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第6話「送る羽ばたき、明ける後悔」
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「とある孤児院で不正があったんです。子ども名義で作った口座を売り、資金を得たというものだったんですが」
「なるほど神をも恐れん所業だ」
「本当に思ってます?」
「もちろん。貧乏人にとっちゃ、金貸しは神様みたいなもんさ」
あくまで浮ついた態度で嘯くと、アンリエッタの考えを察したらしいフランツは、さらに言葉を続ける。
「まあ、つまるところこう考えたわけか。売る人間がいるのなら買う人間がいる。貧困層からはした金で買い集めた不正口座を通じて、こっそりと敵国からの支援を受けた」
一つ一つが細かい金額の移動だから、フランツたちがするような追跡の網の目には掛かりにくい。国外の銀行からの送金にしても、十分自然と見なせる範囲の取引である。おまけに無関係な個人の名義を利用しているわけで、実際に受け取りの手続きを行う者を除けば、機関に繋がる糸口もない。
でも人のものなのに、そんな簡単に使えちゃうの?
手を触れて問いかけてきたルウィヒの方へ、アンリエッタは目をやる。
「すごく簡単というわけではないけど、まあ、そうだね。その口座の預かり証か口座番号と一緒に身分証明か委任状を提示したら、大抵後はサインをするだけでお金は引き出せる。もちろん字の形とかその人の見た目とか、明らかに嘘をついていないどうかは銀行の人も確認するんだけど……」
「全部が抜け目なくそうされるわけじゃないし、精度にしても頻度にしても、確実性はない」
アンリエッタは頷いて、横から割り入ったフランツの説明が正しいことをルウィヒに示す。
「その口座っていうのは、子どもでも作れるものなの?」
ひと時話し合いの矛先がルウィヒに向いたことで話しやすくなったのか、レームも疑問を挟んでくる。
「普通本人っていうよりは保護者が作るものだけど、できるね。孤児院で言えば個人で寄付を受け取るとか、そういう名目で作ることはある。……今回は、悪いことで手に入れたものを預けて、真っ当なお金に変えるために使われたみたいだけど」
肩を迫り上げ、唇を歪ませるフランツ。
「そうやって、ガキの保護者を装って資金洗浄をしていた、と」
「銀行の視点からすると、そうです。ですが今回の手口で言えば、直接的な経歴の詐称は行われていません」
「? そりゃ、どういう」
「霊的証印です」
イスタ銀行の口座開設には、所定の申請書と共に本人確認書類を提出することが求められる。名前と、住所あるいは第三者による身分証明を提示することがその条件で、通常、公書士が作成したその証明書に本人もしくは法定代理人がサインを添えれば、それで問題なく受理されるというものである。
そして署名は、霊的証印の付与を前提とした代筆が認められる。原理上開設した支店に限っての話にはなるが、預金の引き出しや送金といった手続きの本人確認にも利用ができ、証明書類の提出をパスすることが可能だ。
「つまり、提出した証印が偽物だったのか?」
「いえ……そのやり方も、もちろん可能ではあるんですが」
公書士による証明が重く扱われていることは確かに不正を防止する上での穴と言えるが、この件に関して言えば、手続きそのものは正常だった。
「なら」
「口座開設の際に提出された証印を、とある行員が改ざんしたんです。不正利用者はそれによって本人確認を通過、口座の預金を引き出した」
イスタ帝国の現行法では、かつてまさに架空の口座を利用した資金洗浄が問題になったという経緯から、原則銀行ごとの口座と利用者の紐づけを必須としている。けれども本人確認の方法については明確な取り決めがなく、各行の規定に委ねられたその手続きは、厳重には管理されない状態だ。もちろんあまりに杜撰と判明すれば査察や指導が入るだろうから無法にはできないが、それでもかなりの部分での裁量が与えられていることには否定のしようがない。イスタ銀行マティルド第一支店に勤務するその行員は、所属する支店の本人確認作業がさほど徹底したものでないことをよく知っていた。預かり証に記載される情報は名義者名と、口座を開設した支店名、それと口座番号程度のもので、別紙の情報シートが参照されることはほとんどの場合、ない。証印の反応を確認できたのならなおさら、わざわざ本人かどうかを追及することはなくなる。実際、この手口による不正は最後の時まで疑われなかったのだ。――彼が商業組合の事務局員と共謀して実行した、クーポンの横領が判明するまでは。
「別件での謹慎処分の間に途中の書類が見つかって、それでやっと事態は明るみに出ました」
児童名義の口座の預かり証が保管庫からは抜き出されていて、手続きの履歴を遡る内に不正のあらましが紐解かれた。警察が介入し、余罪の追及が始まる。
