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第九章 束の間の休息(海賊の末裔の地キエラにおいて)
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翌日、殿下が政務に行ってしまうのと入れ違いに、アロナが来た。
「おはようございます、ソラン様。ご体調はいかがですか?」
「おはようございます。よく眠れて、すっかり疲れもとれました」
彼女が問いかけるようにスーシャに目を向ける。
「昨夜はお早くおやすみになられたとのことです」
彼女は一つ頷き、ソランに視線を戻す。
「でしたら、城中をご案内してよろしいでしょうか?」
それはソランの望みだった。ここは殿下の居城であるが、だからといって絶対に安全な場所など地上のどこにもないと思っている。
味方である領主たちが用意した宿営地でさえ、ソランは先に私兵を使って安全を確かめていたくらいだ。
城の構造、そして何よりも脱出経路を確かめておきたかった。
「すべての部屋を見せていただけますか?」
「かしこまりました。では、お着替えをお願いいたします」
ソランは自分の格好を見下ろした。今日も彼女は軍服姿だった。最も動きやすい服装である。いちいち裾や袖や飾りを気にすることもないので、楽でもあった。
「もちろんお似合いでございます。ただ、殿下はこちらへは収穫の確認だけではなく、ご婚約者と気兼ねなくくつろぐためにいらっしゃったと承っております。どうか美しく装ってさしあげてくださいませ。きっとお喜びになりましょう」
「そうでしょうか」
ソランは信じられずに疑問を口にした。がさつだとか、形がどうでもやることに変わりはないとか、そんなことしか言われたことがない。自業自得であり、恥ずかしいかぎりであるが、それを差し引いても殿下がそういったことに興味があるとは思えなかった。
「本当でございますよ。それに、殿下が男性と婚約なさったという噂も根強く残っておりますので、ぜひそれも払拭していただきたいのです」
ソランははっとした。それは確かに彼女の役目である。そのような噂がどれほど下世話に話されるか、想像に難くない。それに、噂を真に受けたために引き起こされるだろう、諸々の面倒事の心配もある。
ほとんどは世継ぎのできないことを憂慮した、ソランの暗殺計画だろうから、殿下に対する危険は少ない。ただ、それを行おうとするのは、殿下の忠実な支持者であろうことが問題だった。勘違いで軋轢を作るのは避けたい。
「わかりました。しかし、剣だけは手放せません」
アロナは一度剣に視線を落とし、再びソランと視線を合わす。
「クレインの使い手に、私ごときが申し上げることはございません。どうぞお持ちください」
彼女は見た目は柔らかで優しげな容貌であるが、言葉を交わすほどに、たおやかな強さが見えてくる。さすがは殿下の領主代行の奥方である。ソランはその人柄にとても惹かれた。
ソランは微笑んで頷き、口を開いた。
「では、着替えの用意をお願いします」
「かしこまりました」
彼女自らが先に進み、衣裳部屋の扉を開いて押さえる。
「どうぞこちらへ」
選んで着付けてくれたのは、薄い黄色のドレスだった。髪は脇だけ編んで、ドレスの色と良く似た色の真珠の髪留めで纏められ、あとは自然に背中に流された。剣帯もいつものものではなく、このドレス用に誂えた革と金を使った新しいものだ。それに真珠のイヤリングとネックレスを着ける。大粒で黄金色のそれは、とても美しかった。
真珠の装身具類は殿下が指示して用意させたのだという。見るからに一級品がふんだんに使われており、しかもそれが、ピンクや白や黄金という真珠の色ごとに、揃いで幾種類もあった。ありがたいというより、畏れ多い。ソランの物と言われても実感がわかず、お借りしているという感覚がどうしても拭えない。
着付けが終わると気持ちを切り替え、ソランはまず剣帯の具合を確かめた。腰を落とし、足裁きの具合をみる。スカートが踝まであり、滑らかな布地が足にまとわりついた。裾を踏んでしまいそうだった。
「こちらを引いてみてください」
腰の少し下にある飾りを引っ張ると、右側が攣れて丈が短くなった。
「反対側にもございます。とっさには間に合いませんが、いざまさかの時は、その紐を縛っていただければ、邪魔にはならないかと」
スーシャとファティエラが跪いて、攣れた場所を丁寧に伸ばし、裾を直してくれる。
「これは誰が?」
「王妃陛下のご指示で、ゲルダ衣裳店が工夫を凝らしたと聞いております」
「帰ったらお礼を申し上げないと」
気遣いばかりいただいて、ずっと自分のことにかかりきりだったことを後悔する。閉じ込められたことに堪え切れず、あの頃は鬱屈して、物事にうまく集中できなかった。それがどれほど無作法だったか、今ならよくわかる。
「お手紙をさしあげたらいかがでしょう」
「お手紙」
それはやはり、報告書とは違うものだろうか、と戸惑う。よくよく振り返ってみると、そんなものは書いたことがない。もらったこともない。いったい、何を書いたらよいのだろう。
「何日かしたら、こちらでのできごとの報告と一緒に、お礼をお書きになればよろしいでしょう。思ったことを素直に書けばよいのです。ご心配でしたら、推敲のお手伝いをいたします」
「はい。お願いします」
