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依頼2
4 存在する意味
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右手を上げて語りかける八雲は、まるで印を結ぶ大仏のようだった。
「じゃあ真夜くん、これからぼくが言うことを覚えてくれるかい」と八雲如来は言う。
「石は流れる。木の葉は沈む。牛は嘶く。馬は吼える」
「なんだかあべこべですね」
「そう。牛鬼は本来の性質と異なることを言われるのが嫌いみたいだ。何故かは知らないけれどね」
「知らないんですか……」
「ただの受け売りだからね」
自嘲するような笑い。
安曇が疑問を投げかけるのを制するように、八雲はひときわ明るい声を出した。
「さあ、今教えた言葉を大きな声で言ってごらん。牛鬼の耳に届くようにね」
「大きくですか……なんか恥ずかしいですね……」
「大丈夫、大丈夫! 和久井さんにも同じように教えてあるから」
安曇は少し照れながらも、魔法少女に憧れていた幼き日の自分を思い出しながら教わった呪文を唱え、八雲はその姿を温かい目で見守った。
「これでいいんでしょうか……」
「うん、効いたみたいだ」
八雲が答えるや否や、足元がぐにゃぐにゃと蠢く。ぬるりとした肉壁が押し迫るように、二人の立つ空間が狭くなってゆく。
「なっ、なんですかこれ!?」
「逆蠕動だ。走って!」
肉壁に追い立てられ、安曇を先頭に二人は走る。押し潰された人骨が崩れていく音がする。牛鬼が悶えているのか、体内は常に蠢き続けていた。時折、顔や身体に粘ついたものがひっつくが、気にしてはいられない。走りながら、八雲は次の指示を出した。
「真夜くん、このまま走っていけば口から出られるはずだ。牛鬼はきみを吐き出そうとしてる。いいかい、ここから出たら牛鬼に向かって『助けてくれてありがとう』と礼を言うんだよ」
「はっ、はい!」
駆け抜ける。壁に追いつかれないように。
安曇は前だけを向いて走った。足裏の感触が変わったと気づいた頃には、身体は牛鬼の口内から押し出され、宙を舞っていた。受け身の取り方など知るわけもなく、背中を強か打ったうえに木の枝や根っこの上をごろごろと転がって全身が痛い。しかし、その痛みが生きていることを実感させ、その事実こそが安曇の意識を明瞭にしていた。
滝つぼのほうには巨大ななにかがいる。明かりがないので姿をきちんと見ることはできないが、あれが牛鬼なのだろう。かの妖怪に向かって、安曇は出せる限りの大声で叫んだ。
「牛鬼!『助けてくれてありがとう』!!」
これでいったいなにが起きるというのか。目を凝らして暗闇に揺らめく牛鬼を見る。
と、そのとき、「安曇さん!」
懐中電灯の明かりが安曇を照らした。
「和久井さん! 無事でしたか!」
声に気づいた和久井が彼女を探しに来てくれたようだった。
「あの、あちらを照らしていただけますか!?」
一筋の明かりに照らされ、ついに牛鬼の姿があらわになる。頭部は女、体は蛇。長い黒髪が顔に張り付き、その隙間から鋭い歯の生えた口が覗いている。体に手足はなく、太い胴体はびっしりと鱗で覆われていた。しかしその姿を視認したのも束の間、牛鬼は川面が波立つほどの咆哮ののち、全身から鮮血を噴き出した。身悶えする声は怒号のようにも恨み言のようにも聞こえ、安曇と和久井を硬直させた。流れる血液と共に、牛鬼は形を崩していく。腹の中で見た人間たちのように。頭髪が抜け、顔の皮や鱗が剥がれ、目玉が眼窩から溢れ出る。そうして小さく小さくなっていき、最後には水面を真っ赤に染めて消えてしまった。
「死んだ……?」
牛鬼が完全に溶けてしまうと、辺りには滝の落ちる音だけが響いた。清涼で、この季節には寒々しいほどの水音。だが妖怪と対峙していた安曇はこれまでの緊張と興奮からか、寒さなど忘れていた。
「社長っ! わたしっ……!! あれ……?」
――よくやったね。
そう返ってくるであろう柔らかな低音が、聞こえない。
「社長……?」
記憶を巻き戻す。目の前のことに精一杯で、八雲にまで気が回っていなかった。
わたしはいつから一人だった? いつはぐれた? いつ、いなくなった……?
