花カマキリ

真船遥

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Scene 14-1

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 絶え間ない彼女への賞賛。手を振るだけで沸き起こる会場を揺らすような歓声。試写会にやってきた観客たちは皆、由依に釘付けだった。青年が死んでから一年半、由依は立て続けに二本の映画の主演を務め、二つの作品を成功に導いた。一作目は、青年が死んだ頃に撮影が開始された作品。この作品で彼女の演技は本物になり、この作品がキャリアの絶頂だ、と誰もが噂したが、彼女はまだ蛹から羽化したばかりのアゲハ蝶に過ぎなかった。本物の羽ばたきは、二作目に撮影された作品だ。この映画の脚本は、青年が執筆した作品を由依が映画用の脚本に書き起こしたものがベースになっている。父親譲りなのか、由依には脚本家としての資質があった。由依は女優業に打ち込みながら、本業と同じくらいの熱量で脚本術の勉強に励んでいた。青年の作品を世に残すための努力は惜しまず、海外の著名な脚本家の書籍を大量に読み込み、一流芸術大学に入学し、本格的に脚本術について学んでいた。そして、昵懇な映画監督と共に書き上げた作品が由依主演で撮影され、その作品は国際映画賞を受賞した。由依は今日、その作品の記念試写会で壇上に立っている。純白のドレスに身を包んだ彼女は、一人だけスポットライトを当てられているかのように、他の俳優陣の中で際立っていた。インタビューへの模範的な回答。観客へのファンサービス。そして、青年が死んでから、常に虚空を見つめているかのような乾いた黒い瞳。いつの日からか、彼女は吹っ切れたように明るくなり、外向きの清純な態度を俺やハルヨにも見せるようになった。成功の影に隠れているせいで見えないが、何かが壊れてしまったような彼女のことを俺やハルヨは直視することが出来なくなっていた、いや、むしろ、抉られた生々しい生傷を見ることを躊躇っていたのかもしれない。彼女の傷はあの青年以外癒すことができないのだろう。張り付いた笑顔を絶やさぬまま、試写会が終わり、ホテルでの祝賀会を一通りこなし、由依はホテルのスイートルームに帰って行った。彼女の口利きで、なぜか俺は隣の部屋に泊まることになり、慣れない成金趣味みたいな部屋の中で、急かしさを紛らわすために、タバコを吸っていると、インターホンが鳴った。ルームサービスかと思い、シャツをだらしなく着た状態で、扉を開けると、俯いた由依の姿が目に飛び込んだ。部屋で少し話さないか、とお願いされた。
「ごめんね。急に呼び出して。もう寝る支度するところだった?」
「いや、こんな綺麗な部屋に泊まれるなんてそうそうないから。思いっきし、俺のタバコの残り香をつけるために、ここから四時間本でも読みながら、酒を飲むつもりだった」
 俺はソファに座り、あたりを見回した。初めて部屋に呼び出された時とは大きく異なり、部屋は綺麗に片付けられていて、テーブルの上には、作成途中の新しい脚本の原稿があった。また、脚本か、と思いながら由依の次の言葉を待っていた。
「吸ったら?」と灰皿を俺に勧めてくる。
「いいよ。それに由依はもう喫煙者じゃないだろ」と俺が言うと、「折角、喫煙可の部屋借りたんだから、吸ってよ」とお願いされた。
 俺は何となく気乗りしなかったが、無下に断ることもできず、
「それじゃあ、お言葉に甘えて」と言って、タバコに火をつけた。
 俺がタバコを吸う姿を見つめてくるので、吸いたいのか?、とタバコを勧めると、ううん、見惚れてた、と由依はタバコを断った。嘘つけよ、と俺が言うと、本当だよ絵になる、と俺に言ってきた。
「でも好きにはなってくれないんだろ」と俺が寂しげに言うと、
「好きだよ。でも、恋愛的なやつじゃないけど。リュウは、自慢のお兄ちゃんって感じ」と返された。
 しばらく俺は黙りこくり、タバコの先っぽを灰皿に擦り付けてタバコの火を消した。もう一本タバコを吸う前に俺は訊いた。
「それ一番言われたくないやつ。気づいてたの?俺が由依のことを好きなこと」
「気づいてるも何も、私と一緒にいて私のことを好きにならなかった男がいないから」
 他人行儀な返答ばかり言うようになり、人の揚げ足をとるような発言が息を潜めていたので、由依からこんな言葉を聞くのはとても久々だった。新鮮ささえ感じた。
「でも、ごめんね。リュウの気持ちは嬉しいけど、もう誰も好きにならないって決めたの」
「俺何も言ってないんだけど。どうして?」
「どうして?。じゃあ、リュウは自分が好きになった人が全員死ぬってわかったらどうする?」
 由依は自分の欲求の正体に押しつぶされていた。彼女が本当に欲しているものは、家庭的な日常、家族愛だ。彼女は早くに両親を亡くし、加賀美陽子に引き取られ、大事にされてはいたものの、家庭に自分の居場所がないよそよそしさを感じながら育った。由依が欲しかったものは、多分、自分の家庭だ。物書きの旦那に、女優業をやっている自分に、血の繋がった我が子。おそらく、自分が子供の頃に失ってしまった幸せな家庭の風景を自分の手で再現することが真の内なる欲求で、そして、自分がその風景を手にすることができないことを身を持って知っている。その欲求を知っている俺は彼女の問いに言いあぐねることしかできなかった。
「二人で成功したら、都会から離れたところで、地元の人に愛される喫茶店を開こうって約束したんだ。どうやら叶わなかったみたいだけど。結局、神様は彼を殺しちゃったみたい。トシノリと出会って何もかもが変わったの。付き合う前までいつも変な夢を見てたいの」