ソランはほっとして顔がゆるんだ。アロナも微笑む。
「では、まず、城内の探検をいたしましょうか」
探検。その楽しい響きに、ソランは大輪の花のように笑った。
「おはようございます、ソラン様。ご体調はいかがですか?」
「おはようございます。よく眠れて、すっかり疲れもとれました」
彼女が問いかけるようにスーシャに目を向ける。
「昨夜はお早くおやすみになられたとのことです」
彼女は一つ頷き、ソランに視線を戻す。
「でしたら、城中をご案内してよろしいでしょうか?」
それはソランの望みだった。ここは殿下の居城であるが、だからといって絶対に安全な場所など地上のどこにもないと思っている。
味方である領主たちが用意した宿営地でさえ、ソランは先に私兵を使って安全を確かめていたくらいだ。
城の構造、そして何よりも脱出経路を確かめておきたかった。
「すべての部屋を見せていただけますか?」
「かしこまりました。では、お着替えをお願いいたします」
ソランは自分の格好を見下ろした。今日も彼女は軍服姿だった。最も動きやすい服装である。いちいち裾や袖や飾りを気にすることもないので、楽でもあった。
「もちろんお似合いでございます。ただ、殿下はこちらへは収穫の確認だけではなく、ご婚約者と気兼ねなくくつろぐためにいらっしゃったと承っております。どうか美しく装ってさしあげてくださいませ。きっとお喜びになりましょう」
「そうでしょうか」
ソランは信じられずに疑問を口にした。がさつだとか、形がどうでもやることに変わりはないとか、そんなことしか言われたことがない。自業自得であり、恥ずかしいかぎりであるが、それを差し引いても殿下がそういったことに興味があるとは思えなかった。
「本当でございますよ。それに、殿下が男性と婚約なさったという噂も根強く残っておりますので、ぜひそれも払拭していただきたいのです」
ソランははっとした。それは確かに彼女の役目である。そのような噂がどれほど下世話に話されるか、想像に難くない。それに、噂を真に受けたために引き起こされるだろう、諸々の面倒事の心配もある。
ほとんどは世継ぎのできないことを憂慮した、ソランの暗殺計画だろうから、殿下に対する危険は少ない。ただ、それを行おうとするのは、殿下の忠実な支持者であろうことが問題だった。勘違いで軋轢を作るのは避けたい。
「わかりました。しかし、剣だけは手放せません」
アロナは一度剣に視線を落とし、再びソランと視線を合わす。
「クレインの使い手に、私ごときが申し上げることはございません。どうぞお持ちください」
彼女は見た目は柔らかで優しげな容貌であるが、言葉を交わすほどに、たおやかな強さが見えてくる。さすがは殿下の領主代行の奥方である。ソランはその人柄にとても惹かれた。
ソランは微笑んで頷き、口を開いた。
「では、着替えの用意をお願いします」
「かしこまりました」
彼女自らが先に進み、衣裳部屋の扉を開いて押さえる。
「どうぞこちらへ」
選んで着付けてくれたのは、薄い黄色のドレスだった。髪は脇だけ編んで、ドレスの色と良く似た色の真珠の髪留めで纏められ、あとは自然に背中に流された。剣帯もいつものものではなく、このドレス用に誂えた革と金を使った新しいものだ。それに真珠のイヤリングとネックレスを着ける。大粒で黄金色のそれは、とても美しかった。
真珠の装身具類は殿下が指示して用意させたのだという。見るからに一級品がふんだんに使われており、しかもそれが、ピンクや白や黄金という真珠の色ごとに、揃いで幾種類もあった。ありがたいというより、畏れ多い。ソランの物と言われても実感がわかず、お借りしているという感覚がどうしても拭えない。
着付けが終わると気持ちを切り替え、ソランはまず剣帯の具合を確かめた。腰を落とし、足裁きの具合をみる。スカートが踝まであり、滑らかな布地が足にまとわりついた。裾を踏んでしまいそうだった。
「こちらを引いてみてください」
腰の少し下にある飾りを引っ張ると、右側が攣れて丈が短くなった。
「反対側にもございます。とっさには間に合いませんが、いざまさかの時は、その紐を縛っていただければ、邪魔にはならないかと」
スーシャとファティエラが跪いて、攣れた場所を丁寧に伸ばし、裾を直してくれる。
「これは誰が?」
「王妃陛下のご指示で、ゲルダ衣裳店が工夫を凝らしたと聞いております」
「帰ったらお礼を申し上げないと」
気遣いばかりいただいて、ずっと自分のことにかかりきりだったことを後悔する。閉じ込められたことに堪え切れず、あの頃は鬱屈して、物事にうまく集中できなかった。それがどれほど無作法だったか、今ならよくわかる。
「お手紙をさしあげたらいかがでしょう」
「お手紙」
それはやはり、報告書とは違うものだろうか、と戸惑う。よくよく振り返ってみると、そんなものは書いたことがない。もらったこともない。いったい、何を書いたらよいのだろう。
「何日かしたら、こちらでのできごとの報告と一緒に、お礼をお書きになればよろしいでしょう。思ったことを素直に書けばよいのです。ご心配でしたら、推敲のお手伝いをいたします」
「はい。お願いします」
ソランはほっとして顔がゆるんだ。アロナも微笑む。
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