最後に声をかけられたのは牛鬼の体の中を走っていたときだった。出口だけを見ていて、八雲を振り返ることはしなかった。
だって、まさか、あのいつも余裕綽々な社長が……? 社長に限ってそんなこと。まさか、わたしを生かして、自分が。
八雲の言葉が脳裏を過ぎる。
『きみを吐き出そうとしてる』。
社長は?
「……社長! 八雲社長!!」
突如叫び出す安曇に、和久井は困惑の目を向ける。
「な、なんや安曇さん、八雲さんはどこにおるん?」
「和久井さん! 和久井さんも社長を探してください!」
和久井から予備の懐中電灯を受け取り、二人は滝つぼ周辺を探索した。嫌な汗をかいている。暗闇に明かりを照らすたびに最悪の結末が頭に浮かんでは、自らに言い聞かせ払拭する。そんなことを考えてはいけない。きっと腹の中から脱出し、どこかで呑気にソシャゲのアプリを起動している。
「安曇さん!」
櫓付近を捜索していた和久井が安曇を呼んだ。彼の照らす先には――見覚えのある花柄のハンカチ、と、それに覆われた腕。牛鬼の血液で辺りは赤く染まっている。
「社長!」
駆け寄ると、八雲は浅瀬に身体を浸けるように横たわっていた。全身が赤く濡れ、それが彼のものなのか牛鬼のものなのか見当がつかない。双眸は閉じられ、ぴくりとも動かなかった。
「社長! 死んじゃだめです!」
八雲の身体を揺すり、叩く。力いっぱい。それはもうぶんぶんばしばしと。決してふざけているわけではなく、彼の生を思う一心で。
そんな安曇の行動を、和久井が制止した。
「安曇さん! 安曇さん、見てみ!」
八雲如来――右手を上げた状態で、彼はか細い声を出した。
「痛い……寒い……」
♦︎♦︎♦︎
牛鬼の血と川の水でずぶ濡れの八雲はガチガチと歯を鳴らしていた。濡れた身体は重く、安曇と和久井の二人でなんとか陸地へ引っ張り上げてコートを脱がせ、和久井の上着をかけてやる。八雲は相変わらず目を伏せていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「ありがとう……和久井さん、真夜くん……牛鬼は、消滅したね……」
「ウシオニ? 八雲さん、神様はどうなったんけ?」
信仰していた神がいなくなってしまったのかと焦る和久井に、八雲は説明した。皆が神だと思い祀っていたのは妖怪であり、事務所を襲った牛鬼が変化した姿であること、もともと牛鬼が人間を騙していたのかもしれないし、人魚に取って代わった可能性もあることなど。
「あがらは……化けもんを崇めてたんか」
和久井の顔が悔しさに歪む。知らなかったとはいえ、大勢の仲間の命を失ってしまった。しかし、妖怪だと知ったところで自分たちにはどうすることもできなかっただろう。
「あの、社長、どうして牛鬼は消滅したんですか?」
「ああ、それはね」
八雲の優しい眼差しが安曇に向けられた。
「牛鬼は、人を助けると身代わりに死んでしまうんだ。だからきみに呪文と礼を言ってもらった。腹の中から真夜くんを吐き出し、命を助けた既成事実をつくったんだよ」
「どうしてわたしだけ」
しばしの沈黙。八雲は安曇から目を逸らした。
「恥ずかしいだろう……あれ、大声で言うの……」
それに溶けた牛鬼の中から登場したらかっこいいかと思って……と無意識に火に油を注いだ。
安曇の怒号が響く。咆哮する牛鬼など可愛く見えるほどに、その形相は凄まじい。
「わたしがお礼を言わなかったらどうするつもりだったんですかっ」
「きみを信じてるから。真夜くんもぼくを信じてるから、恥ずかしくても呪文を言ってくれたし、礼も言ってくれたんだろう?」
八雲はけろりとしているが、これはかなり恥ずかしいことを言われているのでは。安曇は身体が急激に熱くなるのを感じ、それ以上は口を噤んだ。周囲が明るくなくて良かったと内心でほっとする。
そんな彼女を意に介さず、八雲は続ける。
「和久井さん、溶けた牛鬼の体内から人骨が出てきているはずです。行方不明になっている方々だと思いますので、警察に連絡をお願いします」
弱々しく頷く和久井に、八雲は語りかけた。
「お仲間の皆さんとの再会がこのようになってしまったこと、心中お察しします。つきましては一つ、提案があります」
「提案……?」
