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第五章 平穏は、ほど遠く
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今夜の殿下は、一人でタリアを弄っていた。本を片手に、コツン、コツン、と駒を置く音が静かな室内に響いていた。
少々疲れ気味ではあるようだが、特に問題はなく、一つ気掛かりといえば、目が冴えてしまっているようであることだった。
そもそもタリアなど、寝る前にやるべきものではない。だが、手慰みにやっているものを、やめるように進言するのも無粋だし、なにより局面が詰まっていて、これではベッドに入っても、展開が気になってよけいに眠れないだろう。
ソランの視線に気付いたらしく、殿下は本の表紙を見せてくれた。
「エンラッドの名対局集だ」
エンラッドは百年ほど前の名人だ。彼の特徴は勝つことではなく、負けないことにある。だから往々にして、今ここに展開されているような、詰まって硬直した局面に至ることが多い。不敗であったと言われているが、引き分けが多かったことでも有名だ。
「おまえなら、どうする?」
「手前側でよろしいのですか?」
「うん。では、こうするか」
殿下はそっと盤を回した。今まで殿下側にあった方をソランに向けたのだ。
「勝てばよろしいので?」
「ああ」
ソランはもう一度局面を確認し、騎士の駒を前に進めた。敵王に肉薄する。だがそれはすぐに次の殿下の番で討ち取られた。進んでは敵を屠りながらも討ち取られるそれは、実際の戦場だったならば、凄惨な消耗戦であっただろう。
しかしソランは怯まずに殿下方の守りを切り崩し、王手を詰んだ。お互いの手元には片手の数の駒しか残ってない、酷い対局だった。
「本当にこれをやるつもりか」
殿下は険しい顔で盤上を見ていた。
「勝てと仰ったので」
目を上げ、ソランを眉を顰めて見る。
「それに、ただのゲームにございます」
殿下は目をそらし、苛立たしげに息を吐いた。そして、かいた胡坐に頬杖をつき、何事か考えこみはじめる。ソランはしばらく傍で控えていたが、もうよかろうと、にじり下がろうとした。
「ソラン」
名を呼ばれたために、ソランは動きを止めた。殿下は体を起し、ソランに視線を向けた。
「マルティーク・トレドとは、ずいぶん親しくなったようだな」
「はい」
「おまえときたら、呼んでも来ないで、いったい何を話していた」
「王都は不案内だろうから、非番の日に遊びに連れて行ってくれると誘ってくれました」
「非番、か」
殿下はソランに目を留めたまま、考えている様子だった。
「さすがに閉じ込めておくわけにはいかんか」
「私はかまいませんが、イアルには休みをやってください。待っている家族がいますから」
「王都で行ってみたい所はないのか」
「ええ、まあ、隅々まで歩いて地図を作ってはみたいですが。排水施設もまだ見てないですし」
「またそれか」
笑われる。
「もちろん市場で市場調査もしたいです」
「調査?」
「はい。売れ筋とか、どんな人達が来て、どんなものを必要としているとか」
「おまえはそんなことばかり言っているな。金儲けにでも興味があるのか」
「はい。領民を養うにはお金がいりますから」
「普通は反対だろう。領民から税を集めるのだ」
「はい。ですが、領地を富ませるのも領主の仕事です」
殿下は黙りこんだ。やがて苦笑し、また頬杖をついた。姿勢が変わって視界に入ったのだろう、盤上の駒を一つ、指でつついて倒した。
「おまえの領民はさぞかし幸せであろうな」
また一つ倒す。ソランは駒に重ねて見てしまった痛みに、唇を引き結んだ。
「はい。そうあれるようになるのが、私の義務です」
少し固い口調で答えた。殿下はまたソランを見た。手を伸ばし、指でソランの顎に触れる。それからなぜか、鼻をつまんだ。
「あのリリア・コランティアでさえ、守りきれなかったものがある。両手で抱えられるものには限界がある。……それを心に留めておけ」
鼻を離され、思わず息を止めていたソランは、大きく息を吸った。気になって、鼻を擦る。
殿下はクスクスと笑い、もう下がってよいと言った。
