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第六章 変化(へんげ)
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ノックの音に我に返った。ソランは枕もとの椅子から立ち上がり、扉へと向かった。
「誰ですか?」
「マリーよ」
耳を疑った。だが声は続いた。
「マリーよ。ソラン、開けて」
一番顔を合わせたくない人物だった。しかし、イアルとマリーは、たとえ意識がなくてもお互いに会いたいにちがいない。
ソランは鍵を開けた。扉が開かれる。マリーが心配げにソランを見上げた。
「ソランは? 怪我はないの?」
ソランは声を出せず、小さく頷いた。震える指が伸ばされ、ソランの頬に触れようとした。それを、とっさに避ける。マリーが目を見開く。信じられないというように。
「ごめん。汚れているから」
言い訳をして、入り口を塞いでいた体を退けた。目をそらす。
「入って」
招き入れて、また鍵を閉めた。もう敵はいないはずなのに、そうせずにはいられなかった。
マリーはベッドの上で眠るイアルを見たとたん、足を止めてしまった。
「大丈夫。眠っているだけ」
彼女の背に手を当て、枕もとの椅子に、そっと誘う。彼女は操り人形のように座り込んだ。そのままイアルの寝顔を見つめ続ける。無表情に、息すらしてないかのようにして。
ソランも彼女の横に立ち、同じようにイアルを見ていた。やがてマリーがぽつりと尋ねてきた。
「イアルは、ソランを守ったのね?」
「うん」
マリーはくしゃりと顔を歪めた。
「馬鹿な人」
震えた息を吐き出す。
「ごめん。ごめん、マリー」
ソランは言うまいと思っていた言葉を吐いた。
許しを請うつもりはなかった。許されたいと思わなかった。こんなになっても、後悔はしていないのだ。次も同じことを何度でも繰り返すだろう自分を呪っていた。
「ソランは悪くない。私が、頼んだんだもの。ソランを守ってって。イアルが断れないのを知っていて。結婚の条件にしたのは、私なんだもの」
マリーがソランを振り仰いだ。ソランはその事実に息も止まりそうなほど驚いていた。真っ青になり彼女を見返す。マリーは泣きそうに笑った。
「知っていたの。絶対守ってくれるって。命に代えても守ってくれるって。ずるいのは、私なの」
「違う、マリー」
「違わない! その証拠に、ソランが無事で、私、喜んでいる。どうしようもないくらい、喜んでいる!」
マリーの目元に涙が盛りあがり、零れ落ちる。いくつもいくつも零れ落ちた。
「だけど、こんな気持ちになるなんて、思わなかった! 馬鹿じゃないの、この男!」
顔を覆う。自分の膝の上に身を屈める。
「なんでこんな苦しい思いをさせるのよ。守ってくれるって言ったのに。幸せにするって言ったのに。こんなの、全然違うじゃない!」
ソランは嗚咽を押し殺して泣くマリーを見ていられなかった。声も聞いていられなかった。
だから部屋から逃げ出した。鍵を開け、廊下によろめき出た。けれど、他にどこにも行く場所が思いつかず、その場にずるずると座り込み、膝の上に両腕を乗せ、そこに顔を埋めてうずくまった。
ソランの意識は暗く深いところに降りていった。降りていくにつれ、常に外界の刺激を過敏なくらいに拾う体の、感覚のすべてが失われていく。
ソランは振り返らなかった。ここには何度か来たことがある。無明の闇に包まれた穏やかな世界。ソランを煩わせ、傷つけるものの、無い世界。
ここに来ると、イアルはとても心配する。ソランが何の反応も返さなくなるからだ。
一人で俺の手の届かないところに行かないでくれ。泣きそうに懇願されたこともある。
俺が傍にいるから。おまえを一人にはしないから。おまえが苦しいというのなら、俺も同じ罪を犯そう。そうすれば、半分になるだろう?
