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三話
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そしてとっぷりと日が暮れるなり、茂造は白粉臭い身体で酒を浴びるように飲んで帰ってきては再びお滝のつま先を足蹴にして悪態をつく有様だった。
「おい、お滝!飯は!」
「そんなもの作る金はありゃしませんよ。だいたいあんた、しこたま酒を飲んでるじゃありませんか」
「疲れて帰ってきた亭主になんだその口の聞き方は!」
「……すみません……今支度します」
「言う通りにしてりゃいいんだよ、この木偶が。だいたいな、でかいだけでなんの取り柄もねえ醜女を嫁にとってやったんだ、感謝してほしいもんだ」
「……」
お滝はただ黙々と、耐えていた。
なにも考えず、なにも感じず、ただただ手足を動かす飯を炊く木偶人形として。
「そもそもなぁ!見世物小屋に売られてたような女が、なんだ昼間のあれは!隣の……訳のわからん男と。昔の男か!?」
「あいつは……畜庵は関係ありません」
「かー!あいつと来たもんだ!亭主のいる身でなんてぇ言い草だ。あんな乞食みてぇな風体の唐変木がよぅ!」
茂造はどうやら昼間、畜庵にぶつかられ、黴だらけの餅を食わされそうになった件を根に持っているようだ。酒の勢いもあってどんどん饒舌になっていく。
普段なら止まるはずの口と舌はいう必要のない悪態までも吐き出す始末だった。
「そこいらで野良犬にでも食われそうなところを自身番に突き出す前にてめぇが引き取って住まわせたって話じゃねぇか。罪人かなんかじゃねぇか?」
「……そのような者ではありません」
「は!どうだかな!うるせぇ長屋の餓鬼やら死にぞこないの爺婆どもに飴やら餅やら食わしてるらしいが、何人か誑かしてぶち殺してるなあの面は!!」
子どもを殺した罪人。
その言葉を聞いた瞬間、お滝の中で抑え込んでいたなにかが、吹き飛んだ。
畜庵の過去を知るが故にその言葉だけは許せなかった。
「……畜庵が」
「あ?」
「畜庵がそんなことするわけねぇだろうが!」
走り出したお滝はその勢いのままに丸太と見紛う二の腕を茂造の牛蒡のような首に食い込ませて床に叩きつけた。
「あいつは、あいつは医者だ!奥医師に推挙されるほどの医者だったんだ!疱瘡の子を治すために寝る間を惜しんで腕を磨き、病に倒れたと聞けば昼も夜もなく駆けつけて治療した。富める民からは最低限、貧しい民からは一銭も取らずに治療してたんだよ!そんな男が間違っても子を殺めるわけがねぇ!」
かつて畜庵は疱瘡を治す為に医者としてあらゆる方法を模索した。万に及ぶ医術はもちろんのこと南蛮渡来の奇妙奇天烈な業から蘭方の外科手術すら学んだ。それにも飽き足らず外法、外道、呪術から占術にいたるまで学び、死にゆくものを幾人となく現し世に引き止めた。
だがそれをやっかむ者により、患者を殺した汚名を着せられ、子殺しの肩書まで背負わされ、もはや自害するか奉行所に突き出されて首を落とされるかという寸でのところをお滝が引き取ったのだった。罪人の疑いがある者を引き取るなど危険極まりない行為だが主人である茶吉に何度も何度も頭を下げて頼み込んだかいもあり、どうにか住まわせることができたのだ。
床に頭からめり込んでいた茂造だが、なんとか抜け出したはいいものの首がおかしな方向を向いている。髷が解けて落ち武者のような風体。立ち上がるなりお滝を化け物でも見るような目で蔑む。
