良い内見?外見?日和と言えるだろう。
午前8時前、不動産屋の始業時間に合わせて俺は、駅前に来ていた。ここで、中曽根さんと待ち合わせている。
少し早めに来てしまったが、もう中曽根さんは来てたりするかな。
そんな事を思いながら駅前をキョロキョロと見渡していると、道路側からププッ、と車のホーンの音が聞こえた。
ホーン音の方を見ると、車に乗った中曽根さんが車窓から手を振っていることがわかったので、俺は車へと近寄った。
「おはようございます、喜多さん。暑い中待たせてしまいすみません。」
「おはようございます、中曽根さん。丁度来たところだったので、大丈夫ですよ。車、ありがとうございます。」
俺は、助手席側に乗り込みながらそう伝えた。
「では、行きましょうか。高速に乗っていくので、大体2時間くらいかかりますね。」
「はい、お願いしますね。」
そうか、2時間程度で着くのか。思ったよりも近いな。もし良さげな場所であれば、バイクを青央さんに売る前に行ってみるのも良いな。ちなみに青央さんとは今でもちょくちょく連絡を取っていて、俺が辞めた事で業務が滞ってヤバい、など情報を聞いてはニヤニヤとしている。
中曽根さんが車を走らせる。アクセルワークから、優しめな運転をする人だということが分かった。結構いるんだよね、急発進、急ブレーキする人。だけど今回は安心だ。
「高速道路って結構疲れるので、途中休みを挟んでもいいですからね。」
「おや、喜多さんはお優しいのですね。ですが、大丈夫ですよ。2時間程度の道なんて、この仕事をやっていれば慣れたものです。」
中曽根さんは自信満々に笑みを浮かべていた。まぁ確かに、不動産会社で働いていれば物件がある場所に車で移動する事なんて日常茶飯事だろう。そりゃ、慣れもするか。
数分走らせると、高速道路へのインターチェンジが見えてきた。
ETCで素早く通過した。うん、スマートだね。
一度、ETCカードを家に忘れて係員がいる側から通過した事があるが、あれ結構面倒なんだよね。バイクだった、って事もあって通行券を受け取るのも、しまうのも、料金を払うのもモタついてその時はETCのありがたみを思い知ったよ。
「ふぅ、高速に乗れると一安心ですね。」
高速の本道へと合流を済ませると、中曽根さんは溜息をつきながらそう言った。
「高速道路は速いから怖い、なんて言う人もいますけど、俺も高速に乗っちゃえば安心するタイプですね。速度が速い分快適に感じるんですよね。信号も無いのでいちいち停止する手間もかかりませんし。」
「あはは、喜多さんも同じでしたか。」
こんな具合で、中曽根さんと雑談しながら、プチ旅行気分を味わいながら目的地への旅路を楽しんでいった。
雑談をしながらの2時間は、案外早いものだった。
「ここの通りを右折したら、まもなく目的地ですね。」
そこは、辺りが農場の広大な場所だった。時折民家が見えるが、農地主体と言って良いだろう。植えられている作物はとうもろこしや西瓜、胡瓜やトマトなど、これから旬を迎える夏野菜達だった。青々と茂った稲も見える。これから出穂して、立派な穂を垂れる事だろう。
穏やかで、良い所だ。車窓を開けてみると、心地よい風と農地特有の肥しの混ざった、土の香りが俺の鼻腔をくすぐる。昔、祖父の畑を手伝っていた時に嗅いだあの匂いを思い出した。
「ここが目的地です。」
「ありがとうございます、運転お疲れさまでした。」
中曽根さんが車を止める。
ドアを開けて車から降りると、一軒家と広めの庭が見えた。ここがあの10万の土地か。
なだらかな坂の頂上にこの土地はあり、遠くに霞ヶ浦を一望することが出来る。
「庭は雑草が伸びっぱなしですね。」
「えぇ、お隣の家主さんはここ数年手を付けていないとの事ですので。ですが、家は定期的に掃除をしているので清潔な状態ですよ。」
