暁にもう一度

伊簑木サイ

文字の大きさ
58 / 272
第六章 変化(へんげ)

1-2

しおりを挟む
 ノックの音に我に返った。ソランは枕もとの椅子から立ち上がり、扉へと向かった。

「誰ですか?」
「マリーよ」

 耳を疑った。だが声は続いた。

「マリーよ。ソラン、開けて」

 一番顔を合わせたくない人物だった。しかし、イアルとマリーは、たとえ意識がなくてもお互いに会いたいにちがいない。
 ソランは鍵を開けた。扉が開かれる。マリーが心配げにソランを見上げた。

「ソランは? 怪我はないの?」

 ソランは声を出せず、小さく頷いた。震える指が伸ばされ、ソランの頬に触れようとした。それを、とっさに避ける。マリーが目を見開く。信じられないというように。

「ごめん。汚れているから」

 言い訳をして、入り口を塞いでいた体を退けた。目をそらす。

「入って」

 招き入れて、また鍵を閉めた。もう敵はいないはずなのに、そうせずにはいられなかった。
 マリーはベッドの上で眠るイアルを見たとたん、足を止めてしまった。

「大丈夫。眠っているだけ」

 彼女の背に手を当て、枕もとの椅子に、そっと誘う。彼女は操り人形のように座り込んだ。そのままイアルの寝顔を見つめ続ける。無表情に、息すらしてないかのようにして。
 ソランも彼女の横に立ち、同じようにイアルを見ていた。やがてマリーがぽつりと尋ねてきた。

「イアルは、ソランを守ったのね?」
「うん」

 マリーはくしゃりと顔を歪めた。

「馬鹿な人」

 震えた息を吐き出す。

「ごめん。ごめん、マリー」

 ソランは言うまいと思っていた言葉を吐いた。
 許しを請うつもりはなかった。許されたいと思わなかった。こんなになっても、後悔はしていないのだ。次も同じことを何度でも繰り返すだろう自分を呪っていた。

「ソランは悪くない。私が、頼んだんだもの。ソランを守ってって。イアルが断れないのを知っていて。結婚の条件にしたのは、私なんだもの」

 マリーがソランを振り仰いだ。ソランはその事実に息も止まりそうなほど驚いていた。真っ青になり彼女を見返す。マリーは泣きそうに笑った。

「知っていたの。絶対守ってくれるって。命に代えても守ってくれるって。ずるいのは、私なの」
「違う、マリー」
「違わない! その証拠に、ソランが無事で、私、喜んでいる。どうしようもないくらい、喜んでいる!」

 マリーの目元に涙が盛りあがり、零れ落ちる。いくつもいくつも零れ落ちた。

「だけど、こんな気持ちになるなんて、思わなかった! 馬鹿じゃないの、この男!」

 顔を覆う。自分の膝の上に身を屈める。

「なんでこんな苦しい思いをさせるのよ。守ってくれるって言ったのに。幸せにするって言ったのに。こんなの、全然違うじゃない!」

 ソランは嗚咽を押し殺して泣くマリーを見ていられなかった。声も聞いていられなかった。
 だから部屋から逃げ出した。鍵を開け、廊下によろめき出た。けれど、他にどこにも行く場所が思いつかず、その場にずるずると座り込み、膝の上に両腕を乗せ、そこに顔を埋めてうずくまった。



 ソランの意識は暗く深いところに降りていった。降りていくにつれ、常に外界の刺激を過敏なくらいに拾う体の、感覚のすべてが失われていく。
 ソランは振り返らなかった。ここには何度か来たことがある。無明の闇に包まれた穏やかな世界。ソランを煩わせ、傷つけるものの、無い世界。

 ここに来ると、イアルはとても心配する。ソランが何の反応も返さなくなるからだ。
 一人で俺の手の届かないところに行かないでくれ。泣きそうに懇願されたこともある。

 俺が傍にいるから。おまえを一人にはしないから。おまえが苦しいというのなら、俺も同じ罪を犯そう。そうすれば、半分になるだろう?
 よくわからない理屈だ。同じ罪を犯したら、罪は二倍だ。半分になりはしない。けれど、なぜかソランの孤独は半分になった。

 イアルは馬鹿だ、と思う。それに心がギクリとする。
 ソランを一人にして、迎えにも来ないなんて、嘘つきだ、とも思う。それに引き寄せられて、今は聞きたくない声が耳の奥に甦ろうとし、強く耳を塞いだ。

 暗く広く柔らかい底に辿りつくと、ソランは心の目も瞑ってしまった。自分自身の気持ちや記憶さえ自分を傷つけるから。
 そうして彼女は無になって眠りについた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

はじめまして、私の知らない婚約者様

有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。 見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。 けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。 ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。 けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。 この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。 悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに? ※他サイトにも掲載しています。

【完結】貧乏令嬢の野草による領地改革

うみの渚
ファンタジー
八歳の時に木から落ちて頭を打った衝撃で、前世の記憶が蘇った主人公。 優しい家族に恵まれたが、家はとても貧乏だった。 家族のためにと、前世の記憶を頼りに寂れた領地を皆に支えられて徐々に発展させていく。 主人公は、魔法・知識チートは持っていません。 加筆修正しました。 お手に取って頂けたら嬉しいです。

【完結】子爵令嬢の秘密

りまり
恋愛
私は記憶があるまま転生しました。 転生先は子爵令嬢です。 魔力もそこそこありますので記憶をもとに頑張りたいです。

追放令嬢、辺境王国で無双して王宮を揺るがす

遊鷹太
ファンタジー
王国随一の名門ハーランド公爵家の令嬢エリシアは、第一王子の婚約者でありながら、王宮の陰謀により突然追放される。濡れ衣を着せられ、全てを奪われた彼女は極寒の辺境国家ノルディアへと流される。しかしエリシアには秘密があった――前世の記憶と現代日本の経営知識を持つ転生者だったのだ。荒廃した辺境で、彼女は持ち前の戦略眼と人心掌握術で奇跡の復興を成し遂げる。やがて彼女の手腕は王国全土を震撼させ、自らを追放した者たちに復讐の刃を向ける。だが辺境王ルシアンとの運命的な出会いが、彼女の心に新たな感情を芽生えさせていく。これは、理不尽に奪われた女性が、知略と情熱で世界を変える物語――。

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる

三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。 こんなはずじゃなかった! 異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。 珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に! やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活! 右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり! アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。

侯爵家の愛されない娘でしたが、前世の記憶を思い出したらお父様がバリ好みのイケメン過ぎて毎日が楽しくなりました

下菊みこと
ファンタジー
前世の記憶を思い出したらなにもかも上手くいったお話。 ご都合主義のSS。 お父様、キャラチェンジが激しくないですか。 小説家になろう様でも投稿しています。 突然ですが長編化します!ごめんなさい!ぜひ見てください!

積みかけアラフォーOL、公爵令嬢に転生したのでやりたいことをやって好きに生きる!

ぽらいと
ファンタジー
アラフォー、バツ2派遣OLが公爵令嬢に転生したので、やりたいことを好きなようにやって過ごす、というほのぼの系の話。 悪役等は一切出てこない、優しい世界のお話です。

処理中です...