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第八章 思い交わす時
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殿下は身を乗り出し、暖炉に一つ薪を足した。やがて火が新しい糧を喰い、明るく大きく闇を照らした。
「私には、その男の気持ちがわかるような気がする」
元の位置に座りなおし、殿下が口を開いた。
「己がどうなろうと、どうしても失いたくないものはある」
殿下はソランに顔を向けた。真剣なまなざしだった。それは英雄の君の話をしているようでありながら、ソランに投げかけられた言葉としか聞こえなかった。
思わず彼女は顔を歪めた。その思いがどうしようもなく怖かった。
「これを私にあずけたのは、おまえの返事だと思ってよいのだな?」
夜着のポケットから、ソランの任命書を取り出す。ソランは頷けなかった。それを見て、殿下は苦笑した。
「これは、もう返さぬ」
殿下は再びポケットにしまうと、ソランを見据えた。正面から彼女の視線を捉えて、言い聞かせる。
「これで、おまえは、私のものだ」
あまりの心理的な衝撃に、ソランは眩暈がした。心臓が壊れかかっている。早鐘のようで、苦しくてたまらなかった。
けれど、気掛かりから逃れることは出来なかった。うろたえた口調であっても、言わずにはいられなかった。
「あの、ですが、私は、古いいわくに縛られているのかも」
「それが?」
殿下は途中で言葉をさえぎった。
「いわくなら、私にもある。今さら一つ二つ増えたとて、どうということはない」
「でも」
「言っただろう。その男の気持ちがわかると」
頑なな目だった。こちらからは切り崩せないと悟る。ソランは違うことを口にした。
「そ、それに、男性を好まれるんですよね?」
「私が? 冗談だろう。なぜ、……ああ、そう思ったのか」
少々ムッとし、次に呆れ、最後に激情を宿した瞳で、ソランへと身を乗り出してきた。
「私は、おまえが欲しいだけだ。おまえだから、たとえ男でも受け入れられると思った。私がどのくらいおまえが女だったらと望んでいたか」
そこで、はたと思いついたように、微かに眉を寄せる。
「ところで、おまえ、歳はいくつだ? まさか、十三、四ということはなかろうな」
「十六です」
「ならば、何も問題はないな」
「問題?」
「子供には手を出せん」
ニヤリとする。
ソランはいてもたってもいられなくなり、ずりずりとにじって後ろへ退いた。手は力を入れてないと震えるし、心臓は口から転げ落ちそうだった。体も熱かったが、顔は火がつくかと思うほど熱かった。
「逃げるな。逃げれば、追う」
逃げなくても捕まえるくせに、と思って、ソランは涙目で殿下を睨んだ。
殿下の表情が変わる。笑みとともに余裕が消え、鋭く恐ろしささえ感じるものに。おかしな動きをしたら、襲いかかられて、がぶりと噛みつかれてしまいそうだった。
「それで? 他に問題はあるか?」
「あ、あります。何もはっきりしてはいないし、解決もしていません」
「ならば、二人で解決していけばいい」
「でも、私は」
「おまえを失うくらいなら、死んだ方がましだ」
「殿下!」
ソランは泣きそうな声をあげた。
なんてことを言うのか。
「おまえは、まったく」
手が伸びてきて、すっと頬を手の甲で撫でられた。髪の束を取り、耳に掛けられる。そのままうなじを撫ぜられ、肌だけでなく血までざわめく。
大きくてあたたかい手だった。力強いそれに触れられると、息が止まった。近くで覗きこむ殿下の瞳に捕らわれる。
ふっとそこに微笑がのぼり、不思議な思いで見つめていると、唇に口付けられた。軽く優しく食まれ、離れていく。
「少しは、私を信じろ」
ソランは泣きたくなった。不安と、それを押し退けてくれる存在が、拮抗していた。
「怖がらなくていい。おまえが私にとって光であるように、私の中にも光はあるのだろう?」
確かにある。ソランには殿下こそが光に見える。あまねくこの地を照らし、安寧をもたらす光だ。
「それは、そんなに微かな光か?」
喉が詰まって声を出せなくて、ただ何度も横に首を振った。
