初愛シュークリーム

吉沢 月見

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★お店はじめます

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 利紗子の自転車を借りて新居の近所を散策するのが日課だ。山だから坂ばかりで、折り畳み自転車では厳しい。私も車の免許を取るべきだろう。商売をするならきっと必要だ。いかんせん、腰が重いし、時間の流れについてゆけない。されど、こうして山の川の流れを見ていると速いものだ。
夕飯を作って食べればあとは寝るだけで一日が終わってしまう。
 利紗子と一緒だからだ。あっという間。これでは早く死んでしまう気がする。
 反対に利紗子は、作業スペースにすのこを敷こうとしている。
「この上に寒くなったらカーペットにしようかな。どう思う?」
 一人暮らし同士が一緒に暮らすとポットがふたつ、やかんがふたつ、食器が売れるほど大量になってしまった。ノンカフェインのお茶を淹れたら利紗子が眉間に皺を寄せる。確かに、苦い葉っぱの味しかしない。
「利紗子の好きにしたらいいよ」
 そう言うと嬉しそうな顔をするときもあれば怒るときもあるので、恋人であっても他人の心なんて知りたくない。
 今回は後者。
「もう、そればっかり。郁実はお店の名前決めたの? いつ始められそう? 食材の調達はどうするの?」
 などと色々聞いてくる。
「うーん」
 正直なところ何も決めていない。故に、考えてるよと反論もできない。
「私、お店の袋考えたんだけど。見て」
 利紗子がタブレットを見せる。緑と黄色の平行線がぐるぐるしている。
「いいんじゃない?」
「ここにお店の名前かロゴ入れようと思って」
 利紗子がマウスで示す。
「うん」
「だめ? 却下?」
 利紗子が怪訝な顔をする。その顔はちょっと嫌い。怒ったときの顔に似ているからだ。
「ううん、だめじゃない」
 と慌てて宥める。
「お店のカードも作ろうか? ポイントカードとか」
「お店の名刺みたいなのがいいな。お洒落なやつ」
「了解。早くシュークリーム作ってよ。写真を撮ってホームページに載せるから」
「うん」
 とカラ返事。そこまでぽんぽん考えられないよ。利紗子ってどういう頭をしているのだろう。
 昨日やっと、近所の人に引っ越しの挨拶をしたところだ。近所といっても300メートルくらい離れているし、我が家からはカーブで見えない。
「よろしく」
 と腰と足の曲がったおばあさんが言ってくれた。
 金柑、菜の花、アスパラをいただいた。
「ありがとうございます」
 こちらは食器用洗剤だけで比重がおかしい。
「二人はきょうだい?」
 その問いに私と利紗子は顔を見合わせた。
「パートナーです」
 おばあさんには伝わらなかったよう。どうして説明しなかったのか、それよりもそう発した自分に驚いた。
「金柑、庭の木になってたやつかな」
 帰り道で利紗子が口に放り入れる。
「洗ってからのほうがいいんじゃない?」
 私は言った。
「大丈夫だよ。それより、どうしようか、私たち」
「私たち?」
「きょうだいってことにしちゃう?」
 利紗子が金柑の種をぷっと飛ばした。
「気にする?」
「するよ。こういう田舎って変な噂が立つと住みづらいって聞くし」
「わからない人にはわからないでいいんじゃないかな」
 うやむやにしているのは私も同じだ。
 結論は出なかった。
「郁実、お風呂お先にどうぞ」
「うん」
 不安はまだある。店を始めるには利紗子が考えてくれる手持ち袋よりも営業届とかレストランの形態をとるなら保健所の許可とかが必要なのだ。
 ゆっくり湯船に浸かっている場合ではない。
 利紗子とお風呂を交替して、利紗子のタブレットを見てしまった。文字と写真。
『新天地で恋人と暮らし始めました。このブログをやめてしまったのは、恋人との関係に悩んでいたから。不倫ではないし、略奪でもない。むしろきれいな恋なのに、人には話せない。表現が難しいのです。
 しっくりしない。それが私たちです。
 山に来たばかりです。桜が咲き始めました。ゆっくりと私のペースでこのブログを再開しようと思います。私と同じような人なら共感してくれるのでしょう。でも、私の好きな人は私に言いました。「美しいものを美しいと思いたいし、好きな人を好きでいたい」と。私もそう思います』
 利紗子が綻び始めた桜の写真を撮っていたのはこのためか。この景色だけでここが割り出せるとは思えない。
 私も私を否定するつもりはない。私の恋人はかわいい。
 ブログをするのは広告収入のためなのだろう。利紗子は偉いな。
 これではいけないと、慌てて食品衛生責任者の申し込みをする。開店準備が先か悩んでいたが、考えているだけではお金にならない。ああ、講習にも金がかかる。
「郁実のタオルってどうして全部いいやつなの?」
 お風呂上がりの利紗子が頬にくっつける。
「そう? もらい物かな」
「へえ。知り合いにタオル職人さんでもいるの? メイドインパリじゃん? 高級品?」
「どうかな」
 濁したというよりも本当に知らないのだ。母親の好きなやつって言いそうになって、言葉にならなかった。母親は好きじゃない。それを利紗子には話していない。人を人として扱わない人のことなんて忘れたい。それでも物がなくなると買わないで実家の物をくすねていた。これだけ距離が離れれば、そうそう帰ることもないだろう。
 他人の利紗子のほうが100億倍好き。だからブログを読んでしまったことも言わない。
 まだ、迷っているのだろうか。
「郁実、おやすみ」
「おやすみ」
 毎晩言うんだね。知らなかったよ。知っている人間の中で利紗子がもう一番の家族だよ。
 人を愛しいと思ったのは初めてだし、それによって自分を肯定せざるを得なくて、気恥ずかしい。
 こっち向かないかな。利紗子の寝息は安心する。私は利紗子の前で放屁はしない。疲れたらいびきをかいちゃうのかな。鼻に装着するバネみたいなやつ買おうかな。でもそれをつけた顔を利紗子に見られるのも嫌だな。こんなふうに、寝る瞬間まで想っていて、なんかごめん。
 利紗子の細い指を握る勇気もない。
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