暁にもう一度

伊簑木サイ

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第八章 思い交わす時

1-2

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 殿下が差し出してくる肘に、ソランは手を掛け、淑女らしく寄り添って歩いた。後ろには鞄を持ったマリーが付き従い、三人の前後を護衛が囲んでいる。

 いったん王宮の敷地に入り、庭園を抜けていった。さすがに王都の樹木も葉を落としている。枝の間から見える空が懐かしく思えて、ソランはぼんやりと上ばかり見ていた。

 正門ではなく、広場に最も近い通用門から出て、用水路に掛けられた瀟洒な橋を渡る。建物と用水路の間の小道を歩いていると、着込んできたのに足元から冷気があがってきて、最近の生活ではわからなかった、季節の進み具合を久しぶりに感じた気がした。

 建物が途切れ、急に目の前が開けた。王宮前広場だ。朝早くだからだろう、まだ露店を準備している者ばかりで、客足はない。ずっと向こうまで石畳の敷かれた広場が見渡せる。

 ソランは足を止めた。何かが心を揺さぶっていた。目の前の光景は、広いけれど、狭かった。すべてが人工物に囲まれている。ただ、空の色同じで。強く、、と感じる。
 ――本当に見たいのは、もっと、もっと……。

「どうした!?」

 殿下のひどく焦った声がして、ソランは緩慢に殿下に視線を向けた。視界が歪んでいる。自分は泣いているのだと気付く。

「何でもありません」

 ソランは涙を手袋の指先で押さえるようにそっと拭った。――ああ、間違った。ハンカチを出さなければいけなかったのに。
 ポケットを探ってハンカチを取り出そうとするソランの肩を、殿下は、ぐっと握って顔を覗き込んだ。

「おかしいと思っていたのだ。今日だけではない。ここ何日も、ずっと顔色が冴えなかった。何があった?」
「何もありません」

 本当に、のだ。

「そんなわけなかろう。だったら、なぜ泣く」

 無性に見たかった。見渡すかぎり緑に覆われた大地を。眼前いっぱいに広がる、山頂に雪を頂いたハレイ山脈を。
 思い出したら、涙が止まらなくなった。どうしたらいいのかわからない。ぽろぽろとあふれては零れ落ちる。

「殿下、ここでは。宿はすぐそこです。そちらに急ぎましょう」

 マリーが進言した。

「そうだな。そうしよう」

 肩を抱かれ、少々強引に前へと押される。ソランは促されるまま歩を進めた。



 広場を横切り、宿屋の二階の一室に連れて来られ、ソファに腰掛けさせられた。殿下も隣に座り、近くで向き合う。護衛やマリーは廊下に出て行った。

「ソラン。なぜ泣いた」

 最近耳にすることのなかった名を呼ばれ、ソランは困って殿下を見返した。本当に、なぜ泣いてしまったのかわからなかったのだ。こうして心配させるだけなのに。

「申し訳ありません。何でもないのです」
「ソラン!」

 強く名を呼ばれる。殿下は心配と焦りの浮かんだ顔をしていた。

「遠慮はいらぬ。王宮で何があった。王妃か、エニシダか、それとも別の名も知らぬ誰かか。誰でもいい。一体何を言われた」
「まさか。皆様、もったいないくらい良くしてくださいます」
「何もなくて、おまえが泣くわけがない。おまえは私が守る。必ずだ。だから」
「本当です。毎日皆様に気遣っていただいております。どうか悪く仰らないでください。それではあまりに皆様に申し訳ありません」

 大事にしなければならない人々を疑い、険しい顔をするのを止めたくて、ソランは殿下をさえぎった。

「どうしても言えぬというのか。私を信頼していると言ったあれは、戯言か」

 苛立たしげに詰問される。ソランが答えに窮すると、いきなり立ち上がった。

「ならば、皆を尋問するまでだ。帰るぞ」
「殿下!」

 ソランは殿下にすがりついた。

「お止めください。違うのです。皆様ではなくて」

 答えに迷う。殿下の苦りきった顔が怖かった。じっと上から見据えられる。殿下は冗談や脅しを言っているのではない。本気で尋問するつもりだ。
 ソランはバクバクする心臓に眩暈さえ感じながら、必死に言い募った。

「そうではなくて、私はただ、広い場所が見たくて」

 殿下の顔がさらに顰められ、心が縮みあがる。人を相手にしてこんなに心細い気持ちになるのは、どのくらいぶりだろう。祖父に最後に叱られたのはいつだったか。頭の隅で、現実逃避気味にそんなことを考えた。

「広い場所?」

 不機嫌に聞き返された。詳しく話せと言外に言われ、ソランはつっかえつっかえ説明する。

「我が領地のような、見渡すかぎり草原と林しかないような所です。さえぎるものはハレイ山脈しかない場所です」
「領地に帰りたいのか」

 唸るような声だった。ソランは必死に否定した。

「違います。決してそうではなくて、……そうではなくて、あそこは狭くて、だから、……申し訳ありません」

 ソランは謝った。そんな我儘を言っている時ではない。

「謝罪などいらん。だから、何だ。はっきり言え。それとも私はそれほど聞く耳を持たぬと思っているのか」

 どうしてこんなに怒らせてしまうのだろう。別の意味でソランは泣きたくなってきた。
 殿下は眼光鋭く、容赦なく攻め立ててくる。まごまごしているのも気に入らないのだろう。ソランは目を瞑り、一気に言い放った。

「狭くて、息がつまるのです」

 一言を言ったら、別の言葉も飛び出してくる。

「あそこでは、私は何もすることがないのです。いったい自分は何をしているのかと、いたたまれなくなるのです」
「おまえは」

 上から、ひび割れた声が降ってきた。ソランは目を瞑ったまま、次を待った。
 待って、待って、目を瞑っている方がよけいに怖くなって、目を開け、唇を引き結んで殿下を見上げた。

 殿下は、眉間に皺を刻み、ソランを見下ろしていた。表情は険しいままだ。視線が合ったら、そらせなくなってしまった。大型の野生の獣に遭ったら、目をそらしてはいけないのと同じだ。弱気を見せれば喰いつかれる。この場合、もっと怒りを誘ってしまいそうだった。

 殿下の眉間の皺が、ぐぐっと深くなった。

「すまなかった」

 そう言うと、床に膝をつき、下からソランと目線を合わせるようにした。それで気付いた。険しい表情なのは怒っているからではないと。むしろ、心配とかそういう類のものらしいと。

「私はおまえに、我慢を強いていたのだな」
「いいえ、私が勝手に」
「いいや、私がおまえを閉じ込めていたのだ」

 殿下の瞳が苦痛に彩られる。ソランはそれを不思議に思って眺めた。

「私は、おまえが」

 言いかけて、不自然に口を噤む。そうして確かめるようにソランを見ていたが、やがて自嘲めいたものを浮かべ、横に首を振った。

「とにかく、すまなかった。これから埋め合わせをしたいが、よいか?」
「埋め合わせですか?」

 忙しいのは知っている。本当は断らなければいけないだろう。だが、どうしても期待を持って聞き返さずにはいられなかった。

「ああ。遠乗りをしよう」

 思わずソランは微笑んでしまった。馬に乗り、耳元をよぎる風の音を聞きたい。
 殿下も応えて表情を和らげた。

「決まりだな。よし、そうと決まれば、エメット婦人に食べ物を無心してみよう」

 ソランの手を取って立ち上がる。それでやっと、ソランはここ何日も感じられなかった、生きた心地がしたのだった。
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