「し、知るか!何してるかわからねぇ薮には違いあるめぇよ。さっさと追い出しやがれ!だいたい亭主に手を挙げるとは嫁の風上にもおけねぇ醜女だな!離縁だ離縁!!」
頭に血が登って手を出してしまったお滝だが、慌てて土間に跪き三つ指ついて額を地面にこすりつける。
「そればかりは!離縁だけは、離縁だけはどうかご堪忍くださいまし!」
縮こまるお滝に茂造は気を良くしたのか、念願叶ってその頭を小さな小さな足で踏みつける。
首にはお滝の腕の跡が真っ赤についているがその上についた顔には卑下た笑みが浮かんでいた。
「そうかそうか、そんなに離縁してほしくないんじゃ仕方ねぇ。なら誓いを立てな」
「誓い?」
「あの畜庵とかいう薮医者を、皆に子殺しと触れ回って追い出せ。そしたら離縁を考え直してやろうじゃねぇか」
「そ、それは……」
「なに、嘘をつけってんじゃねぇ。正直に、素直に、|真を皆に伝えるだけじゃねぇか。良心はなにも傷まねぇ、そうだろ?」
「しかしあいつは」
「この後に及んであいつ呼ばわりはよくねぇなぁ、お滝。俺の気が変わらないうちに早く叫んで触れ回れ。そのでかいだけの身体が役に立つぞ」
お滝は怒りと悲しみで震えていた。
しかし離縁だけはどうしても避けたかった。親代わりの茶吉の面目もあるが、茂造に対しても自分のような年増の大女を嫁にもらってくれた感謝も僅かながらでもあるのだ。
だが畜庵を子殺しと蔑むなど、死んでもやるつもりはない。
お滝の脳裏に自ら死を選ぶ道が見えた時だった。
隣家とを隔てる長屋の板壁を腕が突き破り、茂造の頭を鷲掴みにした。
そのまま障子でも破るかのように壁を破りながら気怠げな男は現れる。
「んー、いかんなぁ童よ」
「な、てめぇ薮医者!離せ人殺しが!」
「まぁそれは否定はせんよ。しかしなぁ過ぎた悪戯をした童には仕置をせねばな」
紙くずでも投げ捨てるように茂造を外へ放り出す。
長屋の入り口にある戸板は木っ端微塵に砕け散り、茂造は砂まみれで転がり出た。
ゆっくりと畜庵は土間に降りる。
昼間にはまるでなかった殺気と見紛う怒気が陽炎のように揺らめいていた。
「く、くるんじゃねぇ!」
「なに、別に喧嘩をしようってんじゃない。お前さんに『頼み』があるだけだ」
「頼み?!」
「ああ、そうだ」
茂造と畜庵の間は三間(6メートル)はあったはずなのに、刹那、茂造は後ろから頭を掴まれ髭だらけの頬が横に来ている。およそ只人の動きではなかった。
「お滝は主人である茶吉のために死んでも離縁状を受け取らないだろう。だからお前さんが縁切り寺に駆け込め」
「は?なんで俺が?!」
茂造が驚くのも無理はない。
そもそも縁切り状は夫側から書くもので妻が書くものではない。
夫がどうしても離縁を承服せず、離縁状を書かないからこそ妻が縁切り寺に駆け込むのだ。
夫がいつでも離縁できる立場なのに寺に駆け込むなど、垂らされた母の乳を前に飲めないと駄々を捏ねて泣きわめく乳飲み子同然。
それを大の男がやったとなれば素っ裸で江戸を走り回るより恥ずかしい目に合うだろう。
「お前さんが縁切り寺に駆け込めば嫌が応にも離縁はなる。亭主が縁切り寺に駆け込んだとなれば遍く江戸中の笑い者」
「い、い、嫌といったら?」
「んーそれじゃ仕方あるまいな」
ぱっと頭を掴んでいた手を離し、へたりこむ茂造に子どもの顔でも覗き込むようにしゃがみこんだ。
