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来たる四人、迎える二人、加えて一人
第2話 よく吠える狼男 ルガール・ヴォルグマン
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【はじまり】
愛犬パピーを連れて湯ノ石公園を散歩することが、大田光代の早朝の日課となっていた。東口から入り、公園を囲うように存在する池を脇に見つつ、ぐるりと一周する。先週降り続いた雨のせいで桜はすっかり散ってしまっていたが、今は新緑の木漏れ日が心地よい。なにより連日の花見客の喧騒が洗い流されたことに光代は満足していた。
この時間帯は光代のよく見知った顔にしか出会わない。朝のジョギングをする老夫婦と柴犬を連れ歩く中年の男、トイレ裏にこっそり猫缶を置いていく腰の曲がった老婆。
だからこそ池脇の公園のベンチに若い女性が座っていたとき、光代は歩みを緩めしげしげと見つめてしまった。
灰色のウエーブのかかった長髪、白い肌。黒のチノパンを履いており、ベージュ色のロングコートを羽織っている。マスクを口につけており、口元は見えないが携帯電話で話しているのだろうか、微かに話し声が聞こえ、それに呼応してマスクが動いている。ベンチの足元に灰色のペットキャリ―バッグが置いてある。肝心の犬の姿は光代の位置からは見えなかった。
電話で話しているところを話しかけることもあるまいと、美千代はそのままベンチの前を通り過ぎようとする。
「おはようございます」
驚いたことにその女性の方から話しかけてきた。光代も慌てて挨拶を返す。パピーがワン、と女性の左側に向かって吠える。先ほどは見えなかったが、チワワのような灰色の小型犬が女性の左側に気だるげに伏せていた。
「可愛らしい子ですね。ラブラドールですか?」
その女性はパピーの前に腰をおろしながら光代に話しかける。人懐っこいパピーは尻尾を振りながらそれに応える。
「ええ。そちらのワンちゃんも、その……可愛らしく」
光代が言い淀む。お世辞にもその犬が可愛いとは言い難かったからだ。小型犬ながら大きく尖った耳や首筋のふさふさの白い毛は立派なものだったが、目つきは悪く、申し訳程度の四足も酷くみすぼらしい。なにより光代はこのエセチワワの発する生意気な雰囲気が気に入らなかった。小型犬らしい舌を出すような仕草を一切せず、こちらを品定めするように一瞥した後、興味は尽きたといわんばかりに耳の裏を掻き始めた。
「よしよし。あなたはパピーというのですね」
女性は首輪に書かれているネームを確認しながら、パピーの首の裏を掻いている。
光代はむしろ女性の可憐さに目を奪われていた。年は光代より干支二回り分は下だろう。パピーを撫でる仕草一つ一つが繊細でありながら、全身からみなぎる活力は、陽だまりを駆け回る少女たちのように煌めいていた。
そして、宝石のような水色の瞳。その瞳に見つめられると、きらきらと靄が包んでいるような錯覚に陥る。
光代は咳ばらいをし、女性に話しかける
「失礼ですけど、この辺に住んでいるお方?」
「つい先日こちらに引っ越してきたんです。以前はロンドンにおりまして」
「あら、通りで見たことないと思った。へぇ、イギリスから」
女性は立ち上がる。光代の目線が女性の顎の高さになる。光代が平均身長より少し低い程度なので、女性にしては大柄なほうだろう。
女性は小さくお辞儀しながら名乗る。
「リリス・サリヴァンです。東町の方に越してきました。この子は相棒のルガール」
「あらあらこれはご丁寧に。大田光代です。日本語がお上手ね~。私よりうまいんじゃないの」
リリスは苦笑しながら答える。
「親戚に日本人がおりまして。幼いころから日本語は聞いていたんですよ。散歩中にいきなり話しかけてすみません。その子があんまり可愛いものだから」
「あら、あなたにもこの子の可愛さが分かる?」
眼鏡を光らせる。愛犬の自慢となれば普段の十倍口が回るのが光代だ。普段からおしゃべり好きなのにこれ以上まくしたてられるのは勘弁、と知人からは犬の話題を振られなくなっていた。これ幸いと舌が回る。
「この子と出会ったのは三年前の梅雨の時期でね、一番上の娘が地方の国公立大学に行ってね。家が少し広くなっちゃって、なんか寂しいな~なんて考えてるときに王街道のペットショップの前を通って、何気なくショーケースを見たの。そしたらこの子がいたのよ! まだ小さかったけど今に勝らぬ愛くるしさでね、上目づかいで見つめてくるのよ。私一目ぼれしちゃって! この子ったら本っっっっ当にお利口さんになの。私が抱きしめるとキャンキャン吠えて喜んでくれるのよ~。そうそう聞いて、この間なんか――」
「おいおばさん、その辺にしておけよ」
この場に似つかわしくない青年の制止の声に、光代は口を閉じた。光代は周りを見渡すもそれらしい姿はない。池に鴨の親子が泳ぎ、パピーは、ベンチの方をじっと見ている。リリスの飼い犬は相変わらずふてぶてしい顔でこちらを見つめている。
「――今誰か男性の声がしませんでした?」
「……気のせいじゃないですか、この場には私たちしかいないですし」
リリスは子犬の座るベンチの方へにじり寄って行く。
その行為に気付かない光代は辺りを見渡しながら眉根を寄せる。