庭は、雑草が俺の腰の高さにまで伸びていて、地面が見えなかった。もしこの土地を買うとすれば、まずはこの庭をどうにかしないといけないだろう。
(そして、ここのお隣が家主の家か…)
お隣の家を見てみると、それは立派な門を構えた、とても大きな家だった。ここからはあまり見えないが、家の裏から稲が顔を覗かせている。裏手には田んぼがあるのだろう。
「では、さっそく家の中に入りましょうか。」
中曽根さんは鍵を取り出し、引き戸になっている扉を開けた。
家に入って感じたことは、なんといっても綺麗。定期的に掃除をしているとは言っていたが、もう少し埃でも被っているかと思っていた。まるで今でも人が住んでいるかのように綺麗に掃除されていた。
「とても綺麗に掃除されていますね。」
「えぇ、とても良い物件でしょう?」
たしかに良い物件だ。二階建ての3LDK。1階にはそこそこ広めのリビングにこれまた料理のしやすそうなキッチン、洗面所に風呂、トイレ、和室が1つに収納がたくさん。2階には部屋が2つにウォークインクローゼットまであった。
「ここ、ほんとに10万なんですか?」
ほんとに、疑ってしまうレベルで良い物件だった。契約した後に法外な金額吹っ掛けられないか心配になってしまう。
「えぇ、疑ってしまうのもわかりますが、本当に10万円なんですよ。びっくりしますよね。とはいえ、駅からも遠いですし、周辺にバス停も無いです。食料品を買いに行くにもちょっと遠いので、不便ではありますね。」
なるほど、こりゃ車が必需品になりそうだ。
一通り室内を回ってみたが、十分すぎるくらいに立派な家だった。明日からでも住めるくらいに綺麗だ。
「もう一度、庭を見てもいいですか?」
「もちろんですよ。」
俺は外に出て、庭の茂みにガサガサと入りながら見て回る。
「ちょ、喜多さん、怪我しますよっ」
「大丈夫ですよー、実際にどれくらいの広さか確認するだけなので、ご心配なくー」
中曽根さんは心配そうに見ているが、別段大丈夫だろう。
ぐるりと1周回ってみる。広さは大体テニスコート半面よりも少し広いくらいだろうか。地面は硬くなっていたが平らで、ちゃんと雑草を処理すれば問題なく動物の飼育は可能だろう。一部分、柔らかくなっている場所があった。穴が空いているので、モグラが掘り返したのだろう。モグラがいるということは、ミミズや幼虫などがいるという事だ。土に養分が含まれている、という事だろう。耕せば家庭菜園もできるんじゃないかな。
ただ、周りが柵で囲まれていないので、柵を設置する必要がありそうだ。動物を飼った時に脱走防止のためにも必要になるだろう。
別にここを買うとは決めてはいないものの、こういったシミュレーションは大事だろう。
そこでふと、視界に青い稲が見えた。さっきは隠れて見えなかった、お隣の田んぼで育つ稲だろう。
その時、風が吹いた。強風、というわけではないが強めの風だった。稲が風を受けてまるで波のように揺れ、波紋を描いていた。陸なのに、まるで海を連想させるかのような幻想的な瞬間だった。
(綺麗だ…)
俺は、その光景に胸を打たれた。まるで、時間が止まったかのようにその光景に釘付けになる。この光景は、都会で生きていては一生拝むことのできないものだろう。
「喜多さーん!」
俺は、中曽根さんの声で現実世界へと戻された。危ない、もし声を掛けられなかったらずっとこの光景を見ていた事だろう。
「すみません中曽根さん、今そっち戻りますー。」
俺は、庭の茂みから出て中曽根さんに駆け寄った。
「どうしたんですか、何かボーっとしてましたけど。」
「いえ、何でもないですよ。それより、ここの家主さんとお話ってできますか?」
「多分出来ますよ。呼んでくるので、少し待っててくださいね。」