それは亡くなった者たちの死を悼む、和久井を始めとする漁師たちの気持ちを汲んでのものだった。仲間を失ったうえ、長年信仰していた神が紛い物であったとなれば人々は心の拠り所までも失ってしまう。
「椿を植えていただきたいのです。できればこの場所が好ましいですが、なにぶん森林法には詳しくないので、難しければ町の皆さんが足を運びやすい場所でも構いません」
――牛鬼は椿の化身であるという言い伝えがある。
古くから、日本では椿が神聖な樹木の一つとされてきた。神が宿ると言われ、椿の化身である牛鬼をすなわち神の化身として崇める地域もあるのだ。
「この土地に、人々を守る神の化身である牛鬼を育てるんです」
「育てる!? あの妖怪がまた産まれるってことですか!?」
これには安曇も赤面してはいられず、思わず八雲と和久井の会話に首を突っ込んだ。
「人間を襲う妖怪としてでなく、守る者として、命を与えるんです」
「危なくないんけ」
「大丈夫です。意味を与えるということは、その行為そのものに意味がある。人々が必要とし、敬うために命を与えられた牛鬼ならば、皆さんを守ってくださるでしょう」
呪いが強い負の感情で生み出されるように、人々が敬い親しみを込めて椿を育てれば、そこから産まれる牛鬼は神の化身となるだろう。それほどまでに、存在理由を与えてしまえるほどに人の意思は強いものだ。
八雲の柔和ながら真剣な眼差しに、和久井は答えを出した。
「わかった。八雲さんが言うならやってみら。おおきになぁ、八雲さん、安曇さん」
「いえ、仕事をしたま、で……ぶぇっくしょい!!」
木霊するくしゃみ。のち、どこかで鳥が飛び立つ音がした。
翌日、W県に来たのだから日本三古泉の湯に浸かりたいとの八雲の希望で温泉にて身体を休めているところ、和久井から連絡があった。警察は彼の通報を受けて早速動き出してくれたそうだ。また、椿の件も早々に進めていく予定だという。
漁師たちが崇めていた神は消えてしまったが、数年後、椿が花開くこの季節には新たな牛鬼が産まれることだろう。
追悼と、人々を守り支える象徴としての神が――。
――――――――――――――――――――――――――
-安曇の営業日誌-
体が蛇の姿に変化した牛鬼は「濡れ女」「磯女」という妖怪と同種であるとも考えられる。
赤ん坊を連れている場合もあるが、その赤ん坊を抱いてしまうとそのうちに殺されてしまうので抱いてはいけない。
「じゃあ真夜くん、これからぼくが言うことを覚えてくれるかい」と八雲如来は言う。
「石は流れる。木の葉は沈む。牛は嘶く。馬は吼える」
「なんだかあべこべですね」
「そう。牛鬼は本来の性質と異なることを言われるのが嫌いみたいだ。何故かは知らないけれどね」
「知らないんですか……」
「ただの受け売りだからね」
自嘲するような笑い。
安曇が疑問を投げかけるのを制するように、八雲はひときわ明るい声を出した。
「さあ、今教えた言葉を大きな声で言ってごらん。牛鬼の耳に届くようにね」
「大きくですか……なんか恥ずかしいですね……」
「大丈夫、大丈夫! 和久井さんにも同じように教えてあるから」
安曇は少し照れながらも、魔法少女に憧れていた幼き日の自分を思い出しながら教わった呪文を唱え、八雲はその姿を温かい目で見守った。
「これでいいんでしょうか……」
「うん、効いたみたいだ」
八雲が答えるや否や、足元がぐにゃぐにゃと蠢く。ぬるりとした肉壁が押し迫るように、二人の立つ空間が狭くなってゆく。
「なっ、なんですかこれ!?」
「逆蠕動だ。走って!」
肉壁に追い立てられ、安曇を先頭に二人は走る。押し潰された人骨が崩れていく音がする。牛鬼が悶えているのか、体内は常に蠢き続けていた。時折、顔や身体に粘ついたものがひっつくが、気にしてはいられない。走りながら、八雲は次の指示を出した。
「真夜くん、このまま走っていけば口から出られるはずだ。牛鬼はきみを吐き出そうとしてる。いいかい、ここから出たら牛鬼に向かって『助けてくれてありがとう』と礼を言うんだよ」
「はっ、はい!」
駆け抜ける。壁に追いつかれないように。
安曇は前だけを向いて走った。足裏の感触が変わったと気づいた頃には、身体は牛鬼の口内から押し出され、宙を舞っていた。受け身の取り方など知るわけもなく、背中を強か打ったうえに木の枝や根っこの上をごろごろと転がって全身が痛い。しかし、その痛みが生きていることを実感させ、その事実こそが安曇の意識を明瞭にしていた。