「夢?」
「そう夢。今まで自分とセックスして死んでいった男たちがね、夢の中に現れて、強引にみんなで私のことを回して犯すの。復讐を楽しむみたいな顔をして。私も悔しいから、泣いて助けを求めることを我慢して、やめて、やめて、って言いながら、何度も必死に抵抗するの。私が抵抗すると、相手はどんどん乗り気になってくる、でもここで助けを求めたら、負けた気分になって、もっと最悪な気持ちになりそうだから、夢の中から、出てけ、出てけ、って言いながら悍ましい顔をしながらやりあうの。でもね、彼と出会ってからその夢を見なくなったの」
「最近、その夢は見るの?」
「ううん、でもね、近頃、こんなことを考えてゾッとするの。もしその夢の中にトシノリが出てきたらどうしようって。あの男たちみたいに、楽しそうに私のことをレイプする夢を見たら?。お前のせいで僕は死んだんだ。もっといろんな本が読みたい、いろんな作品を執筆したいって言われながら毎日レイプされる夢を見たらどうしようって」
 俺は何も言わずに、彼女の悲痛な訴えを真剣に訊いていた。彼女の目は潤み充血していた。いつもより、自分の呼吸に意識が向いた。息を吸うと、脳みそが萎縮していくように、心もとない気分になり、胸が締め付けられた。そんなことない、と言ってやるのは簡単だ。いつもの俺ならそうやって嘘でもついてこの場を誤魔化すだろう。俺は由依を好きになってから嘘ばかりついて、それでいて、彼女と真正面に向き合った事もないくせに、俺のすべてを受け入れて欲しいと思っている。いつか俺の胸が裂けて、その裂目から出てきたドロドロの汚くて熱いモノを君の冷たくて綺麗な白い体で抱きしめて、浄化して冷まして欲しい。そのためならなんだってやるさ、君が人を殺せと言えば殺すし、他の女を愛せと言ったら愛すよ、サロメみたいに生首を差し出せと言うなら喜んで俺の生首をあげるよ。だから、一度で良いから、あの青年を見るみたいに俺のことをじっくり見つめて。
「だから、もう誰も好きにならない。これ以上辛い思いをしたくないから。それに、自分の力で作品がよくなるってわかったからね。もう誰かに頼ったり、何かに縋ったりする必要もない。そうだ、また新しい脚本を書いているの。すごいのよ、原作がいいから、私が少し頑張るだけで、良い作品になっていくの。このテーブルに置かれていたやつだけじゃないの。いっぱいあるの、USBに入ってる、ちょっと待ってて、今持ってくる」と急に空元気になり、ベッドルームに行き、データを取りにいった。
 贖罪。幸福が人間の生きる希望であるならば、苦悩は人間が生きていくための理由なのだろう。そして、苦悩を諦めた人間は絶望し死に至る。青年は死してもなお由依に生きる理由を与え続けた。生きていく希望を失った彼女が生きる理由は、死なせてしまった青年への償い、由依が青年の作品を脚本にしているのは、心のどこかで青年からの赦しを求めているからなのだろう。由依は、作品を世に出し続ける限り、あの悪夢に青年が出てこないと盲信しながら必死に作品を書き続ける。俺は考えた。もし、一つでも日の目を浴びなかったら、全ての作品を脚本にして映画を撮り終えた時、いや、そんなことより先に青年があの夢に出てきたら、苦悩を止めた彼女はそれでも生きることを選択するのだろうか。由依は、可愛いストラップをつけたUSBを指でつまんでやってきた。そして、俺の顔を見て怪訝な顔をして、質問した。
「どうして泣いているの?」
 泣く。俺が?、シンパシーなんて捨てて来たのに、人のためを思って俺が泣くのか?、目を拭うと確かに濡れている、思わず目から涙が零れた、そんな濡れ方だ。
「タバコの煙が目に沁みたんだよ。脚本、必ず読むよ」
「天才脚本家玉城由依のお披露目前の原稿なんだから、必ず全部読んでよね」
「わかったよ。今日から読み始めるよ。でも、あれだな、できれば紙で読みたいな。原稿はないの?」
「手書きじゃなくてもいいなら、あるけど。どうして?」
「いや、変なところがあったら、赤ペンで修正してやろうかな、と思って」と俺が揶揄うと由依は俺の脇腹に軽く正拳突きを入れて、既視感のある不機嫌な顔で俺を睨みつけた。そして、顔のこわばりを解いて、
「なんか、色々溜まってたもの吐いたら、スッキリした。こうやって、気楽に話したのは久しぶり」と言って、緊張の糸が切れて由依は大きくあくびをした。
「そろそろ寝たほうが良いんじゃない?」
「いや、あの原稿を完成させてからじゃないと」テーブルの上の原稿を指差して言った。
 不吉な声色。俺は彼女の言葉に耳を傾けた。
「そう、あれ。最後の原稿なの」と由依は物寂しく言った。
「あれを完成させたらどうするの?」と訊くと、質問の意図が伝わらなかったのか、
「どうするって?」と俺に質問し返した。
 俺は適当に、何とか誤魔化すように、
「いや、何でもない。そろそろ、部屋に戻るよ。脚本でも読みながら、ゆっくりお酒を飲んで寝ることにするよ。何から読めばいい?。自信作は?」と話題を変えた。由依は少し思案した後に、「記憶の売買ができるようになった近未来の話かな?」と提案した。
「そっか、それじゃあ、それでも読んで、今日は寝ようかな。あまり根を詰めちゃダメだよ。それじゃ、おやすみ」と俺が言って、部屋を出ようとすると、由依は「おやすみ」と返し、俺を扉まで見送って、今まで支えてくれてありがとう、と囁くように言って扉を閉じた。
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