中曽根さんは、お隣の家主さんの家に駆けていった。
家主さんはどういう人だろうか。怖い人じゃなければいいが。
少しすると、中曽根さんが60代くらいの少し白髪の混じった、浅黒い健康的な肌をした恰幅の良いダンディなおじ様を連れてきた。
「初めまして、ここの家主の猫村です。」
「初めまして、喜多と申します。」
猫村?どこかで聞いたことがあるが…あぁ、ほなみさんと同じ苗字か。ま、同じ苗字の人なんて沢山いるだろう。
「どうですかな、この土地は。」
「えぇ、とても良い土地です。景色も素晴らしいですし、なんと言っても、空気が美味しい。ビルの建ち並んだ都会ではこんな空気は吸えませんよ。」
「はっはっは、それはよかった。」
よかった、現段階では怖い人では無さそうだ。
「裏手で育てているのは稲ですか?」
「そうですよ、茨城県が開発したオリジナル品種の”ふくまる”という品種なんですけどね、一粒一粒が大きいんですよ。食べ応えがあって、美味しいですよ。」
「へぇ、”ふくまる”ですか。それは美味しそうですね。」
聞いたことのない品種だった。そもそも、米なんてコシヒカリやササニシキ、あきたこまちくらいしか知らない。米って色んな種類があるんだね。
「ここの土地を買って頂ければ、収穫時に差し上げますよ。」
「ははは、なるほど。それは魅力的ですね。」
なんともまぁ、商売上手な人だ。魅力的な提案を投げかけてきたものだ。
…だが、そんな提案をされなくても答えは決まっている。
「その提案が魅力的だから、って訳では無いですが…買わせていただきますよ。」
「えっ!?」
中曽根さんが驚きの声を発する。
「あの庭を散策していた時から、決まっていたんですよ。この、穏やかな環境の中でこそ映える、風が吹いてまるで波紋を広げるかのように波打つ稲の幻想的な光景を見てしまったからには買う以外の選択は消えましたよ。出穂して、黄金色の波が広がる光景を見てみたいとすら思いました。」
それを聞くと、猫村さんは気持ちよく笑った。
「はっはっはっ、そう言うと思っていましたよ。実は、先程庭を回っていた所を家から眺めていました。この土地の魅力に気が付かれるとは。私も、あなたになら売っても良いと思っていましたよ。」
中曽根さんは俺と猫村さんを眼を丸くさせながら交互に見ている。そんなにおかしなことかね。
「いやぁ、喜多さんは変わった若者だ。好き好んでこの土地を買われる人なんていないと思っていましたよ。」
「この土地の魅力に気が付けない程、俺は残念な感性は持ち合わせていませんからね。」
俺と猫村さんは二人して笑いあった。その光景を見ている中曽根さんは、相変わらず俺たちを見ては首をかしげて、まるで不思議なものでも見つけたかのようだった。
そんなこんなで俺は土地を買う意思を示したわけだが、今日は物件を見に行くだけだったから判子等を持ち合わせていなかったので後日契約する、という事になった。
俺としては、今住んでいる土地でやる事と言えば、青央さんにバイクを売る事と、後は引っ越した時の為に車を買うことだろう。引っ越しの準備も始めなきゃね。後は、出来る限りほなみさんの料理の腕を上げてもらおう。俺としても、”Katze”が潰れてしまうのは忍びない。
やる事が、着実に確定してきた。これから、忙しくなりそうだ。
こういった楽しそうな忙しさは、俺としては喜ばしい事だ。会社にいた頃とは違った、新しい経験を積んでいこう。ある哲学者が言っていた事だが、人間の生きる理由には『快楽』、つまり『楽しいことを求める』という事が重要だという。俺は、これから楽しい事を求めて、探求しながら人生を謳歌していこうと思う。
6月下旬とはいえ、初夏を感じさせるムシムシと暑い日だった。関東は今日一日、晴れらしいので良い内見?外見?日和と言えるだろう。