「変ねぇ。確かに誰かが――」
「俺だよ俺。年食い過ぎて耳が遠くなっちまったのか?」
光代は驚愕する。ルガールが、ベンチの上の子犬が喋った。ように見えた。
そんな馬鹿な。半笑いのまま凝視していると、ルガールはため息をついて喋り始めた。
「おいおいそんなアホ面すんなよ、死んだ時と区別がつかなくなるだろうが。だいたいあんた、さっきその犬に上目遣いされたの~とか言ってたけどな、その犬が本当に見つめていたのはその横を通り過ぎていった巨乳のねえちゃんだよ。あんたみたいなおばさんに媚なんざ売るわけねぇだろ。あと抱きしめると吠えて喜ぶなんてのも、あんたのどぎつい香水に死にかけていただけだ。その犬も随分参ってるぜ。それとこれは俺の個人的なアドバイスなんだが、その悪魔じみた目もとの化粧はやめ――」
「『飛べ』」
リリスの短い発声とともに、光代の前でベンチが爆発した。光代が悲鳴をあげてその場にしゃがみ込んでいる間に、ベンチは固定していたコンクリートごと地中から引き摺り出され、ルガールと幾ばくかの土が綿毛のように宙に舞っていた。重力を忘れたように空にふわりと浮かぶ。
「『お座り』」
瞬間、塵一つ残さずすべてが地面に叩きつけられた。鈍く重い音が響く。洋風の洒落たベンチは木の座板が真っ二つに割られ、鉄製の足は水飴のように容易く捻じ曲がった。ルガールは地面にめり込み、微動だにしない。
しばらくの間、光代はその場に丸まったまま動けなかった。
「太田さん?」
光代の肩に手が置かれる。恐る恐る顔を上げると、リリスがこちらを見下ろしていた。
「……また失敗か」
リリスから先ほどまでの愛くるしい笑顔は去り、ひどく冷たい目を突きつけてきた。子どもが興味なくしたおもちゃを差し出されたときの表情に似ていた。リリスは、すでに光代に価値を見出していなかった。
感情の消え失せた顔でさえ美しいと思わせるとは、やはりよほどの美人なのだな、と場違いだと思いながらも光代は感嘆せざるをえなかった。
リリスはおもむろに細い右手を光代の目の先へ突き出す。
光代が最後に認識したのはリリスの右手の中指と。
「『忘却の地平線へ』」
訳のわからぬ言語であった。
*
「あなたは今日普段通り散歩していただけで特に何の変哲もなく、ましてや喋る犬や美女になんて会っていない。あなたはこれから家路に着くまで後ろを振り向かずに歩く」
「私は今日普段通り散歩していただけで特に何の変哲もなく、ましてや喋る犬や美女になんて会っていない。私はこれから家路に着くまで後ろを振り向かずに歩く」
うつろな目をした大田光代はリリスの言葉を復唱し終えた後、すたすたと歩き始めた。パピーは怯えたように後ろを振り返りながらも、御主人に遅れぬように歩く。
リリスはパピーに申し訳ないと顔の前で手を合わせた後、地面にめり込んでううんと唸っている子犬の首根っこを引っつかみ、乱雑にペットキャリーに放り込んだ。脇に転がるベンチを一瞥し、はあと大きなため息をついた後、大田光代と反対方向を向く。歩きだすと同時に右腕をあげ、パチンッ、と指を鳴らした。
空気が震える。ベンチがゆっくりと宙に浮き、元あった場所へ動きだした。砕かれ捻じ曲がったベンチの部位は再生し、土台のコンクリートが地面の下に埋まり、抉れた土も平らになるようモゾモゾとまるで生物のように土が移動する。
数分後、ジョギングをする老夫婦が通るころには、なに一つ変わらぬ公園の姿があった。
【次元の魔女】
「毎回言っているでしょうルガール。その姿のときは喋るなって」
とある路地裏。リリス・サリヴァンは腕を組みながら足元の子犬に話している。通風機や壁を這う管がこの町の窮屈さを物語っている。ハエのたかるポリバケツや目の高さに蜘蛛たちの巣があり、通路としてここを使う人はそういない。コソコソ話すには好都合の場所だが、リリスとしてもこんなところに長居はしたくない。
「どうしてあなたは考えるより先に口が出るんでしょうね?」
「キャンキャン」
「せっかくこのあたりの情報網を作り上げようとしているのに」
「クゥ~ン」
「毎回余分に幻力を使わないといけない私の身にもなってほしいです」
「ヘッヘッヘッヘッヘ」
「とにかくもっと犬らしく振舞ってください。わかりましたか?」
「ウ~ッワン!」
「……ルガール、今だけは言語を話してもいいです」
「おっ、そうだったのかい? いやなに、こんな汚ねぇ場所に連れてこられたから、俺ァてっきり今度はみすぼらしい捨て犬の真似をしなくちゃぁいけねぇのかと思ってよ」
「……」
「いやしかしなかなか板についてただろ? 俺のみすぼらしい子犬の演技は。なにせここ最近ずぅ~っと、哀れで惨めな子犬の姿のまんまだったからなぁ!」
リリスは右手で眉間を揉みほぐす。ルガールは明らかにご立腹だ。プルプルと震える口角を見れば一目瞭然だった。苛立っているのはリリスとて同じことだったが癇癪を起こすわけにはいかない。ルガール自身には詳しく伝えていないが、これからやろうとしている任務には、ルガールの存在がかかせないのだ。その辺の野良犬でいいというものではない。ないはずだ。多分。
リリスは怒らせないように、今までにないほど優しくルガールに話しかけた。
「ルガール、そんなに子犬でいるのが嫌ですか?」
「嫌かだと? 子犬でいるのが嫌かだと!」