「お前さんを腑分けする」
「なにいって……」
「縁切り寺にはお前さんのなにか一部でも入ってればよい。髷でもよし髭でもよし煙管でもよし……別に臓腑でもよかろう?」
「巫山戯るな!生きたまま腑分けなんかしたらおっ死んじまう!」
「まぁ、そうだろうなぁ。だが構うまい。儂は人殺しなんだろう?子殺しなんだろう?今更一人や二人、さして変わらん」
「ひ、ひぃぃ!」
「やめな!畜庵!」
長屋の戸を潜らずに歩み出てきたお滝は額で軒先が割れることも気にせずに畜庵を止めた。
その顔は憤怒に濡れている。
「手出し無用。夫婦のことに口出しとはどういう了見だい」
「なんのことはない。五月蝿い童を説き伏せて平穏無事に宵の寝を堪能したいだけさ」
「余計なことしかしないね、あんたは」
「それこそが唯一得意なもんでな」
山のように迫り立つお滝の迫力に気圧され、茂造は完全に腰が抜けている。
二人はにらみ合うと両手を掴み合いがっぷり四つと組み合った。
ぎぎぎと四肢から身体の音が漏れ出ているその様はまさに岩山が動いているかのようだった。
「早くいけ、童よ。もはや貴様に選択肢はない。引くも地獄、押すも地獄よ」
「う、うわぁぁぁぁあ!あっ!……うわぁぁ~!」
茂造は抜けた腰をなんとか持ち上げて何度も転びながら小さな肝っ玉を抱えて走り出した。
鎌倉山まで十三里。
夜通し早駕籠を使えば明日には着くだろう。それまで畜庵はお滝を足止めしなければならない。
なぜなら、
なぜならこのお滝。
本気で走れば早駕籠より遥かに早いからだ。
「畜庵、その手を離しな」
「そりゃあこっちの台詞だ」
お互いの気迫だけで長屋がひしゃげそうなほどの睨み合い。
ぎぎ
ぐぎぎぎ
身体の節から聞こえるはずのないような音が長屋に木霊する。
暮八ツの鐘が鳴った。
これより先は草木も眠る丑三つ時。
ぽたりぽたりと互いの額からは玉のような汗が顎を伝い地面に落ちる。
「久方ぶりに、随分と強情を張るじゃないかっ」
「久方過ぎてこちとら戸惑うくらいだ」
「……なんでそこまでする。他家の夫婦の仲裁なんぞする質じゃあるまい!」
「他家は他家でも見知った他家だ……自身番に突き出されそうなところを、拾ってもらった恩もある」
「恩というなら茶吉の旦那にいいな!どこの馬の骨ともわからんやつを長屋に住まわせてくれたんだ!」
「それこそお前あってのものだろう。お滝が頼まなきゃいくら茶吉でも放り出したろうさ」
お互いに譲れないものがあった。
お滝は主人である茶吉の恩義のために。
畜庵はお滝への恩義のために。
譲れないならば譲らせるための実力行使。頼るのは己の腕っぷし。
火事と喧嘩は江戸の華。
丑三つ時、ひしめき合う肉の筋。
二輪の肉の花が咲き誇る。
お滝は組んだ手を力任せに下に下ろし、手と指を極めていく。
畜庵の小枝のような指がみしみしと悲鳴を上げた。
「いい加減離しな!」
「そうはいかんよ」
今度は畜庵が力任せに手を上に上げていき元の体勢に戻す。それを見たお滝はそのまま後に倒れながら巴投げを放ち、畜庵は長屋の屋根に体からめり込んでしまった。手は離れ、倒壊した長屋に埋もれている。
お滝は咄嗟に助けそうになる心を抑えながら一際巨大な四肢を振りかざして走り出した。茂造が縁切り寺にたどり着く前に追いつかねば……。
長屋に住まう住民たちがぞろぞろと顔を出す。なんだなんだと土煙に群がる中、畜庵は瓦礫からむくりと身体を起こす。
