暁にもう一度

伊簑木サイ

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第九章 束の間の休息(海賊の末裔の地キエラにおいて)

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「遠い昔、私は巫子でした。常に神意と繋がることによって、神に仕えておりました」

 静かな声に、はっとしてジェナスを見た。立ったままの彼女は、先程ソランの手を所望した時と同じに、儚く見えた。

「私は神と一心同体だと思っておりました。神のお言葉を代弁できるのは私だけだと自負し、身も心も捧げて、ただひたすらにお仕えしているつもりでおりました」

 彼女は視線を落とし、息を整えるように深く吐いた。

「なんと思い上がったことであったか。恥ずかしさのあまり、消えてなくなってしまいたいほどです。あれは仕えるなどというものではなかったのです。己の才能に振りまわされた、自己満足でしかありませんでした。私はずっと、神意を失った喪失感から、宝剣の主を恨んでまいりました。けれど、真に神の意志を地上で体現していたのは、私ではなく、彼だったのでしょう。だから神は彼を選ばれた」

 ジェナスが再び顔を上げた。ソランを見て、すべてを見通したかのような透き通った美しい笑みを浮かべる。

「覚えておられなくてもよいのです。あなた様はあなた様でいらっしゃれば、それだけでよいのです。何も失われてなどいなかったのですから」

 そんなわけはない。ソランは人で、神の記憶すらない。なのに、同一だと言わんばかりのそれに、本能的な恐怖を抱く。神と同一視されるなど、耐えられなかった。そんなものに、ソランはどうやってもなれはしない。
 ソランは顔を強張らせ、横に首を振った。

「私は違う。違います」
「ええ、そうです。違います。ソラン様はソラン様であって、失われた神ではいらっしゃらない。けれど、同じ意志を宿す魂が存在するのならば、器は何であろうとかまわないのです。その意志こそが世界を変えるのですから」

 ソランは思わず殿下へと振り向いた。ソランを惹き付けてやまぬ意志は、彼にこそ宿っている。

「なんだ、急に。頑固さではおまえに負けるぞ」
 殿下は余裕の態度で軽口をたたいた。ソランは呆気に取られた。真面目な話の佳境で、どうしてふざけられるのかがわからない。

「そういうことだろう? どうしてもしたいことがある。どうあっても、どうなっても、せずにはいられない。それを頑固と言わず、何と言うのだ?」
「それはそうかもしれませんが」

 何か全部台無しな感じがする。ジェナスの深遠な含蓄のある言葉も、頑固の一言で一括りにしてしまうなんて。

「それでおまえたちは、宝剣の主を王に据えようとしてきたのだな。地上の守護をさせるために」
「はい」
「だが、王位に就くだけでは成就しなかった。いくらかの騒乱はありはしたが、おおむね我が国は安定し、栄えてきた。それを以ってしても加護は解けなかった。これ以上どうせよと? 世界統一か? そんなものは新たな火種にしかならぬ。それを宝剣の主が望んだとは思えぬ。それとも彼はそれほど野心家だったのか?」

 乳兄弟だったというクアッドの話では、領土拡大のための戦には、むしろ反対していたと言っていた。

「いいえ。そのようなことに拘泥してはいませんでした。部下たちの行く末についてはずいぶんと心配していましたが。それについては私がきちんと請け合いましたので、納得していたはずです。後にマイラに彼らへの祝福を願ってもいますし、最期の時に、彼らのことを何か願ったとは考えられません」
「最期?」

 殿下は疑問を投げかけ、すぐに自分で答えを導きだした。

「ああ、そうだったか。矢の呪いから逃れるために、一度加護を解いてもらって死んだのだな。だから、今ある加護は、死ぬ間際にもう一度願ったものなのか」
「そうでございます」

 殿下は動きを止めて考え込んだ。ソランの肩を抱く手からも力が抜けているのがわかった。ソランは邪魔しないように、息さえひそめて見守った。
 やがて、殿下はぽつりと言葉を零した。

「私なら、そんな大それたことは望まぬがな」

 ずっと見守っていたソランと目が合うと、急に甘やかに笑う。肩を抱く手に力がこもった。

「私なら、」

 ソランは身構えた。いつものあれだと思った。人目を憚らず、赤面するより他はないような口説き文句を囁く気に違いない。とっさに手が出て、殿下の口を塞いでいた。
 何とも言えない静寂が一同の間に落ちた。ソランは、おかしそうに瞳を煌かせる殿下と見つめ合ったまま固まった。

「ソラン様、非常に重要な場面なんですが」

 ディーが笑いを堪えて指摘してくる。

「重要、ですか?」
「重要ですねえ。ね、ジェナス様」

 ディーの言葉につられてそちらを見ると、美しい笑みはそのままに、けれど儚さは消えて存在感の増したジェナスが、妖艶に首を傾げた。

「いいえ、さほどは。きっと、お耳汚しの戯言ですわ」

 突然、むんずとばかりに手をつかまれ、口を塞いでいたのを外された。殿下が立ったままのジェナスを見上げ、にやりと人の悪い笑みを向ける。

「戯言だと? だが真面目な話だ。その可能性はないのか?」
「さあ、どうでしょうか。そのような話、見たことも聞いたこともございませんが。ただ、そうだとしたら、もう八割方は叶っているのではありませんか?」

 笑みは消え、冷たいまなざしで刺々しく言う。

「まさか。まだ序の口だ。先は長いぞ、ソラン」

 最後に急に名を呼ばれ、驚いて瞬きを繰り返した。

「強欲な」

 ジェナスの忌々しいと言わんばかりの断罪口調に、

「恋とはそういうものであろう?」

 殿下は聞いた者に鳥肌を立たさずにはいられない台詞を、サラッと口にした。それにとうとうジェナスは舌打ちをして、嫌そうに横を向いてしまった。
 ソランには話がまったく掴めなかった。二人が嫌味の応酬をして、どうやら殿下が勝ったらしいことはわかったのだが。
 機嫌のいい殿下と、すっかりしらけているらしいジェナスの間で、身を小さくしながら恐る恐る尋ねる。

「あの、それで、どんな願いだったのでしょう?」
「それはもちろん」
「はっきりしたことはよく調べてからご報告申し上げます」

 くるりとこちらを向いたジェナスが、殿下の声を掻き消す勢いで言った。幼子に向けるが如き、それはそれは優しい笑顔であった。

「それまでは、ソラン様が隣に置いてやっている下品な輩の妄想には、耳を貸さないようになさってくださいね。本当にお耳汚しでございますから」
「ずいぶんな物言いだな、ウィシュミシア代表」
「おや、下品な輩が主殿だとお認めになるので?」

 どんどん険悪になっていく空気に堪え切れず、ソランは大きな声をあげた。

「喉が渇きました! 小腹も空いた気がします! お茶を用意していただきましょう! イアル、スーシャとファティエラを呼んで!」

 一触即発の緊張を霧散させんと、ソランは必死に早口でまくしたてたのだった。
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