暁にもう一度

伊簑木サイ

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第五章 平穏は、ほど遠く

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 できるかぎり急いで走る。二振りさげている剣が腿の横で踊った。テント内に隠しておいた愛剣と、室内戦闘向きの小ぶりの中型剣だ。重さは気にならない。剣を持たされた三歳の時から、寝るときすら肌身離さず持っている剣は、体の一部だ。

 行軍ともなれば、この上に鎧兜を着け、何時間も馬で移動し、戦うことになる。この程度で堪えていれば、王の招聘に応え、私兵を引き連れ従軍することなどできない。頑強な体は領主の第一条件なのだ。

 ソランは広場に出たところで、まだテントを畳んでいる隣に、薬類が山積みにされているのを見つけた。ミルフェ姫に持たされた籠が邪魔で、そこにいた顔見知りの調剤部員に声をかけ、二つとも押し付ける。ついでに、情報立案局のエメット婦人に、ソランの医療鞄をアティス殿下の許へ至急届けてほしいと伝言した。

 殿下がいるはずの宿屋は、もうすぐだ。広場に面し、王宮にも近い一等地に建っている。一階は食事所になっている。

 職人風の男が歩いてきて、ソランの足下に持っていた荷物を落とした。袋の口が開き、中からこまごまとしたものが飛び散る。男の顔を見たソランは、自らも屈んで、一緒に荷物を集めてやった。
 男が手元に目を落としたまま、ソランに囁く。

「ほんの少し前、黒い制服姿の男が六人、中に入っていきました」

 彼は殿下の護衛のために配しておいた、ジェナシス領の私兵だった。何かがおかしいと感じたのだろう。急ぎ直接ソランに接触し、伝えねばならないと判断するほど。

「応援を今すぐ寄越して。ディー殿にも伝えて。腕に目印の黒い布を巻き忘れるな」

 ソランも最後の一つを手渡しながら囁いた。

 店をのぞくと、中は静まりかえっていた。異常だ。ソランは急ぎ踏み入った。
 誰もいない。ここにいるはずの護衛も、店の主人や従業員すら。だから客も入ってこなかったのだろう。あるいは客も彼らと同じ目に遭ったのか。

「ソラン様、お待たせいたしました」

 すぐさま駆けつけてきた私兵に、二人は奥を探索し、残りはついてくるように命ずる。とりあえず三人。すぐにも
う何人か駆けつけるだろう。
 目指すは三階だ。斬りあう音も、もみ合う音も聞こえない。嫌な予感に急かされて、二段抜かしに階段を駆け上った。
 二階の踊り場で、耳が金属音を拾う。
 ――ああ、間に合ったか!

 ソランは走りながら小ぶりな方の剣を抜いた。思ったより通路が狭い。そのわりに装飾品が所々に飾られている。殿下がいる部屋も、居心地がいいように設えられている可能性が高い。様々な家具が邪魔をして、大剣ではふりかざすことすら難しいかもしれなかった。

 三階の廊下に出ると、部屋の入り口に護衛らしき男たちが倒れているのを見つけた。
 ――まさか一人で、六人を相手にしておいでなのか?
 ソランは焦った。気配が入り乱れて、うまく読めない。

 彼女はもしもを考えて、あえて声を出さなかった。殿下の集中を途切れさせたくなかったからだ。激しい剣戟が聞こえる。一人で相手をしているには多い。
 開いた扉から飛び込むと、三対五の人間が向き合っていた。殿下を中心に三人で背を向け合って、まわりを五人が囲んでいる。

 それを一瞬に見て取り、ソランたちに気付いた敵が、仲間に注意を促す暇もなく駆け寄って、敵を後ろから一刀で斬り捨てた。それでも振り返り応戦しようとした敵の剣を、手首ごと切り落とす。
 切り下げた剣を下から上へと振り上げながら踏み込んで、次の敵の剣を弾き上げた。空いた胴に切っ先を突き立てる。敵が唸りながら剣を振り下ろしてくるのを、すぐに剣を抜いて飛び退ろうとしたが、後ろにあった何かにぶつかり、大きく体勢をくずした。
 血が勢いよく噴き出し、ソランの目を塞ぐ。まずいと思うが、どうにもならない。目の痛みを堪え、剣をかまえた。音と気配で拾うしかない。

「ソラン!」

 獰猛な気配が近づくのと、殿下の声とイアルの声が重なって聞こえた。特にイアルのは至近距離で、襟首を掴まれ、強引に後ろに投げ飛ばされる。衝撃に身構えたが、誰かが受け止めてくれた。ソラン様、大丈夫ですか、と言うところをみると、私兵の一人らしい。
 ソランは袖で顔を拭い、涙が血を洗い流すのを待ちきれずに立ち上がった。

「殿下は」
「大丈夫です。もう収束します」

 ややあって剣戟がやんだ。目も見えてくる。誰もが肩で息をしていた。殿下が立っているのを見つけ、首元にべったりと付く血に、息が止まりそうになる。

「で、殿下」

 ソランはどもりながら呼んだ。

「私は大丈夫だ」

 険しい表情のまま答えてくれる。だが、その視線の先に目をやり、ソランは叫んだ。

「イアル!?」

 彼が蹲っていた。ソランは駆け寄った。彼の足元に血溜まりが広がっていく。

「イアル」
「大丈夫だ」

 嘘だ。息が小刻みで顔色がひどく悪い。
 ソランは傷口を探した。彼は左の肩口を押さえていた。そこから次々に血が零れ落ちている。

「やだ」

 その血の量に、ソランは冷静さを失った。

 殺し合いは初めてではない。留学先だったエレイア王国は治安が悪く、輸送中の宝石を狙った盗賊が多く出た。ソランが初めて人を殺したのは、留学先に行く途中だった。
 その後も剣の腕を見込まれ、村や採掘場の自衛団に雇われて、幾度も斬り合いを経験した。正式な訓練を受けた敵は少なく、ほとんどはすぐに追い散らすことができたが、絶対に安全ということはなかった。

 仲間だった人間が、幾人か死ぬのも見た。そんな中でも、いつでもイアルだけはソランの傍にいた。時にお互いの背を守り、また、共に斬りこんだ。
 物心ついてからずっと、誰よりも多く同じ時を過ごし、同じ少女を愛し、笑い、語らい、彼はソランの半身だった。

 ソランには自分が何を言っているのかわからなかった。ただイアルの名を呼び、いやだ、と繰り返す。そうして泣きながら、己の髪を縛っている紐を解き、無意識に彼の肩口を縛りあげ、床に寝かせて、上から手で圧迫し、止血を試みていた。

 ああ、と嘆く。ごめん、マリー、と呟く。
 ――助けて。助けて。
 でも、女神には祈れなかった。女神は連れて行くべき人間を連れ去ることを、決して止めはしない。
 それでも、ソランは何かに祈らずにはいられなかった。
 ――お願い、お願い、イアルを連れていかないで……。

 ディーや祖父が駆けつけ、無理矢理引き離されるまで、ソランはイアルの名を呼び続けていた。
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