「いやぁまいった。久方ぶりに綺麗に投げ飛ばされたもんだ。しかしこうなると搦め手も使わねばならんか」
頭を掻きながら木戸の方へとゆるりと歩き出す。向かう先は縁切り寺とは逆方向。一帯の長屋の地主である茶吉が住まう越後屋の大店だった。
「おい、お滝!飯は!」
「そんなもの作る金はありゃしませんよ。だいたいあんた、しこたま酒を飲んでるじゃありませんか」
「疲れて帰ってきた亭主になんだその口の聞き方は!」
「……すみません……今支度します」
「言う通りにしてりゃいいんだよ、この木偶が。だいたいな、でかいだけでなんの取り柄もねえ醜女を嫁にとってやったんだ、感謝してほしいもんだ」
「……」
お滝はただ黙々と、耐えていた。
なにも考えず、なにも感じず、ただただ手足を動かす飯を炊く木偶人形として。
「そもそもなぁ!見世物小屋に売られてたような女が、なんだ昼間のあれは!隣の……訳のわからん男と。昔の男か!?」
「あいつは……畜庵は関係ありません」
「かー!あいつと来たもんだ!亭主のいる身でなんてぇ言い草だ。あんな乞食みてぇな風体の唐変木がよぅ!」
茂造はどうやら昼間、畜庵にぶつかられ、黴だらけの餅を食わされそうになった件を根に持っているようだ。酒の勢いもあってどんどん饒舌になっていく。
普段なら止まるはずの口と舌はいう必要のない悪態までも吐き出す始末だった。
「そこいらで野良犬にでも食われそうなところを自身番に突き出す前にてめぇが引き取って住まわせたって話じゃねぇか。罪人かなんかじゃねぇか?」
「……そのような者ではありません」
「は!どうだかな!うるせぇ長屋の餓鬼やら死にぞこないの爺婆どもに飴やら餅やら食わしてるらしいが、何人か誑かしてぶち殺してるなあの面は!!」
子どもを殺した罪人。
その言葉を聞いた瞬間、お滝の中で抑え込んでいたなにかが、吹き飛んだ。
畜庵の過去を知るが故にその言葉だけは許せなかった。
「……畜庵が」
「あ?」
「畜庵がそんなことするわけねぇだろうが!」
走り出したお滝はその勢いのままに丸太と見紛う二の腕を茂造の牛蒡のような首に食い込ませて床に叩きつけた。
「あいつは、あいつは医者だ!奥医師に推挙されるほどの医者だったんだ!疱瘡の子を治すために寝る間を惜しんで腕を磨き、病に倒れたと聞けば昼も夜もなく駆けつけて治療した。富める民からは最低限、貧しい民からは一銭も取らずに治療してたんだよ!そんな男が間違っても子を殺めるわけがねぇ!」
かつて畜庵は疱瘡を治す為に医者としてあらゆる方法を模索した。万に及ぶ医術はもちろんのこと南蛮渡来の奇妙奇天烈な業から蘭方の外科手術すら学んだ。それにも飽き足らず外法、外道、呪術から占術にいたるまで学び、死にゆくものを幾人となく現し世に引き止めた。
だがそれをやっかむ者により、患者を殺した汚名を着せられ、子殺しの肩書まで背負わされ、もはや自害するか奉行所に突き出されて首を落とされるかという寸でのところをお滝が引き取ったのだった。罪人の疑いがある者を引き取るなど危険極まりない行為だが主人である茶吉に何度も何度も頭を下げて頼み込んだかいもあり、どうにか住まわせることができたのだ。
床に頭からめり込んでいた茂造だが、なんとか抜け出したはいいものの首がおかしな方向を向いている。髷が解けて落ち武者のような風体。立ち上がるなりお滝を化け物でも見るような目で蔑む。
「し、知るか!何してるかわからねぇ薮には違いあるめぇよ。さっさと追い出しやがれ!だいたい亭主に手を挙げるとは嫁の風上にもおけねぇ醜女だな!離縁だ離縁!!」
