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前日譚
さしのべられた手を取る
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「……言い訳くらい、したらどうなの」
ぽそっと言ったあとの唇が尖っている。それもとてもかわいらしかったが、ラウルは我に返った。
「ええと、あの人達は情報収集に必要だから、話しかけていたわけでして、いや、もちろん、これから長くあそこに潜入するのに、良好な人間関係を築いておかなければならないというのもあったわけですけれども」
「ほら、ごらんなさい。やはりわたくしに飽きたのではないの」
「ええ!? どうしてそうなるんですか、そのようなことはけっして」
「だって、長く潜入するつもりだと言ったではないの。それは、もうこちらに帰ってくるつもりがないということでしょう? わたくしだって、間諜の仕事がどんなものか知っています。縁があれば現地の女性と結婚して、まるきりそこの住人になりきると聞いています」
「いやー、私は人は好いけどへらへらした頼りない無害な男で売っているので、結婚相手としては見られません」
それが一番、ラウルの容姿とあいまって、女性に警戒心を抱かせず、同じ男からも敵視されない人物像だった。荒事が好きではない彼としても、無理なく演じられるというのもある。
彼自身、もう自分の元の性格がどんなものだったか、すっかりわからなくなっている。
教会の孤児院でも、他の孤児からは距離を置かれていたし、それは親代わりの神父以外の大人も同じだった。うまく人の輪に馴染めない。社会に出てからも。だからラウルは、いつも人の顔色を窺って、生きていくために輪の端っこには置いてもらえるよう、求められる役を演じ続けてきた。
「そんなのは、わからないではないの。わたくしみたいに、あなたの良さに気付いてしまう女性だって、現れてしまうかもしれなくてよ」
「ありえませんよ」
ラウルは、ふと気付いて、笑って言った。自分がありのままで居られる時があったと、思いあたったのだ。それは、この人とキリムの盤を挟んで向かい合った時。
そして彼女は、ラウルの描くその世界が好きだと言ってくれたのだ。嘘もごまかしも利かず、すべてをさらして築き上げた世界を。
「どうしてそんなことが言えるの」
お嬢様は、キッとラウルを睨みつけ、ピシャリと言った。ラウルが笑って取り合わなかったのが、気に入らなかったのだ。
「私もわからなくなった俺、……私のことを知っているのは、お嬢様だけですから」
彼女が目を見開く。でも、意味を図りかねて何も言い返せず、瞳が揺れるのに、ラウルはまた笑った。
「私はキリムの中でだけ、素の自分で居られるので」
お嬢様が息を呑む。そして、泣きそうに顔を歪めて、叫んだ。
「な、なによ、なによ、なによ! でしたら、どうしてどこかへ行ってしまおうとするの!」
「そうは仰っても、侯爵閣下がお許しにはならないでしょう。……たとえそうではあっても、私はお嬢様のために侯爵家にお仕えいたしますので。それでお許し願えないでしょうか」
「お父様は、お許しになっているわ! 傷物にした責任を取ってもらうと、仰ったでしょう!?」
今度はラウルが目を見開く番だった。
「は? いえ、それは、命だけは見逃してやるから、侯爵家の役に立てということでは……」
「もちろんでしてよ。死ぬまでわたくしのため、ひいては侯爵家のために働いてもらうということですわ。……お父様にあの報告書を見せられた時の、わたくしの気持ちがわかって? ほら、逃げられてしまいそうだよと、ニヤニヤ笑って言われましたのよ!」
あの厳格そうな侯爵が、娘をそんなふうにからかう――焚きつける――と聞き、ラウルは本当に驚いたのだった。地位も権力も金も手にしている、恐ろしいお貴族様としか見えていなかったから。
いや、それで正解なのだ。それは娘相手だから。他人が舐めてかかれば、まさにイメージどおりにひねり潰されただろう。
「ラウル、わたくしの望みをなんなりと叶えてくれると言ったわね?」
「……はい」
ためらいがちに返事する。ラウルの意図とは違うものを望まれそうで――それがお嬢様にとって確かに良いことなのか、わからなくて。
お嬢様は毅然と、優雅な仕草でラウルへと手をさしのべた。
「でしたら、あなたがどれだけわたくしを愛しているか、教えてちょうだい」
ラウルは迷う瞳で彼女を見返した。けれど彼女は、揺るがぬ視線で彼をとらえて、手をさしのべ続ける。……これがわたくしの意思なのだと。
やがて彼は目を伏せると、そっと手をつかみ、甲へと口づけた。
「ラウル」
お嬢様は微笑んで、彼の手を握り返して、引き寄せた。ゆっくり腰を上げる彼の首に、腕をまわしてすがりつく。
「……お嬢様」
「レオノーラと呼んでって、言ったでしょう?」
「レオノーラ」
ラウルは溜息のように呼んで、彼女の頭をかき抱いた。強く抱きしめ、こらえがたくて、愛しい彼女の頭に頬をこすりつける。
「ずっと、ずっと、こうしたかったの」