だがそれが逆にルガールの逆鱗に触れた。
「糞ガキどもに追い回され、大型犬に吠え散らかされ、そんな生活が嫌かだと? 嫌に決まってんだろうが! 仕事だったら我慢できるってんならお前が犬に変身すればいい。そうすりゃ少しは俺の苦労も分かるだろうよ!」
「私はそういう意味で言ったわけじゃ――」
「この際だからハッキリさせようじゃねえか。なんで俺だけがこんな目にあってるんだ? 別にお前が犬役でもいいだろうが。まさかお前がやりたくないだけってんじゃねえだろうな」
「そういうわけじゃないですよ」
そういうわけだった。
「というかその点に関しては何度も話したでしょう」
面倒くさくなったリリスは、思わず彼が嫌いな言葉を吐いてしまった。
「いいじゃない。ルガールは狼男なんだから。犬になるなんてお手の物でしょう?」
【犬っころ】
気に食わない。まったくもって気に食わない。
この目の前の女は、犬と狼を同じもんだと思っていやがる。俺がいくら懇切丁寧に犬と狼は別物だと説明しようとしても、まあ落ち着きなさいよ、ドッグフードをあげますからと返すような女だ。ドッグフードなんざ誰が食してやるもんか。
法理師ってやつは大概こうだ。自分たちがこの世界の秩序を守っているからと無意識に高慢ちきな奴が多い。
「あのな、リリス。誇り高き狼とその辺の犬っころとでは天と地の差があってだな――」
「私たちからすれば似たようなものですよ。ただの人間を犬にするのと、ルガールみたいな狼男を犬にするのとでは法理の容易さも違うし、消費する幻力も変わってくる。あなたも多少法理をかじっているんだからわかるでしょう?」
正論に少し怯む。俺には狼の血が流れているだけあって、犬に変化する法理の計算量は通常の半分以下でよいはずだ。その分幻力消費も抑えられる。
それにしたってだ。
「なんでこんなできそこないのハスキー犬みたいにならなきゃならないんだ?」
我ながら可愛いとも、ましてやかっこいいともいえない姿だった。尖った耳や頭から背中に伸びる白い毛はまだいい。問題は頭部以外だ。まずどう考えても比率がおかしい。頭がでかすぎるのか、体が貧弱すぎるのか、三頭身もないんじゃねぇか? 首周りのふさふさの毛も戦闘では邪魔にしかならない。極めつけは四つ足で、酷く貧相で軽いはずの体を支えるのにも苦労し、すぐにプルプル震えてくる。
「もっと狼らしさを出してもいいだろうが」
「今回は潜入調査も視野に入れています。怖い顔をしていたらターゲットに近づけません」
「こんなにみすぼらしいと誰も近づかねえよ。もうチョイ立派にできなかったのかよ」
「そこはまあ、幻力削減の弊害ってやつですね」
他人事のように言いやがる。実際他人事、犬事って感覚なんだろう。
「だったらこの首回りの毛の分の幻力をほかに回せよ。なんでここだけこんなフサフサなんだ?」
「だってそのほうが可愛いですし」
駄目だこりゃ。俺は天を仰いだ。灰色の壁に挟まれる形で水色の空が窮屈そうに見える。ドイツの空のほうが広く、なにより青かったはずだ。
なんだって俺はこんなところに来ちまったのか。半月前の自分の考えの浅はかさを恨む。
*
悪くない仕事だと思った。リリスから今回の話を持ちかけられたのは雪の降りしきるケルンの喫茶店だった。俺はアルゼンチンでの長期出張から帰ったばかりでしばらくは馴染みあるケルンに滞在するつもりだった。
ドイツ人の盛況を懐かしく思いつつ、のんびりコーヒーを飲んでいるときに――ちなみにこのときは青年の姿だ。犬の姿じゃないのであしからず――リリスが店に入ってきた。俺は久しぶりの仲間に喜び、隣の席に招き入れた。思えばここで無視しときゃよかったんだな。
「日本で仕事をするつもりはありませんか?」
リリスはひとしきり談笑した後こう切り出した。仕事内容は端的に言っちまえば、ニンゲン――俺たちのことをなにも知らないお気楽な種族――家庭への潜入及びその周囲で起こるであろう異変への索敵・処理だ。普段俺がやっていることとそう違いはない。
「ただ規模が違うんですよね」
リリスはホットコーヒーにミルクをかき混ぜながら話す。少し憂いを含んだようにカップに目を落とす仕草は並みの男なら手を差し伸べざるを得ないだろう。
「今回の事件、起こってしまうと第三級事変に認定されそうなんです。前々からその怪奇の予言はされていたんですけど、法理鏡会の本部も後回しにしていたらしく……。ほら、予言したのがドイツのヴェルナーで――そうそう世紀末派の――それでどうせ今回もホラだろうと高をくくっていたんですけど」
「本当かもってか」
リリスは、はあ、とため息をつく。
「万象法廷で認定されてしまうと、責められるのは私たち法理鏡会でしょう? 今まで何していたんだって。せっかくノストラダムス事変で失墜していた世紀末派やそれを支援している新世紀派が復権するのをお偉いさん方は恐れているらしくて」
「それでその異変が起こっちまう前に秘密裏に片付けちまおうって算段か。いかにも落ち目鏡会の考えそうなこったな」
それなりの皮肉を込めたつもりだったが、リリスは特に気にかけるでもなくコーヒーを口に含む。俺が鏡会に好印象をもっていないことを矯正するつもりはないようだ。
「境会が失墜しようがどうでもいいんですが、今は恩を売っておきたい事情があるんですよ」