「だったら、大丈夫だ。おまえが私の盾となり剣となってくれるように、私もおまえの盾となり剣となろう」
腰に腕がまわり、優しく引寄せられる。ソランはぎゅっと目をつぶった。抱え込まれ、殿下の腕に包まれて、力が抜けていく。そして、口付けを受ける。
長く、長く、深い、前の二回とは比べようもない嵐のようなそれを。
必死だった。恐怖を消してくれるそれにすがりついた。ただただ、受け入れ、応える。そうして、自分がくぐもった声をあげ、弱々しくもがいては相手を煽っていることになど、気付かなかった。
やがて、朦朧としてくったりとしたころ、やっと唇が開放され、痛いくらいにきつく抱きしめられた。
「ああ、くそ、気が狂いそうだ」
耳元で囁かれる。
「覚えていろよ、戦から帰ったら、思う存分、抱くからな」
「戦? 戦には私もついていきます」
物騒な言葉に反応し、ほとんど無意識に宣言していた。
危険な場所に、この人を一人で送り出すなんて嫌だった。絶対に傍にいる。離れたくない、と。
「ああ。連れて行く。だから、今日はここまでだ」
殿下はソランの頭を抱え込んで、己の胸に押し付けた。
「子でもできたら、さすがに連れて行けんからな」
その意味を理解して、いろんな意味で安堵して、今度こそ心の底から力が抜けた。身構えないで、愛しい思いだけで殿下の背に腕をまわす。思いのたけ、頬をすりよせる。
「だから、おまえは」
呻くような、憤慨するような、弱りきったような、そんな声だった。でも、許されて受け入れられているのがよくわかる。何事にもうろたえないこの人を、困らせていることに嬉しくなる。
ソランはこの人のものだ。そして、この人も、たぶんソランのものになってくれるのだ。
恐れは完全に消えたわけではなかった。それは、彼を愛する限り、一生消えないのだろう。失いたくないと思えばこその、痛みなのだから。
けれど、もう、自分の一生を彼から切り離して考えることはできなかった。彼も同じ気持ちなのだと、口付けを通して伝えてもらった。この先に何があろうと、この人を失うより辛いことなどありはしないから。それは、同じだから。
ソランは甘えた。抱きついて、抱き返してもらう。そうするだけで、癒される。
そうして、心が満たされるまで、思う存分抱きしめてもらったのだった。
「私には、その男の気持ちがわかるような気がする」
元の位置に座りなおし、殿下が口を開いた。
「己がどうなろうと、どうしても失いたくないものはある」
殿下はソランに顔を向けた。真剣なまなざしだった。それは英雄の君の話をしているようでありながら、ソランに投げかけられた言葉としか聞こえなかった。
思わず彼女は顔を歪めた。その思いがどうしようもなく怖かった。
「これを私にあずけたのは、おまえの返事だと思ってよいのだな?」
夜着のポケットから、ソランの任命書を取り出す。ソランは頷けなかった。それを見て、殿下は苦笑した。
「これは、もう返さぬ」
殿下は再びポケットにしまうと、ソランを見据えた。正面から彼女の視線を捉えて、言い聞かせる。
「これで、おまえは、私のものだ」
あまりの心理的な衝撃に、ソランは眩暈がした。心臓が壊れかかっている。早鐘のようで、苦しくてたまらなかった。
けれど、気掛かりから逃れることは出来なかった。うろたえた口調であっても、言わずにはいられなかった。
「あの、ですが、私は、古いいわくに縛られているのかも」
「それが?」
殿下は途中で言葉をさえぎった。
「いわくなら、私にもある。今さら一つ二つ増えたとて、どうということはない」
「でも」
「言っただろう。その男の気持ちがわかると」
頑なな目だった。こちらからは切り崩せないと悟る。ソランは違うことを口にした。
「そ、それに、男性を好まれるんですよね?」
「私が? 冗談だろう。なぜ、……ああ、そう思ったのか」
少々ムッとし、次に呆れ、最後に激情を宿した瞳で、ソランへと身を乗り出してきた。
「私は、おまえが欲しいだけだ。おまえだから、たとえ男でも受け入れられると思った。私がどのくらいおまえが女だったらと望んでいたか」
そこで、はたと思いついたように、微かに眉を寄せる。
「ところで、おまえ、歳はいくつだ? まさか、十三、四ということはなかろうな」
「十六です」
「ならば、何も問題はないな」