滝つぼのほうには巨大ななにかがいる。明かりがないので姿をきちんと見ることはできないが、あれが牛鬼なのだろう。かの妖怪に向かって、安曇は出せる限りの大声で叫んだ。
「牛鬼!『助けてくれてありがとう』!!」
これでいったいなにが起きるというのか。目を凝らして暗闇に揺らめく牛鬼を見る。
と、そのとき、「安曇さん!」
懐中電灯の明かりが安曇を照らした。
「和久井さん! 無事でしたか!」
声に気づいた和久井が彼女を探しに来てくれたようだった。
「あの、あちらを照らしていただけますか!?」
一筋の明かりに照らされ、ついに牛鬼の姿があらわになる。頭部は女、体は蛇。長い黒髪が顔に張り付き、その隙間から鋭い歯の生えた口が覗いている。体に手足はなく、太い胴体はびっしりと鱗で覆われていた。しかしその姿を視認したのも束の間、牛鬼は川面が波立つほどの咆哮ののち、全身から鮮血を噴き出した。身悶えする声は怒号のようにも恨み言のようにも聞こえ、安曇と和久井を硬直させた。流れる血液と共に、牛鬼は形を崩していく。腹の中で見た人間たちのように。頭髪が抜け、顔の皮や鱗が剥がれ、目玉が眼窩から溢れ出る。そうして小さく小さくなっていき、最後には水面を真っ赤に染めて消えてしまった。
「死んだ……?」
牛鬼が完全に溶けてしまうと、辺りには滝の落ちる音だけが響いた。清涼で、この季節には寒々しいほどの水音。だが妖怪と対峙していた安曇はこれまでの緊張と興奮からか、寒さなど忘れていた。
「社長っ! わたしっ……!! あれ……?」
――よくやったね。
そう返ってくるであろう柔らかな低音が、聞こえない。
「社長……?」
記憶を巻き戻す。目の前のことに精一杯で、八雲にまで気が回っていなかった。
わたしはいつから一人だった? いつはぐれた? いつ、いなくなった……?
最後に声をかけられたのは牛鬼の体の中を走っていたときだった。出口だけを見ていて、八雲を振り返ることはしなかった。
だって、まさか、あのいつも余裕綽々な社長が……? 社長に限ってそんなこと。まさか、わたしを生かして、自分が。
八雲の言葉が脳裏を過ぎる。
『きみを吐き出そうとしてる』。
社長は?
「……社長! 八雲社長!!」
突如叫び出す安曇に、和久井は困惑の目を向ける。
「な、なんや安曇さん、八雲さんはどこにおるん?」
「和久井さん! 和久井さんも社長を探してください!」
和久井から予備の懐中電灯を受け取り、二人は滝つぼ周辺を探索した。嫌な汗をかいている。暗闇に明かりを照らすたびに最悪の結末が頭に浮かんでは、自らに言い聞かせ払拭する。そんなことを考えてはいけない。きっと腹の中から脱出し、どこかで呑気にソシャゲのアプリを起動している。
「安曇さん!」
櫓付近を捜索していた和久井が安曇を呼んだ。彼の照らす先には――見覚えのある花柄のハンカチ、と、それに覆われた腕。牛鬼の血液で辺りは赤く染まっている。
「社長!」
駆け寄ると、八雲は浅瀬に身体を浸けるように横たわっていた。全身が赤く濡れ、それが彼のものなのか牛鬼のものなのか見当がつかない。双眸は閉じられ、ぴくりとも動かなかった。
「社長! 死んじゃだめです!」
八雲の身体を揺すり、叩く。力いっぱい。それはもうぶんぶんばしばしと。決してふざけているわけではなく、彼の生を思う一心で。
そんな安曇の行動を、和久井が制止した。
「安曇さん! 安曇さん、見てみ!」
八雲如来――右手を上げた状態で、彼はか細い声を出した。
「痛い……寒い……」
♦︎♦︎♦︎
牛鬼の血と川の水でずぶ濡れの八雲はガチガチと歯を鳴らしていた。濡れた身体は重く、安曇と和久井の二人でなんとか陸地へ引っ張り上げてコートを脱がせ、和久井の上着をかけてやる。八雲は相変わらず目を伏せていたが、やがてゆっくりと口を開いた。
「ありがとう……和久井さん、真夜くん……牛鬼は、消滅したね……」
「ウシオニ? 八雲さん、神様はどうなったんけ?」
信仰していた神がいなくなってしまったのかと焦る和久井に、八雲は説明した。皆が神だと思い祀っていたのは妖怪であり、事務所を襲った牛鬼が変化した姿であること、もともと牛鬼が人間を騙していたのかもしれないし、人魚に取って代わった可能性もあることなど。