「そんな重要な仕事をどうして俺に回してくるんだ? 自慢にもならないが俺が最後にした仕事は、引っ込み思案なチュパカブラに牧場を襲うことの意義について力説することだったんだぜ? いきなりハードル上がりすぎじゃねえか?」
「重要な仕事だからこそあなたに頼みたいんですよ。いくら有能でもクラッチゲームでフリースローを決められないような人じゃダメ。ここ一番で目を瞑ってでもボールをリングに吸い込ませるような人材が欲しいんです」
これは納得せざるを得ない。最近の幻魔どもは実戦経験が少ないせいでいざという時の判断力に欠ける。なにが起こるか分からない今回のような場合俺のような経験豊富な存在を欲しがるのも無理はない。
「鏡会が出す法理師よりあなたとのほうが連携がとりやすいでしょうし」
これにも同意。境会が推薦してくる傭兵は大抵ろくな奴はいない。以前ギリシャの隠し神殿でミノタウルス狩りを命じられた時、あろうことかメデューサと組ませやがった。迷宮で連携を取れとのことだったがとんでもない。俺は奴が角からひょっこり顔を出すたびに石像にされたもんだ。
「それにね、ルガール」
リリスはウェーブのかかった髪をかき上げつつこちらを向く。
「やっぱり遠い東亜の国で寂しい思いはしたくないです。一人ぼっちは、もうこりごり」
どこか寂しそうな笑みを浮かべながらリリスは言った。寒さからか頬がほのかに赤らんでおり、水色の瞳が宝石のように輝いている。
ここまで言われたら仕方ないと俺は二つ返事で承諾した。
それにしてもあの日のリリスは綺麗だった。キラキラと輝き、まるで魔法にかけられたような――。
*
「思い出したぞ!」
回想終了。俺が突然叫ぶもんだから、近くにいたネズミが慌てて逃げかえった。
「お前、あの時俺に『見惚れよ』の法理を使いやがったな!」
「……『見惚れよ』? 法理? なんですか、それは」
「とぼけんじゃねえ! 変だと思ったんだ。潜入方法だのを承諾したことだけ覚えていても、その経緯が靄にかかったように記憶をうまくたどれない。思い出せるのはお前の顔だけ。今朝あのおばさんに使っているときに気付くべきだったぜ」
「別に些細なことでしょう。法理なんて使わなくったって私は充分魅力的なんですし」
「お前が魅力的? 冗談はよしてくれ。将来有望な幻魔を片っ端から屈服させて愉悦してるような性悪が!」
「その性悪に鼻の下を伸ばしていたの誰ですか?」
リリスはふんと鼻を鳴らす。
「ルガールって本当に精神系法理に弱いですよね。セイレーンの雫事件のときも、政府重役ポルターガイスト事件のときも、ピンクの雌プードルスパイ事件のときも――」
「ピンクの雌プードルのことは忘れろって言ってんだろうが……!」
「愛しのクローイに教えてあげたらなんて言うでしょうね。ピンキーちゃんでしたっけ? あのときの雌プードル」
「パンキーだ――んなことはどうでもいいんだよ、やめろ、連絡しようとすんな!」
スマホを取り出したリリスに声を荒げる。こいつ、いつまで俺の弱みを覚えてやがる。もう取り繕うことに飽きて、俺をもてあそぶ方向にシフトしてきたらしい。
「ごめんなさい、なんの話でしたっけ?」
「だから今日のおばばといい、仕事となんの関係もない会話に何の意味があるんだよ?」
「意味なんて必要ですか? 朝のさわやかな挨拶に」
「なにがさわやかな挨拶だ。お前だって今朝、早く終わってくれよこのおばさんの話とか思ってたんじゃないのかよ」
「さっさと終わらないかな、この凡夫の駄弁と思っていました」
俺より酷いじゃねえか。
「しかしですよ、ルガール。思っていても私は口に出すことはしません。公園での会話はこの辺ですでに異変が起きていないか調査したかっただけです」
「それこそ法理で調べられるだろ。下らねえ『見惚れよ』なんかよりもっと効率のいい法理がよ」
「へぇ、上等な『見惚れよ』をご所望ですか?――」
ブブブブッ。リリスの右手に持っていたスマホが震えた。着信があったようだ。携帯を耳元に当てて、リリスですと名乗っている。
誰からだ? 日本の鏡会支部からなら携帯なんてしち面倒くさいことはせずに念波を飛ばすはずだ。まさか本部からか? こちらに背を向け口元に手をあててコソコソと話すものだから内容が聞こえない。
リリスは通話を終えるとこちらに素早く向き直り、慌ただしく捲し立てた。
「ごめんなさいルガール、ちょっと急用ができたからロンドンへ飛んできます。その間に街で空間が歪んでいるところを探しといてもらえますか? 但し首を突っ込みすぎないように。あと昼ごはんなんですが、秘密基地の洗面台の上の棚の中にドッグフードがあるからそれを食べてください。まあ間違って買ってしまったので正確にはキャットフードなんですけど、似たようなもんですよね!」
早口でとんでもないことを言いやがる。
喋りながらもリリスは赤い魔法理の書かれた黒い手袋を両手にはめ、即座にペットキャリーを転送し、代わりに箒を左手に呼び寄せていた。リリスが箒に跨り、目を瞑ると、リリスの同心円状に風の波が噴き出した。足が数センチ地から離れる。灰色の髪が風に煽られ逆巻く。
風を顔面にもろにくらいながらもリリスを呼びとめようとした。
「おい待てリリス!」
「1週間くらいで戻ります!」
「話を――」
リリスは透明化と高速化の呪文を簡易詠唱した。