「それで、他の売り手買い手は見つかったのか?」
フランツの質問に、アンリエッタは力無く首を振る。
「調査中、ということしか。行員の行方がわからないらしくて」
当事者がいないのなら、不正口座かどうかの判定は取引履歴や手続き情報を参照して地道に探す以外にはない。
フランツの眉が、難しくひそめられている。
「同じ経路で手に入れた口座を機関が使っているのかもっていう嬢ちゃんの考えは、確かにある話だ。突き止めれば口座の不正購入っていう表向きの理由と、仮想敵国からの支援を受けていたっていう裏向きの理由の両方でしょっぴく名分を得られる……が、追跡は手間だな」
「送金履歴から逆引きしては?」
「さて……どうかな。情報があるのは国外の支店だし、あっちの諜報員がどれだけ情報を引っ張れるかは未知数だ」
少し考える様子で顎に手をやってそう言うと、フランツはアンリエッタの方を見た。
「ちなみになんだが、証印同士での照合はできないのか?」
「それは、同じ霊素が込められているかどうか、ということですよね」
まっすぐこちらを見る視線が頷くが、残念ながらアンリエッタに返せる答えはない。
認証する本人を鍵とするなら対象の証印は錠ということになるわけで、鍵も使わず錠前の見分けを付けるのは困難だ。何せ霊的証印は錠前と違って、分解が有効な代物でもないのだから。
「少なくとも、私は聞いたことがありません。専門家がどう言うかはわからないですけど……」
短く鼻息を鳴らすフランツ。
「皮肉なもんだ、俺たちが追ってるのはたぶん、この街一番の専門家だぜ?」
そう言って、フランツが天を仰いだ時だ。同じく途方に暮れる心地になって彼を見つめていたアンリエッタの視界の端に、白く何かがよぎる。
誘われるままに目をやれば、傍らには机に身を乗り出し、ぴんと腕と体を伸ばすルウィヒがいた。呆然と見下ろすアンリエッタと目が合って、少女はすぐさまこちらの手を掴まえる。
できる。たぶん。
「え?」
疑問と驚きが半々の応答を寄越すと、ルウィヒは深く頷いた。
誰がどんな霊素を持ってるのか、わたしにはわかる。
「それって」
「できるのか、もしかして」
やり取りの内容を敏感に察知したらしいフランツが問うてくる。不毛の土地の芽吹きを見たように生気に満ちた眼差しが、あった。アンリエッタは睨め付けられたわけでもないのに体を強張らせてしまって、狼狽する。
「あ、いや、ですが」
こちらが曖昧に声を漏らしている内に、ルウィヒは小走りになってフランツの方へと駆け寄った。手を触れ合って、「おお」と彼が呟く。
「そりゃあ、良いじゃねえか。突き止めるのがずいぶんと楽になる。国内の銀行の支店くらいなら、検分の手配はだいぶ簡単だしな」
アンリエッタは笑い合う二人を目を瞠って見つめ、唾を飲み込んだ。
「ええと。でも、それは」
固まった喉は解れずに、言葉はただ足元へ落ちる。
止めたい、と思う。しかし考えがまとまらない。「でも違うんだろ」と、そう言われたことを思い出す。
「アンリエッタ?」
レームが、不思議そうな眼差しを寄越す。まだあどけないその頬が度々強張っていたことについて、思い出す。思考が止まって言葉をなくしている内に一同からは視線が集まって、思わず一歩後ずさった。今一度唾を飲み込んで、それからチリンと――離れた場所で呼び鈴の音が鳴った。
玄関。
来客。
アンリエッタは思って、そちらの方を見る。一瞬迷って、その間にフランツが立ち上がる。彼の動きを追いかける形でアンリエッタも玄関へと向かう。
「どなたかな?」
いかにも動揺する様子を見せていたアンリエッタを気遣ったのか、それとも単に来訪者の正体を警戒したのか、フランツは率先して扉の外へと声を掛けた。果たして、返ってきたのは婦人の声だ。
「あら……どうも、ごめんください。娘がこちらの部屋を借りていると伺ったものでしたから。名前をアンリエッタというのですけど、隣と間違ったかしら?」
聞き覚えがあるどころではない、声。この二ヶ月を除くとほとんど毎日顔を合わせていたその姿が、即座に思い浮かぶ。
「母さんっ?」
意外さにアンリエッタは思わず声を上げ、扉の先の人物について口にした。
「なるほど神をも恐れん所業だ」
「本当に思ってます?」
「もちろん。貧乏人にとっちゃ、金貸しは神様みたいなもんさ」
あくまで浮ついた態度で嘯くと、アンリエッタの考えを察したらしいフランツは、さらに言葉を続ける。
「まあ、つまるところこう考えたわけか。売る人間がいるのなら買う人間がいる。貧困層からはした金で買い集めた不正口座を通じて、こっそりと敵国からの支援を受けた」
一つ一つが細かい金額の移動だから、フランツたちがするような追跡の網の目には掛かりにくい。国外の銀行からの送金にしても、十分自然と見なせる範囲の取引である。おまけに無関係な個人の名義を利用しているわけで、実際に受け取りの手続きを行う者を除けば、機関に繋がる糸口もない。
でも人のものなのに、そんな簡単に使えちゃうの?
