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★お店はじめます
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こっちに来て、初めてシュークリームを作った。初めてはいつだって緊張する。
「どう?」
利紗子が心配してくれる。
「うん、これから焼くところ。大きさどうしよう?」
「私、大きいのがいいな」
利紗子が手で丸を作るが、どれくらい膨らむかわかりかねる。
「了解」
「さっくり? しっとり?」
利紗子がボウルの生地をのぞき込む。
「さっくりのつもりだけどオーブンわかんないから」
「ちょっと焼きすぎてもいいよ」
牧場のバター、自動販売機の卵、前の店の余った砂糖を市販の粉に混ぜるのでは勿体ない気がする。
利紗子がさっくりを望むのならもう少し温度を高めてみようか。いや、ここはルセット通りに。まずはこのオーブンの特性を知らなくては。
業務用の回らないものだった。焼き方にムラがあるようでは、途中でオーブンを開けられないシューには致命的。
利紗子はまたレストラン部分のテーブルで自分の仕事をしている。同じ仕事ではなくてよかったなと思う。近くに人がいると気が散る。エクレア店のオーナーは人間としては最低だったけれど職人としては天才。たぶんこれくらいの湿度ならと水分量を調節できる人。やり手の奥さんがきちんと手綱を握っていればよかったのに愛しているからこそ緩めてしまったのだろう。
ホテル勤務のときもほぼ一人作業だった。毎回同じ味になるように、きれいな見た目が重視された。協力をして作らなければならないウエディングケーキは苦手だった。
お菓子作りはどの工程もうるさい。かき回す、混ぜる、カシャカシャ、トントン。ボウルのせいだ。エクレア専門店のバイトのちづるちゃんは、
「その音、頭に響くんですよね」
と怖い顔で言った。彼女のことがすごく苦手だったと今になって思う。
仕事なのだからミキサーを使わざるを得ない。彼女のバイト代はエクレアを売って捻出されているのに、なんて馬鹿なんだろうと思ってしまった。違う。彼女は全部が嫌いなのだ。世の中も政治も、口パクのアイドルも。じゃあ、なにが好きだったのだろう。聞くこともしなかった。彼女にとっては苦しい世の中なのだろう。苦しくしていることは自分なのに。足が細くて、メイドみたいな制服が似合っていた。オーナーは彼女に甘かったが、一緒に逃げたのは別の女だった。
「郁実、いい匂いがしてきた。オーブン見ていい?」
利紗子がストールを巻いて近づいてくる。今日はちょっと肌寒い。キッチンはオーブンのおかげでちょっと温まっている。
「うん、もちろん」
「あ、膨らんでいる。ほら、モリって。すごーい」
お菓子作りって、利紗子が思っているよりも簡単だ。料理の本を買ってその通りにやればいい。分量と手順を間違えなければ大抵は悲惨なことにはならない。でも、利紗子が褒めてくれるから言わない。
利紗子は私と付き合う前は男性の恋人がいたそうだから、バレンタインなどには世の中の女の子と同じでチョコを作ったりしたのだろうか。今年は二人でハート型のチョコレートケーキを買って食べた、半分に切ろうとしたら縁起が悪いと言うのでほじくり合って食べた。汚かったけど、おいしかった。ホワイトデーはなにもしなかった。もう二人でいることで充分幸せだ。
生きていてよかったなと今は思う。思い出が増えることが、むしろ嬉しい。全部、利紗子のおかげ。ちづるちゃんにも素敵な相方が出現することを祈っている。この気持ちさえ、彼女は気持ち悪いのだろう。そんなに若くもないのにあのまま尖っているのだろうか。心配しちゃうよ、連絡先も知らないけど。
オーブンを開けると温かい空気が一瞬だけ私たちの間になだれ込んで来た。膨らんだ温かいままのシューを食べる。ほんのり甘い。
カスタードを入れたものを利紗子に渡す。
「冷やしてからにする?」
「食べていいの?」
顔がもう食べたいと言っている。
「いいよ」
本来、シュークリームは冷たいもの。しかし、こんな犬みたいな利紗子を放置したら本当に尻尾が生えてきそう。温かいシュークリームなんて恋人特権ですよ。
利紗子がゆっくり味わって咀嚼する。
「おいしい。高級な味がする」
「牛乳と生クリームのおかげかな。まとめてだと16個は焼けると思うんだ。今日はその半分でやってみたから。ちょっと真ん中が火弱いかな」
「カスタードも美味しい。バニラビーンズないのね?」
利紗子は知識の幅が広い。
私は興味のないことにはとんと無知。故に、語彙も少ない。知っていることだけでも生きていけるんだもの。利紗子は情報を集める。だから、仕事を辞めたときにお金がもらえたり、困らないようにいろいろと教えてくれた。私が知らず知らずに損をする人間ならば利紗子は自分の権利を主張して何が悪いと考える人。
