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第五章 平穏は、ほど遠く
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王宮まで医師を送り届け、王妃に挨拶して、すぐに踵を返す。
「ソラン、上着」
「ああ。ありがとう」
イアルにいつもの黒い軍服を渡され、歩きながら着替えた。
アティス殿下は、今頃、広場に面した建物の一室にいるはずだった。現場に近い、借り上げたそこの三階で、指揮を執っている。
王妃が慰労会を開くから、ゆっくり食事してこいと言われていたが、気掛かりだった。殿下のまわりはいつもより手薄になっている。
ソランは事前に、祖父に領地の私兵で建物周辺をかためるように頼み、副官のディーにも話を通しておいた。だが、そのディーも今は副指揮官として現場に赴き、直接指揮を執っている。いつもどおりの護衛はついていても、早く合流するに越したことはない。ソランは先を急いだ。
一度部屋に戻って医療鞄をとってくるべきか。いや、人に頼もう、時間が惜しい。そう考え直したとき、回廊の角を曲がってくるミルフェ姫を見つけた。ソランたちは通路の脇に退き、頭を下げた。
彼女はソランたちの前で足を止めた。
「どうしましたか? 王妃陛下がこれから労(ねぎら)いにお食事を出してくださいますよ」
「まだ任務中ですので、失礼させていただきます」
「まあ。そうでしたか。でしたら、少しお待ちください」
ミルフェ姫は護衛の一人に何事か囁いた。命じられた護衛は、ソランたちが来た道をすぐに走っていく。
「お疲れでしょうに。大変ですね」
「いいえ、このくらいはなんでもございません。殿下こそ大変でいらしたでしょう。とてもご立派で敬服いたしました」
「ありがとう。本当にそう思ってくださったの?」
「ええ。民衆も殿下を慕っていたではありませんか」
彼女は苦笑して横に首を振った。
「私にできるのは、これくらいのこと。父王陛下も、母王妃陛下も、兄たちも、ご立派に務めを果たしていらっしゃいますが、それでもあのような者たちがいるのは、我等の不徳の致すところです。本当は全員を膝元に置き、衣服を与え、食べ物を与え、寝る所を与えてやりたいのですが、それもままなりません。それを話したら、犬や猫ではないのですよと、叱られました」
人は飼うわけにはいかない。ただ与えれば良いわけではない。それでも、
「そのお優しさは尊いと思います」
浮世離れした方だとばかり思っていたが、王族としての強い芯を持っていた。そして優しさに傷つきもしている。この方もやはり、あの殿下の妹御なのだと認識させられた。
ミルフェ姫は数瞬逡巡するそぶりを見せ、それから思い切ったように、護衛たちに少し下がるように告げた。
イアルに目をやり、言いにくそうにしていたので、イアルも少し離れるようにと、ソランから申し渡す。
「あの、このようなところで、しかも私から言うのは、はしたないと思うのですが、どうしても伝えて、お聞きしたくて」
「はい、なんでございましょう」
「あの……あの、私、ソラン殿が好きです」
ソランは目を見開いた。王女は胸元で両手をきつく握り合わせた。
「私、恥ずかしながら、結婚相手を探しています。兄にからかわれているのはご存知でしょう? でも、私は私なりに真剣に考えています。私の選ぶ相手によっては、国が揺らぐのもわかっているつもりです。ですから、ソラン殿にお願いしたいのです。私とのことを真剣に考えてみてくれませんか? あなたなら、兄を傷つけたりしないでしょう?」
真っ赤になって、今にも泣きだしそうだ。その様子に、抱きしめてあげたくなる。それを抑えこみながら、ソランはなるべく感情を廃した声で話しかけた。
「申し訳ございません。私にはお応えできません」
王女は唇を噛み締めた。必死に涙を我慢しているのが見てとれる。痛々しくて、つい、要らない言葉をかけてしまう。
「私は殿下の思っているような者ではございません」
己の性別が明かされた時、殿下に、いや殿下方に軽蔑されるかもしれない。
場が嫌な緊張を持って静まりかえった。離れているとはいえ、会話は筒抜けだ。誰もが王女を慮って動くに動けなかった。
その時、先ほどの護衛が戻ってきた。手に小籠を二つ提げている。彼は妙な雰囲気に、怪訝そうに少し離れて立ち止まった。
「軽食です。どうぞお持ちください」
王女は震える声で言った。
