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5話 悶々とした一夜を過ごした

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 アルベールヴィル・マンションは、フランス南部をイメージした外観と内装が売りの、デザイナーズマンションだ。
 全邸南向き、一フロアにつき三邸の3LDK。一人で住むには充分な広さである。
 タクシーがカーポートに着く頃には、清花はすっかりと眠りに就いていた。仕方なく横抱きにして、エントランスを潜る。
 フロントにいたコンシェルジュの男性が、静弥を見るなり笑みを浮かべた。女性を抱いていても表情を変えない辺り、プロ意識が高いことが窺える。
「お帰りなさいませ、筧さま」
「今日もご苦労さまです」
 簡単なやり取りの後、エレベーターに乗って五階の部屋へ向かう。
 その間、清花は身じろぎすらせず、すやすやと寝入っていた。
 ……こちらの気も知らずに、と思うのくらいは勘弁してもらいたい。
 部屋へ帰りつくと、玄関を開けて電気を点ける。内装は隅々までこだわり抜いてあるのに、生活感の薄い光景がそこには広がっていた。
 ひとまず鞄を適当に放ると、清花を主寝室へ連れていく。
 布団類をクリーニングにだしたばかりで良かった、と思いながら、彼女を寝台の上に横たえた。
 むにゃむにゃと何か言いながら清花が寝返りを打ったところで、唐突にポケットの中でスマートフォンが鳴りだし、ビクリとしてしまう。
 慌てて寝室から出て扉を閉め、画面をのぞき込む。
 着信は、海城からだった。
 何かと思って出てみれば、用事があるのは彼ではなく、リエというあの女性店員らしい。
 どうやら海城は、閉店まであの店で粘っていたようだ。
「お前に話があるんだってよ。――ほら、リエちゃん」
 そう言われて電話口に出たリエは、泣きそうな声だった。いや、実際に泣いていた。
 ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、謝罪の言葉を口にする。
「今日は、ご迷惑をおかけしてすみませんでした……! あの、清花先輩大丈夫でしたか?」
「ああ、大丈夫だ。心配いらない」
 今更、自分の家に連れてきたとは何となく言い出しづらく、曖昧に濁しておく。 
 リエはどこかほっとしたような、けれどまだ涙が滲む声で、話をつづけた。
「あの、清花先輩のこと怒らないであげてくださいね」
「え?」
「お酒を飲んだのも、アタシを守ろうとしただけですし、店長からも『お客さまのご機嫌を損ねないようにね』って、それとなく無理強いされたんです……。だから、清花先輩は何も悪くないんです……っ」
 ごめんなさい、ごめんなさいと、リエは何度も謝る。やがてその声が聞き取れなくなるほど小さくなった頃、ゴソゴソと音がして、電話口の声が海城に変わった。
「というわけだ。さやかちゃんに辛く当たらないでやってくれ」
「辛く当たるも何も……、俺は別に彼女の親や恋人じゃない」
 言っておきながら、恋人じゃない、という言葉に自分でダメージを受けていることに気づく。
 それに気づいているのかいないのか、電話の向こうの海城が苦笑めいた呟きを漏らした。
「まあお前がそう思うなら別にいいんだけどな。さやかちゃんも今日は怖かっただろうし、優しくな」
 まるで、清花が今ここにいることを見抜いているかのような口ぶりに、一瞬ぎくりとする。
 しかし海城のいる場所からこの部屋の様子など分かるはずもないのだから、きっと気のせいだと自分を納得させ、静弥は頷いた。
「……ああ。そこの彼女にも、もう気にしないでいいと伝えておいてくれ」
 それじゃ、と短く挨拶をして電話を切った。
 重い溜息を吐き、寝室に繋がる扉を見つめる。
 明日の朝、目覚めた清花はどんな顔をするのだろう。勝手に家に連れてきたことに、嫌悪を示さなければいいのだが。
 もちろん、何かする気など毛頭ない。
 酔って前後不覚になった女性に手を出すなど、男の風上にもおけない外道の行為だ。
 だからといって、一つ屋根の下に若い女性といて、何も感じないほど静弥も枯れてはいなかった。
 とりあえず少しでも頭を冷やすために、近所のコンビニに買い物に行こう。清花のための歯ブラシや朝食が必要だ。
 自炊をしない静弥の部屋の冷蔵庫の中には、冷凍食品しか入っていない。なんせ、米を炊くことすらないのだ。
 部屋を出てしっかり鍵が閉まったことを確認し、再びエレベーターで階下へ降りる。
 コンシェルジュが「おでかけですか?」と声をかけてきた。
「ちょっと、そこのコンビニまで。すぐに戻ります」
「左様でございますか。どうぞ、お気をつけて」
 見送られてエントランスを潜り、徒歩でコンビニへ向かう。こんな時間に開いている店なんて、コンビニか二十四時間営業のスーパーくらいのものだ。
 十二時過ぎのコンビニは客もまばらだった。二、三名が雑誌コーナーで立ち読みをしており、後は三人程度の客が、ぽつんぽつんと店内に散っている。 
 静弥は生活用品のコーナーへ向かうと、歯ブラシやら洗顔料などが並んでいる。
 有名キャラクターのイラストが描かれたそれは、ピンクとブルーがあった。自分の持っている歯ブラシがブルーなので、迷わずピンクを手に取る。
 宿泊用の洗顔セットやタオルも籠に放り入れ、弁当コ―ナーで適当なものを選ぶ。清花の好みがわからないので、パスタや幕の内やドリアなど、色々購入してみることにした。
 まるで同棲生活のようだ、などとワクワクしてしまったなんて、誰にも言えない。
 そうして会計を済ませて部屋に戻ると、清花の眠っている寝室へ足を踏み入れる。
 やや室温が涼しかったのでエアコンを入れ、サイドテーブルにコンビニで買ったばかりの歯ブラシやタオルを置いておく。
 明日の朝は、仕事で早く出かけなければならないため、清花のために書き置きを残しておくことにする。
『上条さんへ 冷蔵庫の中にある弁当は好きな物を食べてください。歯ブラシやタオルも置いておくので、ご自由にどうぞ』
 いつもより若干丁寧な字を心がけながら書いたメモを、タオルの上に置いておく。
 眠る清花の髪が乱れているのに気付き、それを顔の脇へと払った。
 丸みを帯びた白い頬や、長い睫毛があらわになり、心臓が強く鼓動を打つ。
 振り切るようにその場を後にした静弥は、キッチンでコーヒーを淹れた。普段はカフェラテを好んで飲むが、今日ばかりは苦い味で正気を保ちたく、ミルクも砂糖も入れずに飲む。
 三杯、四杯と過ごしているうちに目が冴えわたり、寝室にいる清花の存在を殊更に意識する羽目となった。
 結局その晩、静弥は一睡もできぬままに朝を迎えたのだった。
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