「バニラビーンズなくて。入れたほうがいい?」
エクレア店でも使っていなかった。
「うん。味見係なら任せて」
利紗子は普段で充分すごいので、やる気を見せつけられるとこちらはバテる。
「こっち、生クリーム入り」
半分に切ってカスタードの上に生クリームだから結構な高さになってしまった。見栄えは良くても食べづらいのでは元も子もない。
「やだ、太る」
と言いながらも利紗子は手を伸ばす。
「夕飯減らそう」
「うん、絶対ね。あ、おいしい」
利紗子のおいしいは嘘ではない。愛とは無関係。目を細めて咀嚼する。利紗子は生クリーム入りのほうが好きだと思った。
ともあれ、シュークリームが膨らんだことにほっとした。よかった。商売にならなくなってしまう。あとはオーブンと余熱の感覚を掴まなくては。
後片付けをしながら鼻歌を口ずさむ癖がある。
「怒りはどこから、どこへゆくぅぅぅ」
「変な歌」
と利紗子が笑いながら手伝ってくれる。
エクレア店は販売のみだった。それでも私を雇い、バイトのちづるちゃんもいた。それなりに儲かっていたのだろうか。ひとつ400円だったからかもしれない。自分が作ったものに自信はあってもこのシュークリームなら200円前後だろう。
「もっと大ぶりにしてキャベツを模してみるのもいいわね。ちょうど産地だし。あ、キャベツを少し入れてみちゃうのはどう? 液状にして皮のほうかクリームに」
利紗子はたぶん商売上手。
「考えてみるよ」
頭の中で足し引き算。今まで使ったことのない食材は扱いたくない。
「シューをあんまり甘くしないで中にチーズ入れて膨らむのもいいわよね?」
利紗子が言う。
「それじゃほぼパンだよ」
「そっか」
楽しい。利紗子とならうまくやれる、気がする。
夕方は日課の散歩。利紗子は摂取したカロリーを消費しようと躍起になる。
山の桜は誰のために咲いているのだろう。私たちのためだったら、嬉しい。
「あ、明日出かける」
私は言った。
「どこに?」
利紗子の声が一気に低くなる。
「食品衛生責任者の講習」
「聞いてないよ」
「ごめん」
こういうやりとりは何回目だろう。わざとじゃない。言い忘れただけ。
そんなに深いため息つかないでよ。自分が悪者に思えてくる。浮気をするわけじゃない。お金を使うわけじゃない。講習代と電車賃は自分でまかなうつもりだ。だって、必要経費。
利紗子がぐっと言葉を飲み込むのがわかった。言っていいよ。我慢したらストレスになる。
「どう?」
利紗子が心配してくれる。
「うん、これから焼くところ。大きさどうしよう?」
「私、大きいのがいいな」
利紗子が手で丸を作るが、どれくらい膨らむかわかりかねる。
「了解」
「さっくり? しっとり?」
利紗子がボウルの生地をのぞき込む。
「さっくりのつもりだけどオーブンわかんないから」
「ちょっと焼きすぎてもいいよ」
牧場のバター、自動販売機の卵、前の店の余った砂糖を市販の粉に混ぜるのでは勿体ない気がする。
利紗子がさっくりを望むのならもう少し温度を高めてみようか。いや、ここはルセット通りに。まずはこのオーブンの特性を知らなくては。
業務用の回らないものだった。焼き方にムラがあるようでは、途中でオーブンを開けられないシューには致命的。
利紗子はまたレストラン部分のテーブルで自分の仕事をしている。同じ仕事ではなくてよかったなと思う。近くに人がいると気が散る。エクレア店のオーナーは人間としては最低だったけれど職人としては天才。たぶんこれくらいの湿度ならと水分量を調節できる人。やり手の奥さんがきちんと手綱を握っていればよかったのに愛しているからこそ緩めてしまったのだろう。
ホテル勤務のときもほぼ一人作業だった。毎回同じ味になるように、きれいな見た目が重視された。協力をして作らなければならないウエディングケーキは苦手だった。
お菓子作りはどの工程もうるさい。かき回す、混ぜる、カシャカシャ、トントン。ボウルのせいだ。エクレア専門店のバイトのちづるちゃんは、
「その音、頭に響くんですよね」
と怖い顔で言った。彼女のことがすごく苦手だったと今になって思う。
仕事なのだからミキサーを使わざるを得ない。彼女のバイト代はエクレアを売って捻出されているのに、なんて馬鹿なんだろうと思ってしまった。違う。彼女は全部が嫌いなのだ。世の中も政治も、口パクのアイドルも。じゃあ、なにが好きだったのだろう。聞くこともしなかった。彼女にとっては苦しい世の中なのだろう。苦しくしていることは自分なのに。足が細くて、メイドみたいな制服が似合っていた。オーナーは彼女に甘かったが、一緒に逃げたのは別の女だった。
「郁実、いい匂いがしてきた。オーブン見ていい?」
利紗子がストールを巻いて近づいてくる。今日はちょっと肌寒い。キッチンはオーブンのおかげでちょっと温まっている。