午前8時前、不動産屋の始業時間に合わせて俺は、駅前に来ていた。ここで、中曽根さんと待ち合わせている。
少し早めに来てしまったが、もう中曽根さんは来てたりするかな。
そんな事を思いながら駅前をキョロキョロと見渡していると、道路側からププッ、と車のホーンの音が聞こえた。
ホーン音の方を見ると、車に乗った中曽根さんが車窓から手を振っていることがわかったので、俺は車へと近寄った。
「おはようございます、喜多さん。暑い中待たせてしまいすみません。」
「おはようございます、中曽根さん。丁度来たところだったので、大丈夫ですよ。車、ありがとうございます。」
俺は、助手席側に乗り込みながらそう伝えた。
「では、行きましょうか。高速に乗っていくので、大体2時間くらいかかりますね。」
「はい、お願いしますね。」
そうか、2時間程度で着くのか。思ったよりも近いな。もし良さげな場所であれば、バイクを青央さんに売る前に行ってみるのも良いな。ちなみに青央さんとは今でもちょくちょく連絡を取っていて、俺が辞めた事で業務が滞ってヤバい、など情報を聞いてはニヤニヤとしている。
中曽根さんが車を走らせる。アクセルワークから、優しめな運転をする人だということが分かった。結構いるんだよね、急発進、急ブレーキする人。だけど今回は安心だ。
「高速道路って結構疲れるので、途中休みを挟んでもいいですからね。」
「おや、喜多さんはお優しいのですね。ですが、大丈夫ですよ。2時間程度の道なんて、この仕事をやっていれば慣れたものです。」
中曽根さんは自信満々に笑みを浮かべていた。まぁ確かに、不動産会社で働いていれば物件がある場所に車で移動する事なんて日常茶飯事だろう。そりゃ、慣れもするか。
数分走らせると、高速道路へのインターチェンジが見えてきた。
ETCで素早く通過した。うん、スマートだね。
一度、ETCカードを家に忘れて係員がいる側から通過した事があるが、あれ結構面倒なんだよね。バイクだった、って事もあって通行券を受け取るのも、しまうのも、料金を払うのもモタついてその時はETCのありがたみを思い知ったよ。
「ふぅ、高速に乗れると一安心ですね。」
高速の本道へと合流を済ませると、中曽根さんは溜息をつきながらそう言った。
「高速道路は速いから怖い、なんて言う人もいますけど、俺も高速に乗っちゃえば安心するタイプですね。速度が速い分快適に感じるんですよね。信号も無いのでいちいち停止する手間もかかりませんし。」
「あはは、喜多さんも同じでしたか。」
こんな具合で、中曽根さんと雑談しながら、プチ旅行気分を味わいながら目的地への旅路を楽しんでいった。
雑談をしながらの2時間は、案外早いものだった。
「ここの通りを右折したら、まもなく目的地ですね。」
そこは、辺りが農場の広大な場所だった。時折民家が見えるが、農地主体と言って良いだろう。植えられている作物はとうもろこしや西瓜、胡瓜やトマトなど、これから旬を迎える夏野菜達だった。青々と茂った稲も見える。これから出穂して、立派な穂を垂れる事だろう。
穏やかで、良い所だ。車窓を開けてみると、心地よい風と農地特有の肥しの混ざった、土の香りが俺の鼻腔をくすぐる。昔、祖父の畑を手伝っていた時に嗅いだあの匂いを思い出した。
「ここが目的地です。」
「ありがとうございます、運転お疲れさまでした。」
中曽根さんが車を止める。
ドアを開けて車から降りると、一軒家と広めの庭が見えた。ここがあの10万の土地か。
なだらかな坂の頂上にこの土地はあり、遠くに霞ヶ浦を一望することが出来る。
「庭は雑草が伸びっぱなしですね。」
「えぇ、お隣の家主さんはここ数年手を付けていないとの事ですので。ですが、家は定期的に掃除をしているので清潔な状態ですよ。」
