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第八章 思い交わす時
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人の気配で目が覚めた。闇の中、眠りから覚めたばかりで妙に開放された感覚が、それは殿下であると告げていた。
「どうなさいました?」
ソランは起き上がって、眠そうに尋ねた。
「おまえこそ、どうして寝ているんだ」
押し殺した殿下の声には、憤慨の響きが含まれていた。ソランは即座に謝罪を口にしながらも、弁解を試みた。
「申し訳ございません。あれを見つけられるのは夜遅くになると思ったのです。ですから、お返事は明日以降になるかと」
「あんな思わせぶりに返事をもらって、寝られるか!」
――思わせぶり? ただ、人の手に渡ると厄介な代物だから、殿下以外には見つけられそうにない場所に置いただけなのだが。何を思わせるというのだろう。
ソランの体がふるっと震えた。今夜は冷えている。殿下は怒っているし、誤解を解かないことには帰らないだろう。
「暖炉の火を熾します。こちらに入って少しお待ちください」
布団から這い出て、入りやすいようにめくり、自身は殿下の隣へと降り立った。ランプは入り口の方に一つ点けて置いてあるきりだ。でも、暗闇に慣れた目には、夜着一枚なのが見て取れた。
「風邪を召されると大変です。暖かくなさってください」
「お、ま、え、は」
殿下は妙な発音をした。その剣呑な雰囲気に、ソランは一歩後退った。その瞬間、両の二の腕をわし掴みにされ、逃げられないように捕まえられる。
「馬鹿か! 男を自分のベッドに誘うな! そんな薄着で男の前に出てくるな! しかもその気もないのに不用意に近付くな! それから、自分だけ暖まって、女に火を熾させるような男は、おまえの前に立つ資格もない! 覚えておけ!」
小声で叱責され、それが終わると同時に、力技でベッドの上に放り上げられた。
ソランはあまりにびっくりして、手荒く布団がかけられるまま大人しくしていた。殿下を相手に恐怖を感じている自分にも驚いていた。命の遣り取りをしているわけではなかったが、己より強く大きな個体を前にして、緊張していた。腕を掴まれても振りほどけなかったのだ。たいていの男となら互角に渡り合えるソランにとっては、滅多にないことだった。
やがて、火が大きくなり、あたりが明るくなった。ソランは怖々布団から顔を出し、殿下の方を窺った。
――そろそろ行った方がいいのだろうか。というより、行かねばなるまい。あれでは背中が寒いだろう。何か羽織る物を持っていかないと。
ソランはまず、ベッドサイドに用意してある自分のガウンを着込み、足音を忍ばせて下りた。それから衣裳部屋に旅行用のマントを取りに行った。あれなら、多少体が大きくても問題ない。ゲルダ衣裳店のチェイニー婦人が、北方の寒い国に生息する何とかというヤギの毛で織ったもので、水を弾く上に軽くて柔らかくて暖かいのだと説明していた一級品だ。それを持って殿下の許へ行った。
「どうぞこれを羽織ってください」
声をかける。殿下は振り向いて腕を伸ばした。渡すと、襟元に毛皮の付いた女物のマントをしばらく眺めていたが、借りるぞ、と言って羽織った。
ソランは人一人分ほどの間を空けて、その隣に座った。カタリと剣が床にぶつかって立てた音で、自分が無意識に剣を持って歩いていたことに苦笑する。殿下も剣を見ていて、淑女らしくない行動に気まずい思いでそれを遠ざけ、クッションの下にしまいこんだ。
「おまえは、いったいどういう育ち方をしたんだ。どう見ても、女装より男装の方が板についているとしか思えんのだが」
ソランは情けない思いに駆られながら、質問に答えた。
「私の一族は、婚約するまで、男女逆に育てられるのです」
「アーサーの差し金ではなく?」
「はい。祖母も母もそうでした。あ」
でも、弟は違う、と思いつく。もしかして初めてではないか。あの領地内で生まれず、育てられもしなかったジェナスの後裔は。
「なんだ」
「いえ、たいしたことでは」
「いいから言え」
殿下は不機嫌だった。ソランは仕方なく説明する。
「弟はちゃんと男として育てられていると気付いたので」
「弟がいるのか?」
意外そうに聞き返される。
「はい。三つ下の」
「男児がいるのに、なぜおまえが後継者なんだ?」
「聞いた話では、一人っ子の母を嫁に出す条件が、第一子を後継者として差し出すことだったらしいです」
殿下は少し考え、怪訝そうに尋ねた。
「両親は離れた場所で暮らしているのか?」
「はい。二歳を過ぎた頃から、共に暮らしたことはありません」
眉を顰める。だが、そうか、とだけしか言わなかった。恐らく、ソランが寂しい思いをしたのではないかとか、そういうことを考えてくれたに違いない。
「寂しくなかったといえば嘘ですが、その分、たくさんの人に愛されて育ちました」
「ああ。昨日もそんなことを言っていたな」
「それと、もう一つ殿下に申し上げておかなければいけないことを思い出しました」
今の今まで忘れていた。ソランにとっては当たり前のことで、それ以外の自分は在りようもなかったから、それによって他の人間にどんな影響を与えるかなど、ほとんど考えたこともなかったのだ。
自分が、誰の後継者で、どの神に仕える神官であるのか。
けっして人には知られてはいけないと言い聞かされてきた。邪神と呼ばれる神を崇めているなどとは。