「うん、もちろん」
「あ、膨らんでいる。ほら、モリって。すごーい」
お菓子作りって、利紗子が思っているよりも簡単だ。料理の本を買ってその通りにやればいい。分量と手順を間違えなければ大抵は悲惨なことにはならない。でも、利紗子が褒めてくれるから言わない。
利紗子は私と付き合う前は男性の恋人がいたそうだから、バレンタインなどには世の中の女の子と同じでチョコを作ったりしたのだろうか。今年は二人でハート型のチョコレートケーキを買って食べた、半分に切ろうとしたら縁起が悪いと言うのでほじくり合って食べた。汚かったけど、おいしかった。ホワイトデーはなにもしなかった。もう二人でいることで充分幸せだ。
生きていてよかったなと今は思う。思い出が増えることが、むしろ嬉しい。全部、利紗子のおかげ。ちづるちゃんにも素敵な相方が出現することを祈っている。この気持ちさえ、彼女は気持ち悪いのだろう。そんなに若くもないのにあのまま尖っているのだろうか。心配しちゃうよ、連絡先も知らないけど。
オーブンを開けると温かい空気が一瞬だけ私たちの間になだれ込んで来た。膨らんだ温かいままのシューを食べる。ほんのり甘い。
カスタードを入れたものを利紗子に渡す。
「冷やしてからにする?」
「食べていいの?」
顔がもう食べたいと言っている。
「いいよ」
本来、シュークリームは冷たいもの。しかし、こんな犬みたいな利紗子を放置したら本当に尻尾が生えてきそう。温かいシュークリームなんて恋人特権ですよ。
利紗子がゆっくり味わって咀嚼する。
「おいしい。高級な味がする」
「牛乳と生クリームのおかげかな。まとめてだと16個は焼けると思うんだ。今日はその半分でやってみたから。ちょっと真ん中が火弱いかな」
「カスタードも美味しい。バニラビーンズないのね?」
利紗子は知識の幅が広い。
私は興味のないことにはとんと無知。故に、語彙も少ない。知っていることだけでも生きていけるんだもの。利紗子は情報を集める。だから、仕事を辞めたときにお金がもらえたり、困らないようにいろいろと教えてくれた。私が知らず知らずに損をする人間ならば利紗子は自分の権利を主張して何が悪いと考える人。
「バニラビーンズなくて。入れたほうがいい?」
エクレア店でも使っていなかった。
「うん。味見係なら任せて」
利紗子は普段で充分すごいので、やる気を見せつけられるとこちらはバテる。
「こっち、生クリーム入り」
半分に切ってカスタードの上に生クリームだから結構な高さになってしまった。見栄えは良くても食べづらいのでは元も子もない。
「やだ、太る」
と言いながらも利紗子は手を伸ばす。
「夕飯減らそう」
「うん、絶対ね。あ、おいしい」
利紗子のおいしいは嘘ではない。愛とは無関係。目を細めて咀嚼する。利紗子は生クリーム入りのほうが好きだと思った。
ともあれ、シュークリームが膨らんだことにほっとした。よかった。商売にならなくなってしまう。あとはオーブンと余熱の感覚を掴まなくては。
後片付けをしながら鼻歌を口ずさむ癖がある。
「怒りはどこから、どこへゆくぅぅぅ」
「変な歌」
と利紗子が笑いながら手伝ってくれる。
エクレア店は販売のみだった。それでも私を雇い、バイトのちづるちゃんもいた。それなりに儲かっていたのだろうか。ひとつ400円だったからかもしれない。自分が作ったものに自信はあってもこのシュークリームなら200円前後だろう。
「もっと大ぶりにしてキャベツを模してみるのもいいわね。ちょうど産地だし。あ、キャベツを少し入れてみちゃうのはどう? 液状にして皮のほうかクリームに」
利紗子はたぶん商売上手。
「考えてみるよ」
頭の中で足し引き算。今まで使ったことのない食材は扱いたくない。
「シューをあんまり甘くしないで中にチーズ入れて膨らむのもいいわよね?」
利紗子が言う。
「それじゃほぼパンだよ」
「そっか」
楽しい。利紗子とならうまくやれる、気がする。
夕方は日課の散歩。利紗子は摂取したカロリーを消費しようと躍起になる。
山の桜は誰のために咲いているのだろう。私たちのためだったら、嬉しい。
「あ、明日出かける」
私は言った。
「どこに?」
利紗子の声が一気に低くなる。
「食品衛生責任者の講習」
「聞いてないよ」
「ごめん」
こういうやりとりは何回目だろう。わざとじゃない。言い忘れただけ。
そんなに深いため息つかないでよ。自分が悪者に思えてくる。浮気をするわけじゃない。お金を使うわけじゃない。講習代と電車賃は自分でまかなうつもりだ。だって、必要経費。
利紗子がぐっと言葉を飲み込むのがわかった。言っていいよ。我慢したらストレスになる。
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