次の瞬間、大きな風がうねり、俺は近くのポリバケツまで吹っ飛ばされた。急いで起き上がった時には、もうリリスが飛び去った後だった。
愛犬パピーを連れて湯ノ石公園を散歩することが、大田光代の早朝の日課となっていた。東口から入り、公園を囲うように存在する池を脇に見つつ、ぐるりと一周する。先週降り続いた雨のせいで桜はすっかり散ってしまっていたが、今は新緑の木漏れ日が心地よい。なにより連日の花見客の喧騒が洗い流されたことに光代は満足していた。
この時間帯は光代のよく見知った顔にしか出会わない。朝のジョギングをする老夫婦と柴犬を連れ歩く中年の男、トイレ裏にこっそり猫缶を置いていく腰の曲がった老婆。
だからこそ池脇の公園のベンチに若い女性が座っていたとき、光代は歩みを緩めしげしげと見つめてしまった。
灰色のウエーブのかかった長髪、白い肌。黒のチノパンを履いており、ベージュ色のロングコートを羽織っている。マスクを口につけており、口元は見えないが携帯電話で話しているのだろうか、微かに話し声が聞こえ、それに呼応してマスクが動いている。ベンチの足元に灰色のペットキャリ―バッグが置いてある。肝心の犬の姿は光代の位置からは見えなかった。
電話で話しているところを話しかけることもあるまいと、美千代はそのままベンチの前を通り過ぎようとする。
「おはようございます」
驚いたことにその女性の方から話しかけてきた。光代も慌てて挨拶を返す。パピーがワン、と女性の左側に向かって吠える。先ほどは見えなかったが、チワワのような灰色の小型犬が女性の左側に気だるげに伏せていた。
「可愛らしい子ですね。ラブラドールですか?」
その女性はパピーの前に腰をおろしながら光代に話しかける。人懐っこいパピーは尻尾を振りながらそれに応える。
「ええ。そちらのワンちゃんも、その……可愛らしく」
光代が言い淀む。お世辞にもその犬が可愛いとは言い難かったからだ。小型犬ながら大きく尖った耳や首筋のふさふさの白い毛は立派なものだったが、目つきは悪く、申し訳程度の四足も酷くみすぼらしい。なにより光代はこのエセチワワの発する生意気な雰囲気が気に入らなかった。小型犬らしい舌を出すような仕草を一切せず、こちらを品定めするように一瞥した後、興味は尽きたといわんばかりに耳の裏を掻き始めた。
「よしよし。あなたはパピーというのですね」
女性は首輪に書かれているネームを確認しながら、パピーの首の裏を掻いている。
光代はむしろ女性の可憐さに目を奪われていた。年は光代より干支二回り分は下だろう。パピーを撫でる仕草一つ一つが繊細でありながら、全身からみなぎる活力は、陽だまりを駆け回る少女たちのように煌めいていた。
そして、宝石のような水色の瞳。その瞳に見つめられると、きらきらと靄が包んでいるような錯覚に陥る。
光代は咳ばらいをし、女性に話しかける
「失礼ですけど、この辺に住んでいるお方?」
「つい先日こちらに引っ越してきたんです。以前はロンドンにおりまして」
「あら、通りで見たことないと思った。へぇ、イギリスから」
女性は立ち上がる。光代の目線が女性の顎の高さになる。光代が平均身長より少し低い程度なので、女性にしては大柄なほうだろう。
女性は小さくお辞儀しながら名乗る。
「リリス・サリヴァンです。東町の方に越してきました。この子は相棒のルガール」
「あらあらこれはご丁寧に。大田光代です。日本語がお上手ね~。私よりうまいんじゃないの」
リリスは苦笑しながら答える。
「親戚に日本人がおりまして。幼いころから日本語は聞いていたんですよ。散歩中にいきなり話しかけてすみません。その子があんまり可愛いものだから」
「あら、あなたにもこの子の可愛さが分かる?」
眼鏡を光らせる。愛犬の自慢となれば普段の十倍口が回るのが光代だ。普段からおしゃべり好きなのにこれ以上まくしたてられるのは勘弁、と知人からは犬の話題を振られなくなっていた。これ幸いと舌が回る。
「この子と出会ったのは三年前の梅雨の時期でね、一番上の娘が地方の国公立大学に行ってね。家が少し広くなっちゃって、なんか寂しいな~なんて考えてるときに王街道のペットショップの前を通って、何気なくショーケースを見たの。そしたらこの子がいたのよ! まだ小さかったけど今に勝らぬ愛くるしさでね、上目づかいで見つめてくるのよ。私一目ぼれしちゃって! この子ったら本っっっっ当にお利口さんになの。私が抱きしめるとキャンキャン吠えて喜んでくれるのよ~。そうそう聞いて、この間なんか――」
「おいおばさん、その辺にしておけよ」
この場に似つかわしくない青年の制止の声に、光代は口を閉じた。光代は周りを見渡すもそれらしい姿はない。池に鴨の親子が泳ぎ、パピーは、ベンチの方をじっと見ている。リリスの飼い犬は相変わらずふてぶてしい顔でこちらを見つめている。
「――今誰か男性の声がしませんでした?」
「……気のせいじゃないですか、この場には私たちしかいないですし」
リリスは子犬の座るベンチの方へにじり寄って行く。
その行為に気付かない光代は辺りを見渡しながら眉根を寄せる。
「変ねぇ。確かに誰かが――」
「俺だよ俺。年食い過ぎて耳が遠くなっちまったのか?」
光代は驚愕する。ルガールが、ベンチの上の子犬が喋った。ように見えた。
そんな馬鹿な。半笑いのまま凝視していると、ルガールはため息をついて喋り始めた。