庭は、雑草が俺の腰の高さにまで伸びていて、地面が見えなかった。もしこの土地を買うとすれば、まずはこの庭をどうにかしないといけないだろう。
(そして、ここのお隣が家主の家か…)
お隣の家を見てみると、それは立派な門を構えた、とても大きな家だった。ここからはあまり見えないが、家の裏から稲が顔を覗かせている。裏手には田んぼがあるのだろう。
「では、さっそく家の中に入りましょうか。」
中曽根さんは鍵を取り出し、引き戸になっている扉を開けた。
家に入って感じたことは、なんといっても綺麗。定期的に掃除をしているとは言っていたが、もう少し埃でも被っているかと思っていた。まるで今でも人が住んでいるかのように綺麗に掃除されていた。
「とても綺麗に掃除されていますね。」
「えぇ、とても良い物件でしょう?」
たしかに良い物件だ。二階建ての3LDK。1階にはそこそこ広めのリビングにこれまた料理のしやすそうなキッチン、洗面所に風呂、トイレ、和室が1つに収納がたくさん。2階には部屋が2つにウォークインクローゼットまであった。
「ここ、ほんとに10万なんですか?」
ほんとに、疑ってしまうレベルで良い物件だった。契約した後に法外な金額吹っ掛けられないか心配になってしまう。
「えぇ、疑ってしまうのもわかりますが、本当に10万円なんですよ。びっくりしますよね。とはいえ、駅からも遠いですし、周辺にバス停も無いです。食料品を買いに行くにもちょっと遠いので、不便ではありますね。」
なるほど、こりゃ車が必需品になりそうだ。
一通り室内を回ってみたが、十分すぎるくらいに立派な家だった。明日からでも住めるくらいに綺麗だ。
「もう一度、庭を見てもいいですか?」
「もちろんですよ。」
俺は外に出て、庭の茂みにガサガサと入りながら見て回る。
「ちょ、喜多さん、怪我しますよっ」
「大丈夫ですよー、実際にどれくらいの広さか確認するだけなので、ご心配なくー」
中曽根さんは心配そうに見ているが、別段大丈夫だろう。
ぐるりと1周回ってみる。広さは大体テニスコート半面よりも少し広いくらいだろうか。地面は硬くなっていたが平らで、ちゃんと雑草を処理すれば問題なく動物の飼育は可能だろう。一部分、柔らかくなっている場所があった。穴が空いているので、モグラが掘り返したのだろう。モグラがいるということは、ミミズや幼虫などがいるという事だ。土に養分が含まれている、という事だろう。耕せば家庭菜園もできるんじゃないかな。
ただ、周りが柵で囲まれていないので、柵を設置する必要がありそうだ。動物を飼った時に脱走防止のためにも必要になるだろう。
別にここを買うとは決めてはいないものの、こういったシミュレーションは大事だろう。
そこでふと、視界に青い稲が見えた。さっきは隠れて見えなかった、お隣の田んぼで育つ稲だろう。
その時、風が吹いた。強風、というわけではないが強めの風だった。稲が風を受けてまるで波のように揺れ、波紋を描いていた。陸なのに、まるで海を連想させるかのような幻想的な瞬間だった。
(綺麗だ…)
俺は、その光景に胸を打たれた。まるで、時間が止まったかのようにその光景に釘付けになる。この光景は、都会で生きていては一生拝むことのできないものだろう。
「喜多さーん!」
俺は、中曽根さんの声で現実世界へと戻された。危ない、もし声を掛けられなかったらずっとこの光景を見ていた事だろう。
「すみません中曽根さん、今そっち戻りますー。」
俺は、庭の茂みから出て中曽根さんに駆け寄った。
「どうしたんですか、何かボーっとしてましたけど。」
「いえ、何でもないですよ。それより、ここの家主さんとお話ってできますか?」
「多分出来ますよ。呼んでくるので、少し待っててくださいね。」