頭に血が登って手を出してしまったお滝だが、慌てて土間に跪き三つ指ついて額を地面にこすりつける。
「そればかりは!離縁だけは、離縁だけはどうかご堪忍くださいまし!」
縮こまるお滝に茂造は気を良くしたのか、念願叶ってその頭を小さな小さな足で踏みつける。
首にはお滝の腕の跡が真っ赤についているがその上についた顔には卑下た笑みが浮かんでいた。
「そうかそうか、そんなに離縁してほしくないんじゃ仕方ねぇ。なら誓いを立てな」
「誓い?」
「あの畜庵とかいう薮医者を、皆に子殺しと触れ回って追い出せ。そしたら離縁を考え直してやろうじゃねぇか」
「そ、それは……」
「なに、嘘をつけってんじゃねぇ。正直に、素直に、|真を皆に伝えるだけじゃねぇか。良心はなにも傷まねぇ、そうだろ?」
「しかしあいつは」
「この後に及んであいつ呼ばわりはよくねぇなぁ、お滝。俺の気が変わらないうちに早く叫んで触れ回れ。そのでかいだけの身体が役に立つぞ」
お滝は怒りと悲しみで震えていた。
しかし離縁だけはどうしても避けたかった。親代わりの茶吉の面目もあるが、茂造に対しても自分のような年増の大女を嫁にもらってくれた感謝も僅かながらでもあるのだ。
だが畜庵を子殺しと蔑むなど、死んでもやるつもりはない。
お滝の脳裏に自ら死を選ぶ道が見えた時だった。
隣家とを隔てる長屋の板壁を腕が突き破り、茂造の頭を鷲掴みにした。
そのまま障子でも破るかのように壁を破りながら気怠げな男は現れる。
「んー、いかんなぁ童よ」
「な、てめぇ薮医者!離せ人殺しが!」
「まぁそれは否定はせんよ。しかしなぁ過ぎた悪戯をした童には仕置をせねばな」
紙くずでも投げ捨てるように茂造を外へ放り出す。
長屋の入り口にある戸板は木っ端微塵に砕け散り、茂造は砂まみれで転がり出た。
ゆっくりと畜庵は土間に降りる。
昼間にはまるでなかった殺気と見紛う怒気が陽炎のように揺らめいていた。
「く、くるんじゃねぇ!」
「なに、別に喧嘩をしようってんじゃない。お前さんに『頼み』があるだけだ」
「頼み?!」
「ああ、そうだ」
茂造と畜庵の間は三間(6メートル)はあったはずなのに、刹那、茂造は後ろから頭を掴まれ髭だらけの頬が横に来ている。およそ只人の動きではなかった。
「お滝は主人である茶吉のために死んでも離縁状を受け取らないだろう。だからお前さんが縁切り寺に駆け込め」
「は?なんで俺が?!」
茂造が驚くのも無理はない。
そもそも縁切り状は夫側から書くもので妻が書くものではない。
夫がどうしても離縁を承服せず、離縁状を書かないからこそ妻が縁切り寺に駆け込むのだ。
夫がいつでも離縁できる立場なのに寺に駆け込むなど、垂らされた母の乳を前に飲めないと駄々を捏ねて泣きわめく乳飲み子同然。
それを大の男がやったとなれば素っ裸で江戸を走り回るより恥ずかしい目に合うだろう。
「お前さんが縁切り寺に駆け込めば嫌が応にも離縁はなる。亭主が縁切り寺に駆け込んだとなれば遍く江戸中の笑い者」
「い、い、嫌といったら?」
「んーそれじゃ仕方あるまいな」
ぱっと頭を掴んでいた手を離し、へたりこむ茂造に子どもの顔でも覗き込むようにしゃがみこんだ。
「お前さんを腑分けする」
「なにいって……」
「縁切り寺にはお前さんのなにか一部でも入ってればよい。髷でもよし髭でもよし煙管でもよし……別に臓腑でもよかろう?」