そう囁いて顔を上げた彼女が、ラウルと見つめ合ってから目をつぶった。ラウルは誘われるままに、その唇に口づけた。
ぽそっと言ったあとの唇が尖っている。それもとてもかわいらしかったが、ラウルは我に返った。
「ええと、あの人達は情報収集に必要だから、話しかけていたわけでして、いや、もちろん、これから長くあそこに潜入するのに、良好な人間関係を築いておかなければならないというのもあったわけですけれども」
「ほら、ごらんなさい。やはりわたくしに飽きたのではないの」
「ええ!? どうしてそうなるんですか、そのようなことはけっして」
「だって、長く潜入するつもりだと言ったではないの。それは、もうこちらに帰ってくるつもりがないということでしょう? わたくしだって、間諜の仕事がどんなものか知っています。縁があれば現地の女性と結婚して、まるきりそこの住人になりきると聞いています」
「いやー、私は人は好いけどへらへらした頼りない無害な男で売っているので、結婚相手としては見られません」
それが一番、ラウルの容姿とあいまって、女性に警戒心を抱かせず、同じ男からも敵視されない人物像だった。荒事が好きではない彼としても、無理なく演じられるというのもある。
彼自身、もう自分の元の性格がどんなものだったか、すっかりわからなくなっている。
教会の孤児院でも、他の孤児からは距離を置かれていたし、それは親代わりの神父以外の大人も同じだった。うまく人の輪に馴染めない。社会に出てからも。だからラウルは、いつも人の顔色を窺って、生きていくために輪の端っこには置いてもらえるよう、求められる役を演じ続けてきた。
「そんなのは、わからないではないの。わたくしみたいに、あなたの良さに気付いてしまう女性だって、現れてしまうかもしれなくてよ」
「ありえませんよ」
ラウルは、ふと気付いて、笑って言った。自分がありのままで居られる時があったと、思いあたったのだ。それは、この人とキリムの盤を挟んで向かい合った時。
そして彼女は、ラウルの描くその世界が好きだと言ってくれたのだ。嘘もごまかしも利かず、すべてをさらして築き上げた世界を。
「どうしてそんなことが言えるの」
お嬢様は、キッとラウルを睨みつけ、ピシャリと言った。ラウルが笑って取り合わなかったのが、気に入らなかったのだ。
「私もわからなくなった俺、……私のことを知っているのは、お嬢様だけですから」
彼女が目を見開く。でも、意味を図りかねて何も言い返せず、瞳が揺れるのに、ラウルはまた笑った。
「私はキリムの中でだけ、素の自分で居られるので」
お嬢様が息を呑む。そして、泣きそうに顔を歪めて、叫んだ。
「な、なによ、なによ、なによ! でしたら、どうしてどこかへ行ってしまおうとするの!」
「そうは仰っても、侯爵閣下がお許しにはならないでしょう。……たとえそうではあっても、私はお嬢様のために侯爵家にお仕えいたしますので。それでお許し願えないでしょうか」
「お父様は、お許しになっているわ! 傷物にした責任を取ってもらうと、仰ったでしょう!?」
今度はラウルが目を見開く番だった。
「は? いえ、それは、命だけは見逃してやるから、侯爵家の役に立てということでは……」
「もちろんでしてよ。死ぬまでわたくしのため、ひいては侯爵家のために働いてもらうということですわ。……お父様にあの報告書を見せられた時の、わたくしの気持ちがわかって? ほら、逃げられてしまいそうだよと、ニヤニヤ笑って言われましたのよ!」
あの厳格そうな侯爵が、娘をそんなふうにからかう――焚きつける――と聞き、ラウルは本当に驚いたのだった。地位も権力も金も手にしている、恐ろしいお貴族様としか見えていなかったから。
いや、それで正解なのだ。それは娘相手だから。他人が舐めてかかれば、まさにイメージどおりにひねり潰されただろう。
「ラウル、わたくしの望みをなんなりと叶えてくれると言ったわね?」
「……はい」
ためらいがちに返事する。ラウルの意図とは違うものを望まれそうで――それがお嬢様にとって確かに良いことなのか、わからなくて。
お嬢様は毅然と、優雅な仕草でラウルへと手をさしのべた。
「でしたら、あなたがどれだけわたくしを愛しているか、教えてちょうだい」
ラウルは迷う瞳で彼女を見返した。けれど彼女は、揺るがぬ視線で彼をとらえて、手をさしのべ続ける。……これがわたくしの意思なのだと。
やがて彼は目を伏せると、そっと手をつかみ、甲へと口づけた。
「ラウル」
お嬢様は微笑んで、彼の手を握り返して、引き寄せた。ゆっくり腰を上げる彼の首に、腕をまわしてすがりつく。
「……お嬢様」
「レオノーラと呼んでって、言ったでしょう?」
「レオノーラ」
ラウルは溜息のように呼んで、彼女の頭をかき抱いた。強く抱きしめ、こらえがたくて、愛しい彼女の頭に頬をこすりつける。
「ずっと、ずっと、こうしたかったの」
そう囁いて顔を上げた彼女が、ラウルと見つめ合ってから目をつぶった。ラウルは誘われるままに、その唇に口づけた。
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