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第十章 バートリエ事変
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彼らが出て行ってしまうと、殿下は椅子の背にもたれながら、傍に立つソランを見上げた。
「ずいぶんおとなしかったな」
揶揄しているというより、疑問に近い雰囲気だ。だが、ソランには何を指してそう言われるのかがわからなかった。
「何がですか?」
「おまえも先に行くと言いだすかと思ったのだ。望むらなら許してもよいとも思っていた」
心の内を見抜かれていたことに、ソランはバツの悪い思いをする。
「少し、だけです。私が行ったところで、ファティエラたちやジェナス殿以上のことはできません。それより、私は殿下の軍医です。殿下のお傍に控えているべきだと思いました」
とたんに殿下は、おかしそうに口元を歪ませた。くっくっくっくと喉の奥で笑い、体を震わす。
人が真面目に話しているのに、失礼にもほどがある。ソランは憤慨して抗議した。
「何で笑うんですか。いくら殿下でもそれは失礼でしょう!」
「すまん、馬鹿にしているわけでは」
笑いに震えた声で謝り、我慢できなくなったように、声をあげて笑いはじめた。
ソランはすっかりむくれて、部屋を出て行くことにした。なのに、踵を返した彼女の腕を、後ろから掴み、引き寄せようとする。
「怒るな。短い間に、ずいぶん聞き分けがよくなったものだと思ってな」
振り払ったはずの腕は、しっかりとソランの腰にまわり、がっちりと捕らえていた。未だ自分の方へと向こうとしないソランにかまわず、話しかける。
「下がっていろと言い聞かせておいたのに、矢面に立ち、剣まで投げ捨てたのは誰だ? 命を狙われているから隠れていろというのに、がんとして受け付けなかったのも同じ者だな?」
「それとこれとは状況が違います。そこまで馬鹿ではありません!」
ソランは振り返って、キッと睨みつけた。
「うん。それから私をこんな風に邪険に扱って睨みつけるのも、おまえくらいだしな?」
「殿下が一々からかわれるからです!」
「ああ。からかいがいがあるから、つい」
ソランは、むうっと唇を引き結んだ。腰を掴んでいる手を両方とも叩いてやる。ぴしゃん、といういい音がした。そのまま強気に睨みつけていると、殿下の目つきが剣呑に変わっていった。頭からばりばりと喰われてしまいそうだ。顔には出さずとも、なにかがまずいと後悔しはじめたソランから目を離さず、殿下は低い声で命じた。
「ディー、イアル、下がっていろ」
「あ、待って、私も行く」
動いた彼らを思わず目で追って、口走ったソランに、
「おまえは、本当に、可愛いな」
殿下は傲慢で色気のある笑みを浮かべて、有無を言わさず自分の膝へとソランを抱き上げた。
「殿下、そんな場合では」
少々強引な殿下相手に、下手に暴れて怪我でもさせたらと思うと、弱腰になってしまう。それに、殿下に求められれば、結局は拒絶などできはしないのだ。
「ソラン」
近くなった瞳は思ったよりも穏やかで、慈しみに満ちていた。
「ダニエルの言っていたことが本当だとしても、おまえのせいでも、私のせいでもない」
気付かれないように胸の奥に沈めていた不安を、不意打ちで指摘されて、ソランは息を止めた。
「失われた神のせいでも、宝剣の主のせいでもない」
ゆっくりと言い聞かせるように話す殿下を凝視する。
「遠い昔に神々はいなくなり、それでも我々はこうして生きている。最早地上には人しかいない。だから、どのような行いも、それはすべて人が行っているのだ。神の名の下に正当を主張するのなら、それは己の非道をごまかすために、騙っているにすぎない」
ソランは泣きたいような気持ちになって声を出せず、こくりと頷いた。
「私たちは、償いをしようとしているのではない。私たちの信じることを行おうとしているだけだ。そうだろう、ソラン?」
もう一度従順に頷けば、殿下は優しく微笑んだ。