「巫山戯るな!生きたまま腑分けなんかしたらおっ死んじまう!」
「まぁ、そうだろうなぁ。だが構うまい。儂は人殺しなんだろう?子殺しなんだろう?今更一人や二人、さして変わらん」
「ひ、ひぃぃ!」
「やめな!畜庵!」
長屋の戸を潜らずに歩み出てきたお滝は額で軒先が割れることも気にせずに畜庵を止めた。
その顔は憤怒に濡れている。
「手出し無用。夫婦のことに口出しとはどういう了見だい」
「なんのことはない。五月蝿い童を説き伏せて平穏無事に宵の寝を堪能したいだけさ」
「余計なことしかしないね、あんたは」
「それこそが唯一得意なもんでな」
山のように迫り立つお滝の迫力に気圧され、茂造は完全に腰が抜けている。
二人はにらみ合うと両手を掴み合いがっぷり四つと組み合った。
ぎぎぎと四肢から身体の音が漏れ出ているその様はまさに岩山が動いているかのようだった。
「早くいけ、童よ。もはや貴様に選択肢はない。引くも地獄、押すも地獄よ」
「う、うわぁぁぁぁあ!あっ!……うわぁぁ~!」
茂造は抜けた腰をなんとか持ち上げて何度も転びながら小さな肝っ玉を抱えて走り出した。
鎌倉山まで十三里。
夜通し早駕籠を使えば明日には着くだろう。それまで畜庵はお滝を足止めしなければならない。
なぜなら、
なぜならこのお滝。
本気で走れば早駕籠より遥かに早いからだ。
「畜庵、その手を離しな」
「そりゃあこっちの台詞だ」
お互いの気迫だけで長屋がひしゃげそうなほどの睨み合い。
ぎぎ
ぐぎぎぎ
身体の節から聞こえるはずのないような音が長屋に木霊する。
暮八ツの鐘が鳴った。
これより先は草木も眠る丑三つ時。
ぽたりぽたりと互いの額からは玉のような汗が顎を伝い地面に落ちる。
「久方ぶりに、随分と強情を張るじゃないかっ」
「久方過ぎてこちとら戸惑うくらいだ」
「……なんでそこまでする。他家の夫婦の仲裁なんぞする質じゃあるまい!」
「他家は他家でも見知った他家だ……自身番に突き出されそうなところを、拾ってもらった恩もある」
「恩というなら茶吉の旦那にいいな!どこの馬の骨ともわからんやつを長屋に住まわせてくれたんだ!」
「それこそお前あってのものだろう。お滝が頼まなきゃいくら茶吉でも放り出したろうさ」
お互いに譲れないものがあった。
お滝は主人である茶吉の恩義のために。
畜庵はお滝への恩義のために。
譲れないならば譲らせるための実力行使。頼るのは己の腕っぷし。
火事と喧嘩は江戸の華。
丑三つ時、ひしめき合う肉の筋。
二輪の肉の花が咲き誇る。
お滝は組んだ手を力任せに下に下ろし、手と指を極めていく。
畜庵の小枝のような指がみしみしと悲鳴を上げた。
「いい加減離しな!」
「そうはいかんよ」
今度は畜庵が力任せに手を上に上げていき元の体勢に戻す。それを見たお滝はそのまま後に倒れながら巴投げを放ち、畜庵は長屋の屋根に体からめり込んでしまった。手は離れ、倒壊した長屋に埋もれている。
お滝は咄嗟に助けそうになる心を抑えながら一際巨大な四肢を振りかざして走り出した。茂造が縁切り寺にたどり着く前に追いつかねば……。
長屋に住まう住民たちがぞろぞろと顔を出す。なんだなんだと土煙に群がる中、畜庵は瓦礫からむくりと身体を起こす。
「いやぁまいった。久方ぶりに綺麗に投げ飛ばされたもんだ。しかしこうなると搦め手も使わねばならんか」
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