「おいおいそんなアホ面すんなよ、死んだ時と区別がつかなくなるだろうが。だいたいあんた、さっきその犬に上目遣いされたの~とか言ってたけどな、その犬が本当に見つめていたのはその横を通り過ぎていった巨乳のねえちゃんだよ。あんたみたいなおばさんに媚なんざ売るわけねぇだろ。あと抱きしめると吠えて喜ぶなんてのも、あんたのどぎつい香水に死にかけていただけだ。その犬も随分参ってるぜ。それとこれは俺の個人的なアドバイスなんだが、その悪魔じみた目もとの化粧はやめ――」
「『飛べ』」
リリスの短い発声とともに、光代の前でベンチが爆発した。光代が悲鳴をあげてその場にしゃがみ込んでいる間に、ベンチは固定していたコンクリートごと地中から引き摺り出され、ルガールと幾ばくかの土が綿毛のように宙に舞っていた。重力を忘れたように空にふわりと浮かぶ。
「『お座り』」
瞬間、塵一つ残さずすべてが地面に叩きつけられた。鈍く重い音が響く。洋風の洒落たベンチは木の座板が真っ二つに割られ、鉄製の足は水飴のように容易く捻じ曲がった。ルガールは地面にめり込み、微動だにしない。
しばらくの間、光代はその場に丸まったまま動けなかった。
「太田さん?」
光代の肩に手が置かれる。恐る恐る顔を上げると、リリスがこちらを見下ろしていた。
「……また失敗か」
リリスから先ほどまでの愛くるしい笑顔は去り、ひどく冷たい目を突きつけてきた。子どもが興味なくしたおもちゃを差し出されたときの表情に似ていた。リリスは、すでに光代に価値を見出していなかった。
感情の消え失せた顔でさえ美しいと思わせるとは、やはりよほどの美人なのだな、と場違いだと思いながらも光代は感嘆せざるをえなかった。
リリスはおもむろに細い右手を光代の目の先へ突き出す。
光代が最後に認識したのはリリスの右手の中指と。
「『忘却の地平線へ』」
訳のわからぬ言語であった。
*
「あなたは今日普段通り散歩していただけで特に何の変哲もなく、ましてや喋る犬や美女になんて会っていない。あなたはこれから家路に着くまで後ろを振り向かずに歩く」
「私は今日普段通り散歩していただけで特に何の変哲もなく、ましてや喋る犬や美女になんて会っていない。私はこれから家路に着くまで後ろを振り向かずに歩く」
うつろな目をした大田光代はリリスの言葉を復唱し終えた後、すたすたと歩き始めた。パピーは怯えたように後ろを振り返りながらも、御主人に遅れぬように歩く。
リリスはパピーに申し訳ないと顔の前で手を合わせた後、地面にめり込んでううんと唸っている子犬の首根っこを引っつかみ、乱雑にペットキャリーに放り込んだ。脇に転がるベンチを一瞥し、はあと大きなため息をついた後、大田光代と反対方向を向く。歩きだすと同時に右腕をあげ、パチンッ、と指を鳴らした。
空気が震える。ベンチがゆっくりと宙に浮き、元あった場所へ動きだした。砕かれ捻じ曲がったベンチの部位は再生し、土台のコンクリートが地面の下に埋まり、抉れた土も平らになるようモゾモゾとまるで生物のように土が移動する。
数分後、ジョギングをする老夫婦が通るころには、なに一つ変わらぬ公園の姿があった。
【次元の魔女】
「毎回言っているでしょうルガール。その姿のときは喋るなって」
とある路地裏。リリス・サリヴァンは腕を組みながら足元の子犬に話している。通風機や壁を這う管がこの町の窮屈さを物語っている。ハエのたかるポリバケツや目の高さに蜘蛛たちの巣があり、通路としてここを使う人はそういない。コソコソ話すには好都合の場所だが、リリスとしてもこんなところに長居はしたくない。
「どうしてあなたは考えるより先に口が出るんでしょうね?」
「キャンキャン」
「せっかくこのあたりの情報網を作り上げようとしているのに」
「クゥ~ン」
「毎回余分に幻力を使わないといけない私の身にもなってほしいです」
「ヘッヘッヘッヘッヘ」
「とにかくもっと犬らしく振舞ってください。わかりましたか?」
「ウ~ッワン!」
「……ルガール、今だけは言語を話してもいいです」
「おっ、そうだったのかい? いやなに、こんな汚ねぇ場所に連れてこられたから、俺ァてっきり今度はみすぼらしい捨て犬の真似をしなくちゃぁいけねぇのかと思ってよ」
「……」
「いやしかしなかなか板についてただろ? 俺のみすぼらしい子犬の演技は。なにせここ最近ずぅ~っと、哀れで惨めな子犬の姿のまんまだったからなぁ!」
リリスは右手で眉間を揉みほぐす。ルガールは明らかにご立腹だ。プルプルと震える口角を見れば一目瞭然だった。苛立っているのはリリスとて同じことだったが癇癪を起こすわけにはいかない。ルガール自身には詳しく伝えていないが、これからやろうとしている任務には、ルガールの存在がかかせないのだ。その辺の野良犬でいいというものではない。ないはずだ。多分。
リリスは怒らせないように、今までにないほど優しくルガールに話しかけた。
「ルガール、そんなに子犬でいるのが嫌ですか?」
「嫌かだと? 子犬でいるのが嫌かだと!」
だがそれが逆にルガールの逆鱗に触れた。
「糞ガキどもに追い回され、大型犬に吠え散らかされ、そんな生活が嫌かだと? 嫌に決まってんだろうが! 仕事だったら我慢できるってんならお前が犬に変身すればいい。そうすりゃ少しは俺の苦労も分かるだろうよ!」