手を触れて問いかけてきたルウィヒの方へ、アンリエッタは目をやる。
「すごく簡単というわけではないけど、まあ、そうだね。その口座の預かり証か口座番号と一緒に身分証明か委任状を提示したら、大抵後はサインをするだけでお金は引き出せる。もちろん字の形とかその人の見た目とか、明らかに嘘をついていないどうかは銀行の人も確認するんだけど……」
「全部が抜け目なくそうされるわけじゃないし、精度にしても頻度にしても、確実性はない」
アンリエッタは頷いて、横から割り入ったフランツの説明が正しいことをルウィヒに示す。
「その口座っていうのは、子どもでも作れるものなの?」
ひと時話し合いの矛先がルウィヒに向いたことで話しやすくなったのか、レームも疑問を挟んでくる。
「普通本人っていうよりは保護者が作るものだけど、できるね。孤児院で言えば個人で寄付を受け取るとか、そういう名目で作ることはある。……今回は、悪いことで手に入れたものを預けて、真っ当なお金に変えるために使われたみたいだけど」
肩を迫り上げ、唇を歪ませるフランツ。
「そうやって、ガキの保護者を装って資金洗浄をしていた、と」
「銀行の視点からすると、そうです。ですが今回の手口で言えば、直接的な経歴の詐称は行われていません」
「? そりゃ、どういう」
「霊的証印です」
イスタ銀行の口座開設には、所定の申請書と共に本人確認書類を提出することが求められる。名前と、住所あるいは第三者による身分証明を提示することがその条件で、通常、公書士が作成したその証明書に本人もしくは法定代理人がサインを添えれば、それで問題なく受理されるというものである。
そして署名は、霊的証印の付与を前提とした代筆が認められる。原理上開設した支店に限っての話にはなるが、預金の引き出しや送金といった手続きの本人確認にも利用ができ、証明書類の提出をパスすることが可能だ。
「つまり、提出した証印が偽物だったのか?」
「いえ……そのやり方も、もちろん可能ではあるんですが」
公書士による証明が重く扱われていることは確かに不正を防止する上での穴と言えるが、この件に関して言えば、手続きそのものは正常だった。
「なら」
「口座開設の際に提出された証印を、とある行員が改ざんしたんです。不正利用者はそれによって本人確認を通過、口座の預金を引き出した」
イスタ帝国の現行法では、かつてまさに架空の口座を利用した資金洗浄が問題になったという経緯から、原則銀行ごとの口座と利用者の紐づけを必須としている。けれども本人確認の方法については明確な取り決めがなく、各行の規定に委ねられたその手続きは、厳重には管理されない状態だ。もちろんあまりに杜撰と判明すれば査察や指導が入るだろうから無法にはできないが、それでもかなりの部分での裁量が与えられていることには否定のしようがない。イスタ銀行マティルド第一支店に勤務するその行員は、所属する支店の本人確認作業がさほど徹底したものでないことをよく知っていた。預かり証に記載される情報は名義者名と、口座を開設した支店名、それと口座番号程度のもので、別紙の情報シートが参照されることはほとんどの場合、ない。証印の反応を確認できたのならなおさら、わざわざ本人かどうかを追及することはなくなる。実際、この手口による不正は最後の時まで疑われなかったのだ。――彼が商業組合の事務局員と共謀して実行した、クーポンの横領が判明するまでは。
「別件での謹慎処分の間に途中の書類が見つかって、それでやっと事態は明るみに出ました」
児童名義の口座の預かり証が保管庫からは抜き出されていて、手続きの履歴を遡る内に不正のあらましが紐解かれた。警察が介入し、余罪の追及が始まる。
「それで、他の売り手買い手は見つかったのか?」
フランツの質問に、アンリエッタは力無く首を振る。
「調査中、ということしか。行員の行方がわからないらしくて」
