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それぞれの場所へ
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東京を離れる前に片付けないといけないことが沢山あった。
その中の一つが、和乃さんに挨拶することだった。
沢山のことを教わったのに、投げ出して無駄にすることを謝りたいと思った。
数日前にラインしたら、今日時間を作ってくれた。
返されたトークを見た時、少し笑ってしまった。
初対面の日に、たどたどしくスマホを操作してた和乃さんの姿を思い出してしまったから。
彼女の自宅近くのカフェで待ち合わせだった。
私がお店に着いた時には和乃さんはもうすでに席に着いてた。
「ご無沙汰してます、お元気でしたか?」
和乃さんが辞めてから三週間ちょっと。
でももっと長く会ってないような気がした。
「元気ですよ、旅したり、昼寝したり、もう色々と」
そう言って和乃さんは笑った。
そこは窓際の席だった。
私は和乃さんの向かいじゃなくてテーブルの角を挟んで隣の席に腰掛けた。
窓の外を行き過ぎる人を眺めながら話すことができた。
旅行の土産話なんかを聞きながら、その間に頼んだアイスカフェオレが届いた。
店員さんが向こうに行った時に切り出した。
「あの、実は私、」
あの家を出て行くと言うことは、あの件も白状しないとならない。
「健吾さん、と言いますか、専務と…婚約というのは嘘をついてまして…」
フフ、と和乃さんは笑った。
「初めから知ってましたよ、旦那様から聞いてましたから」
「え?」
「兄弟の手前、知らない振りをしてましたけどね」
「そうなんですか、なんだか恥ずかしいです」
知らなかった…
この後、私も家政婦を辞めてあの屋敷を出て行くことを話した。
和乃さんは驚きも、私を責める事もしなかった。
「私は、圭さんと弥生さんが結婚するものと思ってました。」
な、何を急に、和乃さん…
「…ありえません」
そう答えながらも、和乃さんがまだ辞める前、何かを見られてしまったのかもと、内心は冷や汗をかいた。
スキンシップ的なものを…
「圭さんは最初から、弥生さんにデレデレでしたからね」
「そんなことは、ありません」
否定する私に和乃さんは、穏やかに微笑んだ。
「圭さんは、あなたのことが好きですよ」
「そんなことありません!
無理って、成実さんとって、私は…拒否…されました」
途中から、涙がボロボロとこぼれてしまった。
あの日、ピアノの部屋で涙は出尽くしたと思ってたのに、まだ残ってた。
「ごめんなさい、」
人の目がある。
和乃さんが恥ずかしいだろうと思って、精算するために伝票に手を伸ばした。
その手を和乃さんが握り締めた。
反対の手は私の背中をさすってくれた。
私は声だけは押し殺して、そのまましばらく泣き続けた。
「すみません、もう大丈夫です」
バッグからハンカチを出して最後の涙を拭った。
落ち着いたのを見届けると和乃さんは、そっと私の前にメモを置いた。
「実は週に一度だけ、一、二時間掃除に行く契約になってます」
和乃さんの言葉の意味は分からなかった。
二つ折のメモを取り上げて、広げて見た。
そこに書かれているのは、新宿区のとある住所だった。
「圭さんの住所です。守秘義務違反で怒られますね、きっと」
そう言って和乃さんは、意味深に笑った。
彼女と別れてその足で、来てしまった。
圭さんのマンションに。
瀟洒なマンション。
オートロックの外側、腰の高さの装置に部屋番号を入力して呼び出しを押した。
反応はない。
開かない自動扉の向こうには、ホテルのロビーのような空間が広がってた。
一角には黒い革のソファがあって、生花も活けてあった。
中に人影が見えた。
この場所に留まってたら、不審に思われそうだった。
仕方なく外へ出て、道の反対側へ渡った。
少し離れた方が、建物と駐車場の出入口が両方とも見渡せた。
街路樹の下に佇むと建物を見上げた。
圭さんの部屋番号は高層階を示してた。
建物を堺にして上空の右側は澄み渡ってるのに、左は黒い雲に覆われてた。
さっきまで蒸し暑い陽気だったのに、今は冷たい風が低い地上を吹き抜けた。
もし会えたとして、圭さんに何を言う?
私のみっともない悪あがきを、どう思う?