「私はそういう意味で言ったわけじゃ――」
「この際だからハッキリさせようじゃねえか。なんで俺だけがこんな目にあってるんだ? 別にお前が犬役でもいいだろうが。まさかお前がやりたくないだけってんじゃねえだろうな」
「そういうわけじゃないですよ」
そういうわけだった。
「というかその点に関しては何度も話したでしょう」
面倒くさくなったリリスは、思わず彼が嫌いな言葉を吐いてしまった。
「いいじゃない。ルガールは狼男なんだから。犬になるなんてお手の物でしょう?」
【犬っころ】
気に食わない。まったくもって気に食わない。
この目の前の女は、犬と狼を同じもんだと思っていやがる。俺がいくら懇切丁寧に犬と狼は別物だと説明しようとしても、まあ落ち着きなさいよ、ドッグフードをあげますからと返すような女だ。ドッグフードなんざ誰が食してやるもんか。
法理師ってやつは大概こうだ。自分たちがこの世界の秩序を守っているからと無意識に高慢ちきな奴が多い。
「あのな、リリス。誇り高き狼とその辺の犬っころとでは天と地の差があってだな――」
「私たちからすれば似たようなものですよ。ただの人間を犬にするのと、ルガールみたいな狼男を犬にするのとでは法理の容易さも違うし、消費する幻力も変わってくる。あなたも多少法理をかじっているんだからわかるでしょう?」
正論に少し怯む。俺には狼の血が流れているだけあって、犬に変化する法理の計算量は通常の半分以下でよいはずだ。その分幻力消費も抑えられる。
それにしたってだ。
「なんでこんなできそこないのハスキー犬みたいにならなきゃならないんだ?」
我ながら可愛いとも、ましてやかっこいいともいえない姿だった。尖った耳や頭から背中に伸びる白い毛はまだいい。問題は頭部以外だ。まずどう考えても比率がおかしい。頭がでかすぎるのか、体が貧弱すぎるのか、三頭身もないんじゃねぇか? 首周りのふさふさの毛も戦闘では邪魔にしかならない。極めつけは四つ足で、酷く貧相で軽いはずの体を支えるのにも苦労し、すぐにプルプル震えてくる。
「もっと狼らしさを出してもいいだろうが」
「今回は潜入調査も視野に入れています。怖い顔をしていたらターゲットに近づけません」
「こんなにみすぼらしいと誰も近づかねえよ。もうチョイ立派にできなかったのかよ」
「そこはまあ、幻力削減の弊害ってやつですね」
他人事のように言いやがる。実際他人事、犬事って感覚なんだろう。
「だったらこの首回りの毛の分の幻力をほかに回せよ。なんでここだけこんなフサフサなんだ?」
「だってそのほうが可愛いですし」
駄目だこりゃ。俺は天を仰いだ。灰色の壁に挟まれる形で水色の空が窮屈そうに見える。ドイツの空のほうが広く、なにより青かったはずだ。
なんだって俺はこんなところに来ちまったのか。半月前の自分の考えの浅はかさを恨む。
*
悪くない仕事だと思った。リリスから今回の話を持ちかけられたのは雪の降りしきるケルンの喫茶店だった。俺はアルゼンチンでの長期出張から帰ったばかりでしばらくは馴染みあるケルンに滞在するつもりだった。
ドイツ人の盛況を懐かしく思いつつ、のんびりコーヒーを飲んでいるときに――ちなみにこのときは青年の姿だ。犬の姿じゃないのであしからず――リリスが店に入ってきた。俺は久しぶりの仲間に喜び、隣の席に招き入れた。思えばここで無視しときゃよかったんだな。
「日本で仕事をするつもりはありませんか?」
リリスはひとしきり談笑した後こう切り出した。仕事内容は端的に言っちまえば、ニンゲン――俺たちのことをなにも知らないお気楽な種族――家庭への潜入及びその周囲で起こるであろう異変への索敵・処理だ。普段俺がやっていることとそう違いはない。
「ただ規模が違うんですよね」
リリスはホットコーヒーにミルクをかき混ぜながら話す。少し憂いを含んだようにカップに目を落とす仕草は並みの男なら手を差し伸べざるを得ないだろう。
「今回の事件、起こってしまうと第三級事変に認定されそうなんです。前々からその怪奇の予言はされていたんですけど、法理鏡会の本部も後回しにしていたらしく……。ほら、予言したのがドイツのヴェルナーで――そうそう世紀末派の――それでどうせ今回もホラだろうと高をくくっていたんですけど」
「本当かもってか」
リリスは、はあ、とため息をつく。
「万象法廷で認定されてしまうと、責められるのは私たち法理鏡会でしょう? 今まで何していたんだって。せっかくノストラダムス事変で失墜していた世紀末派やそれを支援している新世紀派が復権するのをお偉いさん方は恐れているらしくて」
「それでその異変が起こっちまう前に秘密裏に片付けちまおうって算段か。いかにも落ち目鏡会の考えそうなこったな」
それなりの皮肉を込めたつもりだったが、リリスは特に気にかけるでもなくコーヒーを口に含む。俺が鏡会に好印象をもっていないことを矯正するつもりはないようだ。
「境会が失墜しようがどうでもいいんですが、今は恩を売っておきたい事情があるんですよ」
「そんな重要な仕事をどうして俺に回してくるんだ? 自慢にもならないが俺が最後にした仕事は、引っ込み思案なチュパカブラに牧場を襲うことの意義について力説することだったんだぜ? いきなりハードル上がりすぎじゃねえか?」