当事者がいないのなら、不正口座かどうかの判定は取引履歴や手続き情報を参照して地道に探す以外にはない。
フランツの眉が、難しくひそめられている。
「同じ経路で手に入れた口座を機関が使っているのかもっていう嬢ちゃんの考えは、確かにある話だ。突き止めれば口座の不正購入っていう表向きの理由と、仮想敵国からの支援を受けていたっていう裏向きの理由の両方でしょっぴく名分を得られる……が、追跡は手間だな」
「送金履歴から逆引きしては?」
「さて……どうかな。情報があるのは国外の支店だし、あっちの諜報員がどれだけ情報を引っ張れるかは未知数だ」
少し考える様子で顎に手をやってそう言うと、フランツはアンリエッタの方を見た。
「ちなみになんだが、証印同士での照合はできないのか?」
「それは、同じ霊素が込められているかどうか、ということですよね」
まっすぐこちらを見る視線が頷くが、残念ながらアンリエッタに返せる答えはない。
認証する本人を鍵とするなら対象の証印は錠ということになるわけで、鍵も使わず錠前の見分けを付けるのは困難だ。何せ霊的証印は錠前と違って、分解が有効な代物でもないのだから。
「少なくとも、私は聞いたことがありません。専門家がどう言うかはわからないですけど……」
短く鼻息を鳴らすフランツ。
「皮肉なもんだ、俺たちが追ってるのはたぶん、この街一番の専門家だぜ?」
そう言って、フランツが天を仰いだ時だ。同じく途方に暮れる心地になって彼を見つめていたアンリエッタの視界の端に、白く何かがよぎる。
誘われるままに目をやれば、傍らには机に身を乗り出し、ぴんと腕と体を伸ばすルウィヒがいた。呆然と見下ろすアンリエッタと目が合って、少女はすぐさまこちらの手を掴まえる。
できる。たぶん。
「え?」
疑問と驚きが半々の応答を寄越すと、ルウィヒは深く頷いた。
誰がどんな霊素を持ってるのか、わたしにはわかる。
「それって」
「できるのか、もしかして」
やり取りの内容を敏感に察知したらしいフランツが問うてくる。不毛の土地の芽吹きを見たように生気に満ちた眼差しが、あった。アンリエッタは睨め付けられたわけでもないのに体を強張らせてしまって、狼狽する。
「あ、いや、ですが」
こちらが曖昧に声を漏らしている内に、ルウィヒは小走りになってフランツの方へと駆け寄った。手を触れ合って、「おお」と彼が呟く。
「そりゃあ、良いじゃねえか。突き止めるのがずいぶんと楽になる。国内の銀行の支店くらいなら、検分の手配はだいぶ簡単だしな」
アンリエッタは笑い合う二人を目を瞠って見つめ、唾を飲み込んだ。
「ええと。でも、それは」
固まった喉は解れずに、言葉はただ足元へ落ちる。
止めたい、と思う。しかし考えがまとまらない。「でも違うんだろ」と、そう言われたことを思い出す。
「アンリエッタ?」
レームが、不思議そうな眼差しを寄越す。まだあどけないその頬が度々強張っていたことについて、思い出す。思考が止まって言葉をなくしている内に一同からは視線が集まって、思わず一歩後ずさった。今一度唾を飲み込んで、それからチリンと――離れた場所で呼び鈴の音が鳴った。
玄関。
来客。
アンリエッタは思って、そちらの方を見る。一瞬迷って、その間にフランツが立ち上がる。彼の動きを追いかける形でアンリエッタも玄関へと向かう。
「どなたかな?」
いかにも動揺する様子を見せていたアンリエッタを気遣ったのか、それとも単に来訪者の正体を警戒したのか、フランツは率先して扉の外へと声を掛けた。果たして、返ってきたのは婦人の声だ。
「あら……どうも、ごめんください。娘がこちらの部屋を借りていると伺ったものでしたから。名前をアンリエッタというのですけど、隣と間違ったかしら?」
聞き覚えがあるどころではない、声。この二ヶ月を除くとほとんど毎日顔を合わせていたその姿が、即座に思い浮かぶ。
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