中曽根さんは、お隣の家主さんの家に駆けていった。
家主さんはどういう人だろうか。怖い人じゃなければいいが。
少しすると、中曽根さんが60代くらいの少し白髪の混じった、浅黒い健康的な肌をした恰幅の良いダンディなおじ様を連れてきた。
「初めまして、ここの家主の猫村です。」
「初めまして、喜多と申します。」
猫村?どこかで聞いたことがあるが…あぁ、ほなみさんと同じ苗字か。ま、同じ苗字の人なんて沢山いるだろう。
「どうですかな、この土地は。」
「えぇ、とても良い土地です。景色も素晴らしいですし、なんと言っても、空気が美味しい。ビルの建ち並んだ都会ではこんな空気は吸えませんよ。」
「はっはっは、それはよかった。」
よかった、現段階では怖い人では無さそうだ。
「裏手で育てているのは稲ですか?」
「そうですよ、茨城県が開発したオリジナル品種の”ふくまる”という品種なんですけどね、一粒一粒が大きいんですよ。食べ応えがあって、美味しいですよ。」
「へぇ、”ふくまる”ですか。それは美味しそうですね。」
聞いたことのない品種だった。そもそも、米なんてコシヒカリやササニシキ、あきたこまちくらいしか知らない。米って色んな種類があるんだね。
「ここの土地を買って頂ければ、収穫時に差し上げますよ。」
「ははは、なるほど。それは魅力的ですね。」
なんともまぁ、商売上手な人だ。魅力的な提案を投げかけてきたものだ。
…だが、そんな提案をされなくても答えは決まっている。
「その提案が魅力的だから、って訳では無いですが…買わせていただきますよ。」
「えっ!?」
中曽根さんが驚きの声を発する。
「あの庭を散策していた時から、決まっていたんですよ。この、穏やかな環境の中でこそ映える、風が吹いてまるで波紋を広げるかのように波打つ稲の幻想的な光景を見てしまったからには買う以外の選択は消えましたよ。出穂して、黄金色の波が広がる光景を見てみたいとすら思いました。」
それを聞くと、猫村さんは気持ちよく笑った。
「はっはっはっ、そう言うと思っていましたよ。実は、先程庭を回っていた所を家から眺めていました。この土地の魅力に気が付かれるとは。私も、あなたになら売っても良いと思っていましたよ。」
中曽根さんは俺と猫村さんを眼を丸くさせながら交互に見ている。そんなにおかしなことかね。
「いやぁ、喜多さんは変わった若者だ。好き好んでこの土地を買われる人なんていないと思っていましたよ。」
「この土地の魅力に気が付けない程、俺は残念な感性は持ち合わせていませんからね。」
俺と猫村さんは二人して笑いあった。その光景を見ている中曽根さんは、相変わらず俺たちを見ては首をかしげて、まるで不思議なものでも見つけたかのようだった。
そんなこんなで俺は土地を買う意思を示したわけだが、今日は物件を見に行くだけだったから判子等を持ち合わせていなかったので後日契約する、という事になった。
俺としては、今住んでいる土地でやる事と言えば、青央さんにバイクを売る事と、後は引っ越した時の為に車を買うことだろう。引っ越しの準備も始めなきゃね。後は、出来る限りほなみさんの料理の腕を上げてもらおう。俺としても、”Katze”が潰れてしまうのは忍びない。
やる事が、着実に確定してきた。これから、忙しくなりそうだ。
こういった楽しそうな忙しさは、俺としては喜ばしい事だ。会社にいた頃とは違った、新しい経験を積んでいこう。ある哲学者が言っていた事だが、人間の生きる理由には『快楽』、つまり『楽しいことを求める』という事が重要だという。俺は、これから楽しい事を求めて、探求しながら人生を謳歌していこうと思う。
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