もう一度拒絶されたら、私はどうなるんだろう…
何時からここに立ってるのか、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
辺りは急に暗くなった。
それは日没のせいじゃなくて、黒い雲がとうとう太陽を遮ってしまったから。
薄暗くても分かった。
エントランス前に停まった一台の白いステーションワゴン。
すぐに車が走り去るとそこに残されたのは、キャップを目深に被った圭さんだった。
その圭さんが何かを話しかけた、一緒に車から降りた成実さんに。
距離を縮めた成実さんは、圭さんの首に腕を回して頬にキスした。
儚い願望がそう見せたのか、それは挨拶程度の軽いキスだった。
成実さんは圭さんから顔を離した時、道を挟んだ歩道にいる私を見た。
首に回された腕は、今度は圭さんの腕を巻き込んで、オートロックの中へと消えて行った。
その中の一つが、和乃さんに挨拶することだった。
沢山のことを教わったのに、投げ出して無駄にすることを謝りたいと思った。
数日前にラインしたら、今日時間を作ってくれた。
返されたトークを見た時、少し笑ってしまった。
初対面の日に、たどたどしくスマホを操作してた和乃さんの姿を思い出してしまったから。
彼女の自宅近くのカフェで待ち合わせだった。
私がお店に着いた時には和乃さんはもうすでに席に着いてた。
「ご無沙汰してます、お元気でしたか?」
和乃さんが辞めてから三週間ちょっと。
でももっと長く会ってないような気がした。
「元気ですよ、旅したり、昼寝したり、もう色々と」
そう言って和乃さんは笑った。
そこは窓際の席だった。
私は和乃さんの向かいじゃなくてテーブルの角を挟んで隣の席に腰掛けた。
窓の外を行き過ぎる人を眺めながら話すことができた。
旅行の土産話なんかを聞きながら、その間に頼んだアイスカフェオレが届いた。
店員さんが向こうに行った時に切り出した。
「あの、実は私、」
あの家を出て行くと言うことは、あの件も白状しないとならない。
「健吾さん、と言いますか、専務と…婚約というのは嘘をついてまして…」
フフ、と和乃さんは笑った。
「初めから知ってましたよ、旦那様から聞いてましたから」
「え?」
「兄弟の手前、知らない振りをしてましたけどね」
「そうなんですか、なんだか恥ずかしいです」
知らなかった…
この後、私も家政婦を辞めてあの屋敷を出て行くことを話した。
和乃さんは驚きも、私を責める事もしなかった。
「私は、圭さんと弥生さんが結婚するものと思ってました。」
な、何を急に、和乃さん…
「…ありえません」
そう答えながらも、和乃さんがまだ辞める前、何かを見られてしまったのかもと、内心は冷や汗をかいた。
スキンシップ的なものを…
「圭さんは最初から、弥生さんにデレデレでしたからね」
「そんなことは、ありません」
否定する私に和乃さんは、穏やかに微笑んだ。
「圭さんは、あなたのことが好きですよ」
「そんなことありません!
無理って、成実さんとって、私は…拒否…されました」
途中から、涙がボロボロとこぼれてしまった。
あの日、ピアノの部屋で涙は出尽くしたと思ってたのに、まだ残ってた。
「ごめんなさい、」
人の目がある。
和乃さんが恥ずかしいだろうと思って、精算するために伝票に手を伸ばした。
その手を和乃さんが握り締めた。
反対の手は私の背中をさすってくれた。
私は声だけは押し殺して、そのまましばらく泣き続けた。
「すみません、もう大丈夫です」
バッグからハンカチを出して最後の涙を拭った。
落ち着いたのを見届けると和乃さんは、そっと私の前にメモを置いた。
「実は週に一度だけ、一、二時間掃除に行く契約になってます」
和乃さんの言葉の意味は分からなかった。
二つ折のメモを取り上げて、広げて見た。
そこに書かれているのは、新宿区のとある住所だった。
「圭さんの住所です。守秘義務違反で怒られますね、きっと」
そう言って和乃さんは、意味深に笑った。
彼女と別れてその足で、来てしまった。
圭さんのマンションに。
瀟洒なマンション。
オートロックの外側、腰の高さの装置に部屋番号を入力して呼び出しを押した。
反応はない。
開かない自動扉の向こうには、ホテルのロビーのような空間が広がってた。
一角には黒い革のソファがあって、生花も活けてあった。
中に人影が見えた。
この場所に留まってたら、不審に思われそうだった。
仕方なく外へ出て、道の反対側へ渡った。
少し離れた方が、建物と駐車場の出入口が両方とも見渡せた。
街路樹の下に佇むと建物を見上げた。
圭さんの部屋番号は高層階を示してた。
建物を堺にして上空の右側は澄み渡ってるのに、左は黒い雲に覆われてた。
さっきまで蒸し暑い陽気だったのに、今は冷たい風が低い地上を吹き抜けた。
もし会えたとして、圭さんに何を言う?
私のみっともない悪あがきを、どう思う?
もう一度拒絶されたら、私はどうなるんだろう…
何時からここに立ってるのか、どれくらい時間が経ったのか分からなかった。
辺りは急に暗くなった。
それは日没のせいじゃなくて、黒い雲がとうとう太陽を遮ってしまったから。
薄暗くても分かった。
エントランス前に停まった一台の白いステーションワゴン。
すぐに車が走り去るとそこに残されたのは、キャップを目深に被った圭さんだった。
その圭さんが何かを話しかけた、一緒に車から降りた成実さんに。
距離を縮めた成実さんは、圭さんの首に腕を回して頬にキスした。
儚い願望がそう見せたのか、それは挨拶程度の軽いキスだった。
成実さんは圭さんから顔を離した時、道を挟んだ歩道にいる私を見た。
首に回された腕は、今度は圭さんの腕を巻き込んで、オートロックの中へと消えて行った。
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