それでも、殿下には教えなければいけないだろう。それが、殿下の御世に陰りを与えることにならないともかぎらないのだから。
ソランは緊張気味に告白した。
「私は女神マイラを祀る一族の神官なのです」
「どうなさいました?」
ソランは起き上がって、眠そうに尋ねた。
「おまえこそ、どうして寝ているんだ」
押し殺した殿下の声には、憤慨の響きが含まれていた。ソランは即座に謝罪を口にしながらも、弁解を試みた。
「申し訳ございません。あれを見つけられるのは夜遅くになると思ったのです。ですから、お返事は明日以降になるかと」
「あんな思わせぶりに返事をもらって、寝られるか!」
――思わせぶり? ただ、人の手に渡ると厄介な代物だから、殿下以外には見つけられそうにない場所に置いただけなのだが。何を思わせるというのだろう。
ソランの体がふるっと震えた。今夜は冷えている。殿下は怒っているし、誤解を解かないことには帰らないだろう。
「暖炉の火を熾します。こちらに入って少しお待ちください」
布団から這い出て、入りやすいようにめくり、自身は殿下の隣へと降り立った。ランプは入り口の方に一つ点けて置いてあるきりだ。でも、暗闇に慣れた目には、夜着一枚なのが見て取れた。
「風邪を召されると大変です。暖かくなさってください」
「お、ま、え、は」
殿下は妙な発音をした。その剣呑な雰囲気に、ソランは一歩後退った。その瞬間、両の二の腕をわし掴みにされ、逃げられないように捕まえられる。
「馬鹿か! 男を自分のベッドに誘うな! そんな薄着で男の前に出てくるな! しかもその気もないのに不用意に近付くな! それから、自分だけ暖まって、女に火を熾させるような男は、おまえの前に立つ資格もない! 覚えておけ!」
小声で叱責され、それが終わると同時に、力技でベッドの上に放り上げられた。
ソランはあまりにびっくりして、手荒く布団がかけられるまま大人しくしていた。殿下を相手に恐怖を感じている自分にも驚いていた。命の遣り取りをしているわけではなかったが、己より強く大きな個体を前にして、緊張していた。腕を掴まれても振りほどけなかったのだ。たいていの男となら互角に渡り合えるソランにとっては、滅多にないことだった。
やがて、火が大きくなり、あたりが明るくなった。ソランは怖々布団から顔を出し、殿下の方を窺った。
――そろそろ行った方がいいのだろうか。というより、行かねばなるまい。あれでは背中が寒いだろう。何か羽織る物を持っていかないと。
ソランはまず、ベッドサイドに用意してある自分のガウンを着込み、足音を忍ばせて下りた。それから衣裳部屋に旅行用のマントを取りに行った。あれなら、多少体が大きくても問題ない。ゲルダ衣裳店のチェイニー婦人が、北方の寒い国に生息する何とかというヤギの毛で織ったもので、水を弾く上に軽くて柔らかくて暖かいのだと説明していた一級品だ。それを持って殿下の許へ行った。
「どうぞこれを羽織ってください」
声をかける。殿下は振り向いて腕を伸ばした。渡すと、襟元に毛皮の付いた女物のマントをしばらく眺めていたが、借りるぞ、と言って羽織った。
ソランは人一人分ほどの間を空けて、その隣に座った。カタリと剣が床にぶつかって立てた音で、自分が無意識に剣を持って歩いていたことに苦笑する。殿下も剣を見ていて、淑女らしくない行動に気まずい思いでそれを遠ざけ、クッションの下にしまいこんだ。
「おまえは、いったいどういう育ち方をしたんだ。どう見ても、女装より男装の方が板についているとしか思えんのだが」
ソランは情けない思いに駆られながら、質問に答えた。
「私の一族は、婚約するまで、男女逆に育てられるのです」
「アーサーの差し金ではなく?」
「はい。祖母も母もそうでした。あ」
でも、弟は違う、と思いつく。もしかして初めてではないか。あの領地内で生まれず、育てられもしなかったジェナスの後裔は。
「なんだ」
「いえ、たいしたことでは」
「いいから言え」
殿下は不機嫌だった。ソランは仕方なく説明する。
「弟はちゃんと男として育てられていると気付いたので」
「弟がいるのか?」
意外そうに聞き返される。
「はい。三つ下の」
「男児がいるのに、なぜおまえが後継者なんだ?」
「聞いた話では、一人っ子の母を嫁に出す条件が、第一子を後継者として差し出すことだったらしいです」
殿下は少し考え、怪訝そうに尋ねた。
「両親は離れた場所で暮らしているのか?」
「はい。二歳を過ぎた頃から、共に暮らしたことはありません」
眉を顰める。だが、そうか、とだけしか言わなかった。恐らく、ソランが寂しい思いをしたのではないかとか、そういうことを考えてくれたに違いない。
「寂しくなかったといえば嘘ですが、その分、たくさんの人に愛されて育ちました」
「ああ。昨日もそんなことを言っていたな」
「それと、もう一つ殿下に申し上げておかなければいけないことを思い出しました」
今の今まで忘れていた。ソランにとっては当たり前のことで、それ以外の自分は在りようもなかったから、それによって他の人間にどんな影響を与えるかなど、ほとんど考えたこともなかったのだ。
自分が、誰の後継者で、どの神に仕える神官であるのか。
けっして人には知られてはいけないと言い聞かされてきた。邪神と呼ばれる神を崇めているなどとは。
それでも、殿下には教えなければいけないだろう。それが、殿下の御世に陰りを与えることにならないともかぎらないのだから。
ソランは緊張気味に告白した。
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