「重要な仕事だからこそあなたに頼みたいんですよ。いくら有能でもクラッチゲームでフリースローを決められないような人じゃダメ。ここ一番で目を瞑ってでもボールをリングに吸い込ませるような人材が欲しいんです」
これは納得せざるを得ない。最近の幻魔どもは実戦経験が少ないせいでいざという時の判断力に欠ける。なにが起こるか分からない今回のような場合俺のような経験豊富な存在を欲しがるのも無理はない。
「鏡会が出す法理師よりあなたとのほうが連携がとりやすいでしょうし」
これにも同意。境会が推薦してくる傭兵は大抵ろくな奴はいない。以前ギリシャの隠し神殿でミノタウルス狩りを命じられた時、あろうことかメデューサと組ませやがった。迷宮で連携を取れとのことだったがとんでもない。俺は奴が角からひょっこり顔を出すたびに石像にされたもんだ。
「それにね、ルガール」
リリスはウェーブのかかった髪をかき上げつつこちらを向く。
「やっぱり遠い東亜の国で寂しい思いはしたくないです。一人ぼっちは、もうこりごり」
どこか寂しそうな笑みを浮かべながらリリスは言った。寒さからか頬がほのかに赤らんでおり、水色の瞳が宝石のように輝いている。
ここまで言われたら仕方ないと俺は二つ返事で承諾した。
それにしてもあの日のリリスは綺麗だった。キラキラと輝き、まるで魔法にかけられたような――。
*
「思い出したぞ!」
回想終了。俺が突然叫ぶもんだから、近くにいたネズミが慌てて逃げかえった。
「お前、あの時俺に『見惚れよ』の法理を使いやがったな!」
「……『見惚れよ』? 法理? なんですか、それは」
「とぼけんじゃねえ! 変だと思ったんだ。潜入方法だのを承諾したことだけ覚えていても、その経緯が靄にかかったように記憶をうまくたどれない。思い出せるのはお前の顔だけ。今朝あのおばさんに使っているときに気付くべきだったぜ」
「別に些細なことでしょう。法理なんて使わなくったって私は充分魅力的なんですし」
「お前が魅力的? 冗談はよしてくれ。将来有望な幻魔を片っ端から屈服させて愉悦してるような性悪が!」
「その性悪に鼻の下を伸ばしていたの誰ですか?」
リリスはふんと鼻を鳴らす。
「ルガールって本当に精神系法理に弱いですよね。セイレーンの雫事件のときも、政府重役ポルターガイスト事件のときも、ピンクの雌プードルスパイ事件のときも――」
「ピンクの雌プードルのことは忘れろって言ってんだろうが……!」
「愛しのクローイに教えてあげたらなんて言うでしょうね。ピンキーちゃんでしたっけ? あのときの雌プードル」
「パンキーだ――んなことはどうでもいいんだよ、やめろ、連絡しようとすんな!」
スマホを取り出したリリスに声を荒げる。こいつ、いつまで俺の弱みを覚えてやがる。もう取り繕うことに飽きて、俺をもてあそぶ方向にシフトしてきたらしい。
「ごめんなさい、なんの話でしたっけ?」
「だから今日のおばばといい、仕事となんの関係もない会話に何の意味があるんだよ?」
「意味なんて必要ですか? 朝のさわやかな挨拶に」
「なにがさわやかな挨拶だ。お前だって今朝、早く終わってくれよこのおばさんの話とか思ってたんじゃないのかよ」
「さっさと終わらないかな、この凡夫の駄弁と思っていました」
俺より酷いじゃねえか。
「しかしですよ、ルガール。思っていても私は口に出すことはしません。公園での会話はこの辺ですでに異変が起きていないか調査したかっただけです」
「それこそ法理で調べられるだろ。下らねえ『見惚れよ』なんかよりもっと効率のいい法理がよ」
「へぇ、上等な『見惚れよ』をご所望ですか?――」
ブブブブッ。リリスの右手に持っていたスマホが震えた。着信があったようだ。携帯を耳元に当てて、リリスですと名乗っている。
誰からだ? 日本の鏡会支部からなら携帯なんてしち面倒くさいことはせずに念波を飛ばすはずだ。まさか本部からか? こちらに背を向け口元に手をあててコソコソと話すものだから内容が聞こえない。
リリスは通話を終えるとこちらに素早く向き直り、慌ただしく捲し立てた。
「ごめんなさいルガール、ちょっと急用ができたからロンドンへ飛んできます。その間に街で空間が歪んでいるところを探しといてもらえますか? 但し首を突っ込みすぎないように。あと昼ごはんなんですが、秘密基地の洗面台の上の棚の中にドッグフードがあるからそれを食べてください。まあ間違って買ってしまったので正確にはキャットフードなんですけど、似たようなもんですよね!」
早口でとんでもないことを言いやがる。
喋りながらもリリスは赤い魔法理の書かれた黒い手袋を両手にはめ、即座にペットキャリーを転送し、代わりに箒を左手に呼び寄せていた。リリスが箒に跨り、目を瞑ると、リリスの同心円状に風の波が噴き出した。足が数センチ地から離れる。灰色の髪が風に煽られ逆巻く。
風を顔面にもろにくらいながらもリリスを呼びとめようとした。
「おい待てリリス!」
「1週間くらいで戻ります!」
「話を――」
リリスは透明化と高速化の呪文を簡易詠唱した。
次の瞬間、大きな風がうねり、俺は近くのポリバケツまで吹っ飛ばされた。急いで起き上がった時には、もうリリスが飛び去った後だった。
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