暁にもう一度

伊簑木サイ

文字の大きさ
159 / 272
第十章 バートリエ事変

2-5

しおりを挟む
 殿下は躊躇うことなくテントを出て行った。振り返ることもなかった。残されたソランは、どうしようもなく不安で寂しくて寄る辺ない思いに囚われているというのに。
 追いかけていって引き止めたい衝動と戦う。
 あの人を失うのが怖い。片時も離れずに守りたい。泣き叫びたいような気持ちで思う。

 けれどそれをしてはいけない。ソランは最早一介の軍医でも護衛でもない。ただただお傍に控えていればいいだけの立場ではなくなってしまった。
 あの人に寄り添うということは、こういうことなのだと改めて思い知る。単純に守るだけではいられない。あの人の盾だけでなく、剣にもなると誓ったのだから。

 目を瞑り、深く息をする。そうして心を鎮める。波打つ感情は奥底へと押しやり、ソランは目を開け、改めてホルテナへと意識を向けた。
 ソランが考え事をしていたのは、殿下が出て行って一分にも満たない時間だったはずだ。だが、次に目にした彼女の様子は、もうおかしくなっていた。

 速い呼吸を繰り返している。見たことのある症状だ。エレイアで盗賊団とやりあった後に、なった者がいた。強い恐怖を感じた時に、繰り返し出易くなる。
 ファティエラが心配して声をかけているけれど、どうしたらいいのかわからないらしい。ソランは急いで近付き、話しかけた。

『大丈夫。大丈夫。鼻で息をして』

 突っ張って必死に体を支えているのだろう手に、手を重ねる。

『すみません。なんでもありません。ご迷惑を……』

 苦しい呼吸の合間に呟くように言葉を吐き出してくる。

『迷惑ではない。私はあなたの助けになりたい』

 重ねた手で彼女の手を握った。そっと引く。すると支えを失った体が倒れ掛かってきた。それを抱きしめたりせずに肩で受けとめる。体を束縛されると怖がるかもしれないからだ。
 少し体を押すようにしてずらし、体を立てさせるのと同時に、怖がらないのを確認しながら肩口で半分ほど彼女の口を塞ぐようにする。

『鼻で息をして。お腹に息を入れる。楽になる。大丈夫。できる。鼻で息をして。そう。ゆっくり。大丈夫。傍にいる』

 自分のエランサ語の拙さを補うために、努めて穏やかに柔らかな声で語りかけた。
 この症状で死ぬことは稀だという。でも本人は息ができなくて、とても苦しいのだ。放っておけばもっと強い恐怖に囚われ、体が痺れて動けなくなり、胸の痛みに襲われる。気を失うことさえある。
 じっとして、根気強く優しく声をかけ続けているうちに、少しずつ息遣いがゆっくりになってきた。ソランはほっとした。酷い発作ではなかったらしい。

『これは初めて? 前にもあった?』
『前にも、何度か。息が苦しくなって、でも、すぐに良くなって』
『そう。怖かったね』

 触れている彼女の体が、ビクリと震えた。ソランはいけないことを言ってしまったかと緊張する。黙って固まっていると、次第に彼女の頬の触れている場所が生温かく濡れてきた。泣いているらしい。
 恐る恐る腕に触れる。そこを撫でおろす。嫌がらないのを見て取って、頭も撫でてみた。彼女の指が動き、ソランの手元でぎこちなく握り締められた。
 そうして彼女はしゃくりあげて、ソランにすがって泣きはじめた。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

はじめまして、私の知らない婚約者様

有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。 見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。 けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。 ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。 けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。 この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。 悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに? ※他サイトにも掲載しています。

【完結】貧乏令嬢の野草による領地改革

うみの渚
ファンタジー
八歳の時に木から落ちて頭を打った衝撃で、前世の記憶が蘇った主人公。 優しい家族に恵まれたが、家はとても貧乏だった。 家族のためにと、前世の記憶を頼りに寂れた領地を皆に支えられて徐々に発展させていく。 主人公は、魔法・知識チートは持っていません。 加筆修正しました。 お手に取って頂けたら嬉しいです。

【完結】子爵令嬢の秘密

りまり
恋愛
私は記憶があるまま転生しました。 転生先は子爵令嬢です。 魔力もそこそこありますので記憶をもとに頑張りたいです。

追放令嬢、辺境王国で無双して王宮を揺るがす

遊鷹太
ファンタジー
王国随一の名門ハーランド公爵家の令嬢エリシアは、第一王子の婚約者でありながら、王宮の陰謀により突然追放される。濡れ衣を着せられ、全てを奪われた彼女は極寒の辺境国家ノルディアへと流される。しかしエリシアには秘密があった――前世の記憶と現代日本の経営知識を持つ転生者だったのだ。荒廃した辺境で、彼女は持ち前の戦略眼と人心掌握術で奇跡の復興を成し遂げる。やがて彼女の手腕は王国全土を震撼させ、自らを追放した者たちに復讐の刃を向ける。だが辺境王ルシアンとの運命的な出会いが、彼女の心に新たな感情を芽生えさせていく。これは、理不尽に奪われた女性が、知略と情熱で世界を変える物語――。

大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!

古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。 その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。 『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』 昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。 領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。 一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――

【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる

三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。 こんなはずじゃなかった! 異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。 珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に! やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活! 右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり! アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。

侯爵家の愛されない娘でしたが、前世の記憶を思い出したらお父様がバリ好みのイケメン過ぎて毎日が楽しくなりました

下菊みこと
ファンタジー
前世の記憶を思い出したらなにもかも上手くいったお話。 ご都合主義のSS。 お父様、キャラチェンジが激しくないですか。 小説家になろう様でも投稿しています。 突然ですが長編化します!ごめんなさい!ぜひ見てください!

積みかけアラフォーOL、公爵令嬢に転生したのでやりたいことをやって好きに生きる!

ぽらいと
ファンタジー
アラフォー、バツ2派遣OLが公爵令嬢に転生したので、やりたいことを好きなようにやって過ごす、というほのぼの系の話。 悪役等は一切出てこない、優しい世界のお話です。

処理中です...