よくわからない理屈だ。同じ罪を犯したら、罪は二倍だ。半分になりはしない。けれど、なぜかソランの孤独は半分になった。
イアルは馬鹿だ、と思う。それに心がギクリとする。
ソランを一人にして、迎えにも来ないなんて、嘘つきだ、とも思う。それに引き寄せられて、今は聞きたくない声が耳の奥に甦ろうとし、強く耳を塞いだ。
暗く広く柔らかい底に辿りつくと、ソランは心の目も瞑ってしまった。自分自身の気持ちや記憶さえ自分を傷つけるから。
そうして彼女は無になって眠りについた。
「誰ですか?」
「マリーよ」
耳を疑った。だが声は続いた。
「マリーよ。ソラン、開けて」
一番顔を合わせたくない人物だった。しかし、イアルとマリーは、たとえ意識がなくてもお互いに会いたいにちがいない。
ソランは鍵を開けた。扉が開かれる。マリーが心配げにソランを見上げた。
「ソランは? 怪我はないの?」
ソランは声を出せず、小さく頷いた。震える指が伸ばされ、ソランの頬に触れようとした。それを、とっさに避ける。マリーが目を見開く。信じられないというように。
「ごめん。汚れているから」
言い訳をして、入り口を塞いでいた体を退けた。目をそらす。
「入って」
招き入れて、また鍵を閉めた。もう敵はいないはずなのに、そうせずにはいられなかった。
マリーはベッドの上で眠るイアルを見たとたん、足を止めてしまった。
「大丈夫。眠っているだけ」
彼女の背に手を当て、枕もとの椅子に、そっと誘う。彼女は操り人形のように座り込んだ。そのままイアルの寝顔を見つめ続ける。無表情に、息すらしてないかのようにして。
ソランも彼女の横に立ち、同じようにイアルを見ていた。やがてマリーがぽつりと尋ねてきた。
「イアルは、ソランを守ったのね?」
「うん」
マリーはくしゃりと顔を歪めた。
「馬鹿な人」
震えた息を吐き出す。
「ごめん。ごめん、マリー」
ソランは言うまいと思っていた言葉を吐いた。
許しを請うつもりはなかった。許されたいと思わなかった。こんなになっても、後悔はしていないのだ。次も同じことを何度でも繰り返すだろう自分を呪っていた。
「ソランは悪くない。私が、頼んだんだもの。ソランを守ってって。イアルが断れないのを知っていて。結婚の条件にしたのは、私なんだもの」
マリーがソランを振り仰いだ。ソランはその事実に息も止まりそうなほど驚いていた。真っ青になり彼女を見返す。マリーは泣きそうに笑った。
「知っていたの。絶対守ってくれるって。命に代えても守ってくれるって。ずるいのは、私なの」
「違う、マリー」
「違わない! その証拠に、ソランが無事で、私、喜んでいる。どうしようもないくらい、喜んでいる!」
マリーの目元に涙が盛りあがり、零れ落ちる。いくつもいくつも零れ落ちた。
「だけど、こんな気持ちになるなんて、思わなかった! 馬鹿じゃないの、この男!」
顔を覆う。自分の膝の上に身を屈める。
「なんでこんな苦しい思いをさせるのよ。守ってくれるって言ったのに。幸せにするって言ったのに。こんなの、全然違うじゃない!」
ソランは嗚咽を押し殺して泣くマリーを見ていられなかった。声も聞いていられなかった。
だから部屋から逃げ出した。鍵を開け、廊下によろめき出た。けれど、他にどこにも行く場所が思いつかず、その場にずるずると座り込み、膝の上に両腕を乗せ、そこに顔を埋めてうずくまった。
ソランの意識は暗く深いところに降りていった。降りていくにつれ、常に外界の刺激を過敏なくらいに拾う体の、感覚のすべてが失われていく。
ソランは振り返らなかった。ここには何度か来たことがある。無明の闇に包まれた穏やかな世界。ソランを煩わせ、傷つけるものの、無い世界。
ここに来ると、イアルはとても心配する。ソランが何の反応も返さなくなるからだ。
一人で俺の手の届かないところに行かないでくれ。泣きそうに懇願されたこともある。
俺が傍にいるから。おまえを一人にはしないから。おまえが苦しいというのなら、俺も同じ罪を犯そう。そうすれば、半分になるだろう?
よくわからない理屈だ。同じ罪を犯したら、罪は二倍だ。半分になりはしない。けれど、なぜかソランの孤独は半分になった。
イアルは馬鹿だ、と思う。それに心がギクリとする。
ソランを一人にして、迎えにも来ないなんて、嘘つきだ、とも思う。それに引き寄せられて、今は聞きたくない声が耳の奥に甦ろうとし、強く耳を塞いだ。
暗く広く柔らかい底に辿りつくと、ソランは心の目も瞑ってしまった。自分自身の気持ちや記憶さえ自分を傷つけるから。
そうして彼女は無になって眠りについた。
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