「口付けてもいいか?」
少しだけからかうように言う。ソランの気持ちが少しでも上向くように気遣ってくれているのがわかるから、今度は怒ったりしなかった。ただ三度頷いて、静かに瞼を閉じたのだった。
「ずいぶんおとなしかったな」
揶揄しているというより、疑問に近い雰囲気だ。だが、ソランには何を指してそう言われるのかがわからなかった。
「何がですか?」
「おまえも先に行くと言いだすかと思ったのだ。望むらなら許してもよいとも思っていた」
心の内を見抜かれていたことに、ソランはバツの悪い思いをする。
「少し、だけです。私が行ったところで、ファティエラたちやジェナス殿以上のことはできません。それより、私は殿下の軍医です。殿下のお傍に控えているべきだと思いました」
とたんに殿下は、おかしそうに口元を歪ませた。くっくっくっくと喉の奥で笑い、体を震わす。
人が真面目に話しているのに、失礼にもほどがある。ソランは憤慨して抗議した。
「何で笑うんですか。いくら殿下でもそれは失礼でしょう!」
「すまん、馬鹿にしているわけでは」
笑いに震えた声で謝り、我慢できなくなったように、声をあげて笑いはじめた。
ソランはすっかりむくれて、部屋を出て行くことにした。なのに、踵を返した彼女の腕を、後ろから掴み、引き寄せようとする。
「怒るな。短い間に、ずいぶん聞き分けがよくなったものだと思ってな」
振り払ったはずの腕は、しっかりとソランの腰にまわり、がっちりと捕らえていた。未だ自分の方へと向こうとしないソランにかまわず、話しかける。
「下がっていろと言い聞かせておいたのに、矢面に立ち、剣まで投げ捨てたのは誰だ? 命を狙われているから隠れていろというのに、がんとして受け付けなかったのも同じ者だな?」
「それとこれとは状況が違います。そこまで馬鹿ではありません!」
ソランは振り返って、キッと睨みつけた。
「うん。それから私をこんな風に邪険に扱って睨みつけるのも、おまえくらいだしな?」
「殿下が一々からかわれるからです!」
「ああ。からかいがいがあるから、つい」
ソランは、むうっと唇を引き結んだ。腰を掴んでいる手を両方とも叩いてやる。ぴしゃん、といういい音がした。そのまま強気に睨みつけていると、殿下の目つきが剣呑に変わっていった。頭からばりばりと喰われてしまいそうだ。顔には出さずとも、なにかがまずいと後悔しはじめたソランから目を離さず、殿下は低い声で命じた。
「ディー、イアル、下がっていろ」
「あ、待って、私も行く」
動いた彼らを思わず目で追って、口走ったソランに、
「おまえは、本当に、可愛いな」
殿下は傲慢で色気のある笑みを浮かべて、有無を言わさず自分の膝へとソランを抱き上げた。
「殿下、そんな場合では」
少々強引な殿下相手に、下手に暴れて怪我でもさせたらと思うと、弱腰になってしまう。それに、殿下に求められれば、結局は拒絶などできはしないのだ。
「ソラン」
近くなった瞳は思ったよりも穏やかで、慈しみに満ちていた。
「ダニエルの言っていたことが本当だとしても、おまえのせいでも、私のせいでもない」
気付かれないように胸の奥に沈めていた不安を、不意打ちで指摘されて、ソランは息を止めた。
「失われた神のせいでも、宝剣の主のせいでもない」
ゆっくりと言い聞かせるように話す殿下を凝視する。
「遠い昔に神々はいなくなり、それでも我々はこうして生きている。最早地上には人しかいない。だから、どのような行いも、それはすべて人が行っているのだ。神の名の下に正当を主張するのなら、それは己の非道をごまかすために、騙っているにすぎない」
ソランは泣きたいような気持ちになって声を出せず、こくりと頷いた。
「私たちは、償いをしようとしているのではない。私たちの信じることを行おうとしているだけだ。そうだろう、ソラン?」
もう一度従順に頷けば、殿下は優しく微笑んだ。
「口付けてもいいか?」
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