ソランは護衛から籠を受け取った。
「では、失礼いたします」
言葉少なにソランたちは御前を去った。
「ソラン、上着」
「ああ。ありがとう」
イアルにいつもの黒い軍服を渡され、歩きながら着替えた。
アティス殿下は、今頃、広場に面した建物の一室にいるはずだった。現場に近い、借り上げたそこの三階で、指揮を執っている。
王妃が慰労会を開くから、ゆっくり食事してこいと言われていたが、気掛かりだった。殿下のまわりはいつもより手薄になっている。
ソランは事前に、祖父に領地の私兵で建物周辺をかためるように頼み、副官のディーにも話を通しておいた。だが、そのディーも今は副指揮官として現場に赴き、直接指揮を執っている。いつもどおりの護衛はついていても、早く合流するに越したことはない。ソランは先を急いだ。
一度部屋に戻って医療鞄をとってくるべきか。いや、人に頼もう、時間が惜しい。そう考え直したとき、回廊の角を曲がってくるミルフェ姫を見つけた。ソランたちは通路の脇に退き、頭を下げた。
彼女はソランたちの前で足を止めた。
「どうしましたか? 王妃陛下がこれから労(ねぎら)いにお食事を出してくださいますよ」
「まだ任務中ですので、失礼させていただきます」
「まあ。そうでしたか。でしたら、少しお待ちください」
ミルフェ姫は護衛の一人に何事か囁いた。命じられた護衛は、ソランたちが来た道をすぐに走っていく。
「お疲れでしょうに。大変ですね」
「いいえ、このくらいはなんでもございません。殿下こそ大変でいらしたでしょう。とてもご立派で敬服いたしました」
「ありがとう。本当にそう思ってくださったの?」
「ええ。民衆も殿下を慕っていたではありませんか」
彼女は苦笑して横に首を振った。
「私にできるのは、これくらいのこと。父王陛下も、母王妃陛下も、兄たちも、ご立派に務めを果たしていらっしゃいますが、それでもあのような者たちがいるのは、我等の不徳の致すところです。本当は全員を膝元に置き、衣服を与え、食べ物を与え、寝る所を与えてやりたいのですが、それもままなりません。それを話したら、犬や猫ではないのですよと、叱られました」
人は飼うわけにはいかない。ただ与えれば良いわけではない。それでも、
「そのお優しさは尊いと思います」
浮世離れした方だとばかり思っていたが、王族としての強い芯を持っていた。そして優しさに傷つきもしている。この方もやはり、あの殿下の妹御なのだと認識させられた。
ミルフェ姫は数瞬逡巡するそぶりを見せ、それから思い切ったように、護衛たちに少し下がるように告げた。
イアルに目をやり、言いにくそうにしていたので、イアルも少し離れるようにと、ソランから申し渡す。
「あの、このようなところで、しかも私から言うのは、はしたないと思うのですが、どうしても伝えて、お聞きしたくて」
「はい、なんでございましょう」
「あの……あの、私、ソラン殿が好きです」
ソランは目を見開いた。王女は胸元で両手をきつく握り合わせた。
「私、恥ずかしながら、結婚相手を探しています。兄にからかわれているのはご存知でしょう? でも、私は私なりに真剣に考えています。私の選ぶ相手によっては、国が揺らぐのもわかっているつもりです。ですから、ソラン殿にお願いしたいのです。私とのことを真剣に考えてみてくれませんか? あなたなら、兄を傷つけたりしないでしょう?」
真っ赤になって、今にも泣きだしそうだ。その様子に、抱きしめてあげたくなる。それを抑えこみながら、ソランはなるべく感情を廃した声で話しかけた。
「申し訳ございません。私にはお応えできません」
王女は唇を噛み締めた。必死に涙を我慢しているのが見てとれる。痛々しくて、つい、要らない言葉をかけてしまう。
「私は殿下の思っているような者ではございません」
己の性別が明かされた時、殿下に、いや殿下方に軽蔑されるかもしれない。
場が嫌な緊張を持って静まりかえった。離れているとはいえ、会話は筒抜けだ。誰もが王女を慮って動くに動けなかった。
その時、先ほどの護衛が戻ってきた。手に小籠を二つ提げている。彼は妙な雰囲気に、怪訝そうに少し離れて立ち止まった。
「軽食です。どうぞお持ちください」
王女は震える声で言った。
ソランは護衛から籠を受け取った。
「では、失礼いたします」
言葉少なにソランたちは御前を去った。
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