「あがらは……化けもんを崇めてたんか」
和久井の顔が悔しさに歪む。知らなかったとはいえ、大勢の仲間の命を失ってしまった。しかし、妖怪だと知ったところで自分たちにはどうすることもできなかっただろう。
「あの、社長、どうして牛鬼は消滅したんですか?」
「ああ、それはね」
八雲の優しい眼差しが安曇に向けられた。
「牛鬼は、人を助けると身代わりに死んでしまうんだ。だからきみに呪文と礼を言ってもらった。腹の中から真夜くんを吐き出し、命を助けた既成事実をつくったんだよ」
「どうしてわたしだけ」
しばしの沈黙。八雲は安曇から目を逸らした。
「恥ずかしいだろう……あれ、大声で言うの……」
それに溶けた牛鬼の中から登場したらかっこいいかと思って……と無意識に火に油を注いだ。
安曇の怒号が響く。咆哮する牛鬼など可愛く見えるほどに、その形相は凄まじい。
「わたしがお礼を言わなかったらどうするつもりだったんですかっ」
「きみを信じてるから。真夜くんもぼくを信じてるから、恥ずかしくても呪文を言ってくれたし、礼も言ってくれたんだろう?」
八雲はけろりとしているが、これはかなり恥ずかしいことを言われているのでは。安曇は身体が急激に熱くなるのを感じ、それ以上は口を噤んだ。周囲が明るくなくて良かったと内心でほっとする。
そんな彼女を意に介さず、八雲は続ける。
「和久井さん、溶けた牛鬼の体内から人骨が出てきているはずです。行方不明になっている方々だと思いますので、警察に連絡をお願いします」
弱々しく頷く和久井に、八雲は語りかけた。
「お仲間の皆さんとの再会がこのようになってしまったこと、心中お察しします。つきましては一つ、提案があります」
「提案……?」
それは亡くなった者たちの死を悼む、和久井を始めとする漁師たちの気持ちを汲んでのものだった。仲間を失ったうえ、長年信仰していた神が紛い物であったとなれば人々は心の拠り所までも失ってしまう。
「椿を植えていただきたいのです。できればこの場所が好ましいですが、なにぶん森林法には詳しくないので、難しければ町の皆さんが足を運びやすい場所でも構いません」
――牛鬼は椿の化身であるという言い伝えがある。
古くから、日本では椿が神聖な樹木の一つとされてきた。神が宿ると言われ、椿の化身である牛鬼をすなわち神の化身として崇める地域もあるのだ。
「この土地に、人々を守る神の化身である牛鬼を育てるんです」
「育てる!? あの妖怪がまた産まれるってことですか!?」
これには安曇も赤面してはいられず、思わず八雲と和久井の会話に首を突っ込んだ。
「人間を襲う妖怪としてでなく、守る者として、命を与えるんです」
「危なくないんけ」
「大丈夫です。意味を与えるということは、その行為そのものに意味がある。人々が必要とし、敬うために命を与えられた牛鬼ならば、皆さんを守ってくださるでしょう」
呪いが強い負の感情で生み出されるように、人々が敬い親しみを込めて椿を育てれば、そこから産まれる牛鬼は神の化身となるだろう。それほどまでに、存在理由を与えてしまえるほどに人の意思は強いものだ。
八雲の柔和ながら真剣な眼差しに、和久井は答えを出した。
「わかった。八雲さんが言うならやってみら。おおきになぁ、八雲さん、安曇さん」
「いえ、仕事をしたま、で……ぶぇっくしょい!!」
木霊するくしゃみ。のち、どこかで鳥が飛び立つ音がした。
翌日、W県に来たのだから日本三古泉の湯に浸かりたいとの八雲の希望で温泉にて身体を休めているところ、和久井から連絡があった。警察は彼の通報を受けて早速動き出してくれたそうだ。また、椿の件も早々に進めていく予定だという。
漁師たちが崇めていた神は消えてしまったが、数年後、椿が花開くこの季節には新たな牛鬼が産まれることだろう。
追悼と、人々を守り支える象徴としての神が――。
――――――――――――――――――――――――――
-安曇の営業日誌-
体が蛇の姿に変化した牛鬼は「濡れ女」「磯女」という妖怪と同種であるとも考えられる。
赤ん坊を連れている場合もあるが、その赤ん坊を抱いてしまうとそのうちに殺されてしまうので抱いてはいけない。
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