「おやすみなさいませ」
そう挨拶したソランに頷き、殿下は盤上から下ろされた駒を拾って、もう一度並べはじめた。
少々疲れ気味ではあるようだが、特に問題はなく、一つ気掛かりといえば、目が冴えてしまっているようであることだった。
そもそもタリアなど、寝る前にやるべきものではない。だが、手慰みにやっているものを、やめるように進言するのも無粋だし、なにより局面が詰まっていて、これではベッドに入っても、展開が気になってよけいに眠れないだろう。
ソランの視線に気付いたらしく、殿下は本の表紙を見せてくれた。
「エンラッドの名対局集だ」
エンラッドは百年ほど前の名人だ。彼の特徴は勝つことではなく、負けないことにある。だから往々にして、今ここに展開されているような、詰まって硬直した局面に至ることが多い。不敗であったと言われているが、引き分けが多かったことでも有名だ。
「おまえなら、どうする?」
「手前側でよろしいのですか?」
「うん。では、こうするか」
殿下はそっと盤を回した。今まで殿下側にあった方をソランに向けたのだ。
「勝てばよろしいので?」
「ああ」
ソランはもう一度局面を確認し、騎士の駒を前に進めた。敵王に肉薄する。だがそれはすぐに次の殿下の番で討ち取られた。進んでは敵を屠りながらも討ち取られるそれは、実際の戦場だったならば、凄惨な消耗戦であっただろう。
しかしソランは怯まずに殿下方の守りを切り崩し、王手を詰んだ。お互いの手元には片手の数の駒しか残ってない、酷い対局だった。
「本当にこれをやるつもりか」
殿下は険しい顔で盤上を見ていた。
「勝てと仰ったので」
目を上げ、ソランを眉を顰めて見る。
「それに、ただのゲームにございます」
殿下は目をそらし、苛立たしげに息を吐いた。そして、かいた胡坐に頬杖をつき、何事か考えこみはじめる。ソランはしばらく傍で控えていたが、もうよかろうと、にじり下がろうとした。
「ソラン」
名を呼ばれたために、ソランは動きを止めた。殿下は体を起し、ソランに視線を向けた。
「マルティーク・トレドとは、ずいぶん親しくなったようだな」
「はい」
「おまえときたら、呼んでも来ないで、いったい何を話していた」
「王都は不案内だろうから、非番の日に遊びに連れて行ってくれると誘ってくれました」
「非番、か」
殿下はソランに目を留めたまま、考えている様子だった。
「さすがに閉じ込めておくわけにはいかんか」
「私はかまいませんが、イアルには休みをやってください。待っている家族がいますから」
「王都で行ってみたい所はないのか」
「ええ、まあ、隅々まで歩いて地図を作ってはみたいですが。排水施設もまだ見てないですし」
「またそれか」
笑われる。
「もちろん市場で市場調査もしたいです」
「調査?」
「はい。売れ筋とか、どんな人達が来て、どんなものを必要としているとか」
「おまえはそんなことばかり言っているな。金儲けにでも興味があるのか」
「はい。領民を養うにはお金がいりますから」
「普通は反対だろう。領民から税を集めるのだ」
「はい。ですが、領地を富ませるのも領主の仕事です」
殿下は黙りこんだ。やがて苦笑し、また頬杖をついた。姿勢が変わって視界に入ったのだろう、盤上の駒を一つ、指でつついて倒した。
「おまえの領民はさぞかし幸せであろうな」
また一つ倒す。ソランは駒に重ねて見てしまった痛みに、唇を引き結んだ。
「はい。そうあれるようになるのが、私の義務です」
少し固い口調で答えた。殿下はまたソランを見た。手を伸ばし、指でソランの顎に触れる。それからなぜか、鼻をつまんだ。
「あのリリア・コランティアでさえ、守りきれなかったものがある。両手で抱えられるものには限界がある。……それを心に留めておけ」
鼻を離され、思わず息を止めていたソランは、大きく息を吸った。気になって、鼻を擦る。
殿下はクスクスと笑い、もう下がってよいと言った。
「おやすみなさいませ」
そう挨拶したソランに頷き、殿下は盤上から下ろされた駒を拾って、もう一度並べはじめた。
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