暁にもう一度

伊簑木サイ

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第八章 思い交わす時

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 殿下に送ってもらわなくても、代わりの護衛が来るだろうと、いつもの時間に用意して待っていると、祖父がやってきた。
 王に正式な呼び出しを受けたという。召喚状を手渡された。

 初めて次期領主として出向いた先は、王の執務室だった。
 人払いされたそこで、王は祖父と簡単な挨拶を交わし、その後ろに控えていたソランにも、気安く椅子を勧めた。
 彼らの間には立場としての最低限の礼儀はあったが、それ以上に、長年の緊密な信頼関係が見受けられて、ソランはそれに少々驚いた。もっとビジネスライクな関係かと思っていたのだ。

「今日、呼び出したのは他でもない、アティスが立太子の意志を固めてくれたことに、感謝したくてな」

 王はにこやかに言った。

「すべてそなたのおかげだ。礼を言う」

 ソランは黙って頭を下げた。ソランのおかげかどうかは怪しいところだったが、そう思っているのなら、わざわざこちらから否定することはない。

「初めの約束どおり、褒美を取らせたいと思う。何がよい? 何なりと申せ」

 それについては祖父を相手に検討を重ねてきた。金が一番良いのだが、金額で指定するのであろうから、もしも小麦の値が上がった時には不安である。買える量が目減りしてしまうからである。だったら、いっそ、欠くことのできない小麦自体を願い出てみたらどうかということになった。それも、将来の人口増加を見越して多目にである。余るなら売って金にすればよいだけだ。加工してから売るのも手かもしれない。

 などと夢は大きく膨らんだが、祖父は何を言っても、それで良いのではないか、と笑っていて、実はあまり相手にならなかった。でも、少なくともいけないとは言わなかった。妥当かどうかはともかく、許されるラインは守っていると見ていいのだろう。
 そこで、ソランははっきりと申し出た。

「はい。では、小麦の援助をお願いいたします」

 王は目を瞬いた。

「そんな心配は、もう必要なくなるであろう。なにしろそなたは、いずれ王妃となるのだから。アティスも王妃領の困窮を放っておくことはあるまい」
 優しく言い聞かせてくれる。それに胸が痛んで顔が強張りそうになった。が、顔色を変えぬように努める。

「そのようなことにはなりません。殿下には、立太子による妃争いが起きぬためと、私の身の安全のためとお聞きしております。今回のことは、仕事の一環でございます」
「仕事!?」

 王は顔色を変えた。驚いたようだ。

「まさか。プロポーズを受けてくれたのではないのか?」
「いいえ。その様な事実はございません」

 平然と嘘をついた。その事実をなかったことにしておいた方が、誰にとっても良い気がした。

「なんと」

 王は呆然とし、それから、苦りきった顔をした。

「そうか。そうだな。言うまでもない。あれはいつも眉間に皺を寄せて気難しい顔しかしておらんし、口は始終への字で、開いたと思えば人を煙に巻くことしか吐かん。愛想などないも等しいしな。だが、それもすべて国を思ってのこと。あれの頭の中は仕事でいっぱいなのだ。そなたならわかってくれると思っておったのだが」
「はい。わかっております」
「では、何が気に入らないと申すのだ」

 ソランは微笑んだ。陛下の挙げた殿下の姿でさえ、愛しいものでしかない。

「殿下は素晴らしい方でいらっしゃいます。不満など少しもございません。そうではなくて、私のことは男だと信じていらっしゃいますので」
「は? だが」

 途中で口を噤み、祖父へ視線を送った。祖父は肩をすくめた。

「いや、しかし、ダレルノは女を」

 と言って、またソランを見て、急に黙った。ダレルノとはリングリッド将軍のことだ。閣下がなんだというのだろうか。
 王は、ちょっと失礼する、と作り笑いで柔らかに断ると、祖父の腕を掴んで、部屋の隅へと移動した。

 ソランは、小麦の件は特に問題なさそうだと判断していた。王太子ができることを、王ができないわけがない。望みの褒美を取らすと言ったのだから、約束通り履行してもらう。夢物語を追うより、取れるところから取るのがソランの信条だった。

 問題は期間である。塵も積もれば山となる。ソランの一生涯は当然として、国庫が破綻するまで、つまり国が滅びるまででは駄目だろうか。
 その話をいかに切り出すかで、ソランは意識的に頭の中をいっぱいにしていた。他の事は考えたくなかった。

「待たせたね」

 王は優しく微笑んだ。女装をしてから一番変わったのが、これである。誰もが非常に優しく丁寧に扱ってくれるのだ。それがなんだかむず痒く、時々申し訳なくすらなってくる。もう、たくさんだった。

「いいえ」

 しかしソランは、教わったとおりに感じよく微笑んでみせた。祖父は、この頃のおまえの笑顔は、さらに磨きが掛かったと褒めてくれる。やはり、あの情け容赦のない指導教官のおかげであろう。殿下などは、女の技術とは恐ろしいものだな、と唖然としていたが。
 殿下のことが頭をよぎり、振り払いたくて口を開いた。

「あの」
「ああ、もちろん、そなたの望みどおりの品を取らせよう。神殿への寄進という形で、そなたの血縁者が治めるかぎり、毎年千袋でどうだ」

 ソランが試算していた倍近くの量を提示された。

「ありがとうございます」

 ソランは満面の笑みを浮かべた。よかった。これで冬の蓄えについてだけは、心配しなくてすむようになる。たった一つであっても、自分の代で領地のためになることができて、肩の荷が一つ下りた気持ちだった。
 しかも、思っていたよりかなり多く、余剰分は元手がタダで金に換えることができるのだ。領地まで運ばせず、王都で小麦を使った菓子やパンを売っても良いかもしれない。それにはまず市場調査である。
 瞬きほどの時間であったが、ソランは意識が完全に持っていかれていた。それほど嬉しかったのだ。

「それと、これにサインを」

 王は書類を出してきた。契約書にしては早すぎる。詳細も何もぜんぜん詰めていない。ソランは書面を確認して驚いた。祖父を振り返る。

「まだ早すぎます」

 領主の任命書だった。
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