「問題?」
「子供には手を出せん」
ニヤリとする。
ソランはいてもたってもいられなくなり、ずりずりとにじって後ろへ退いた。手は力を入れてないと震えるし、心臓は口から転げ落ちそうだった。体も熱かったが、顔は火がつくかと思うほど熱かった。
「逃げるな。逃げれば、追う」
逃げなくても捕まえるくせに、と思って、ソランは涙目で殿下を睨んだ。
殿下の表情が変わる。笑みとともに余裕が消え、鋭く恐ろしささえ感じるものに。おかしな動きをしたら、襲いかかられて、がぶりと噛みつかれてしまいそうだった。
「それで? 他に問題はあるか?」
「あ、あります。何もはっきりしてはいないし、解決もしていません」
「ならば、二人で解決していけばいい」
「でも、私は」
「おまえを失うくらいなら、死んだ方がましだ」
「殿下!」
ソランは泣きそうな声をあげた。
なんてことを言うのか。
「おまえは、まったく」
手が伸びてきて、すっと頬を手の甲で撫でられた。髪の束を取り、耳に掛けられる。そのままうなじを撫ぜられ、肌だけでなく血までざわめく。
大きくてあたたかい手だった。力強いそれに触れられると、息が止まった。近くで覗きこむ殿下の瞳に捕らわれる。
ふっとそこに微笑がのぼり、不思議な思いで見つめていると、唇に口付けられた。軽く優しく食まれ、離れていく。
「少しは、私を信じろ」
ソランは泣きたくなった。不安と、それを押し退けてくれる存在が、拮抗していた。
「怖がらなくていい。おまえが私にとって光であるように、私の中にも光はあるのだろう?」
確かにある。ソランには殿下こそが光に見える。あまねくこの地を照らし、安寧をもたらす光だ。
「それは、そんなに微かな光か?」
喉が詰まって声を出せなくて、ただ何度も横に首を振った。
「だったら、大丈夫だ。おまえが私の盾となり剣となってくれるように、私もおまえの盾となり剣となろう」
腰に腕がまわり、優しく引寄せられる。ソランはぎゅっと目をつぶった。抱え込まれ、殿下の腕に包まれて、力が抜けていく。そして、口付けを受ける。
長く、長く、深い、前の二回とは比べようもない嵐のようなそれを。
必死だった。恐怖を消してくれるそれにすがりついた。ただただ、受け入れ、応える。そうして、自分がくぐもった声をあげ、弱々しくもがいては相手を煽っていることになど、気付かなかった。
やがて、朦朧としてくったりとしたころ、やっと唇が開放され、痛いくらいにきつく抱きしめられた。
「ああ、くそ、気が狂いそうだ」
耳元で囁かれる。
「覚えていろよ、戦から帰ったら、思う存分、抱くからな」
「戦? 戦には私もついていきます」
物騒な言葉に反応し、ほとんど無意識に宣言していた。
危険な場所に、この人を一人で送り出すなんて嫌だった。絶対に傍にいる。離れたくない、と。
「ああ。連れて行く。だから、今日はここまでだ」
殿下はソランの頭を抱え込んで、己の胸に押し付けた。
「子でもできたら、さすがに連れて行けんからな」
その意味を理解して、いろんな意味で安堵して、今度こそ心の底から力が抜けた。身構えないで、愛しい思いだけで殿下の背に腕をまわす。思いのたけ、頬をすりよせる。
「だから、おまえは」
呻くような、憤慨するような、弱りきったような、そんな声だった。でも、許されて受け入れられているのがよくわかる。何事にもうろたえないこの人を、困らせていることに嬉しくなる。
ソランはこの人のものだ。そして、この人も、たぶんソランのものになってくれるのだ。
恐れは完全に消えたわけではなかった。それは、彼を愛する限り、一生消えないのだろう。失いたくないと思えばこその、痛みなのだから。
けれど、もう、自分の一生を彼から切り離して考えることはできなかった。彼も同じ気持ちなのだと、口付けを通して伝えてもらった。この先に何があろうと、この人を失うより辛いことなどありはしないから。それは、同じだから。
ソランは甘えた。抱きついて、抱き返してもらう。そうするだけで、癒される。
そうして、心が満たされるまで、思う存分抱きしめてもらったのだった。
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