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第十章 バートリエ事変
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殿下は躊躇うことなくテントを出て行った。振り返ることもなかった。残されたソランは、どうしようもなく不安で寂しくて寄る辺ない思いに囚われているというのに。
追いかけていって引き止めたい衝動と戦う。
あの人を失うのが怖い。片時も離れずに守りたい。泣き叫びたいような気持ちで思う。
けれどそれをしてはいけない。ソランは最早一介の軍医でも護衛でもない。ただただお傍に控えていればいいだけの立場ではなくなってしまった。
あの人に寄り添うということは、こういうことなのだと改めて思い知る。単純に守るだけではいられない。あの人の盾だけでなく、剣にもなると誓ったのだから。
目を瞑り、深く息をする。そうして心を鎮める。波打つ感情は奥底へと押しやり、ソランは目を開け、改めてホルテナへと意識を向けた。
ソランが考え事をしていたのは、殿下が出て行って一分にも満たない時間だったはずだ。だが、次に目にした彼女の様子は、もうおかしくなっていた。
速い呼吸を繰り返している。見たことのある症状だ。エレイアで盗賊団とやりあった後に、なった者がいた。強い恐怖を感じた時に、繰り返し出易くなる。
ファティエラが心配して声をかけているけれど、どうしたらいいのかわからないらしい。ソランは急いで近付き、話しかけた。
『大丈夫。大丈夫。鼻で息をして』
突っ張って必死に体を支えているのだろう手に、手を重ねる。
『すみません。なんでもありません。ご迷惑を……』
苦しい呼吸の合間に呟くように言葉を吐き出してくる。
『迷惑ではない。私はあなたの助けになりたい』
重ねた手で彼女の手を握った。そっと引く。すると支えを失った体が倒れ掛かってきた。それを抱きしめたりせずに肩で受けとめる。体を束縛されると怖がるかもしれないからだ。
少し体を押すようにしてずらし、体を立てさせるのと同時に、怖がらないのを確認しながら肩口で半分ほど彼女の口を塞ぐようにする。
『鼻で息をして。お腹に息を入れる。楽になる。大丈夫。できる。鼻で息をして。そう。ゆっくり。大丈夫。傍にいる』
自分のエランサ語の拙さを補うために、努めて穏やかに柔らかな声で語りかけた。
この症状で死ぬことは稀だという。でも本人は息ができなくて、とても苦しいのだ。放っておけばもっと強い恐怖に囚われ、体が痺れて動けなくなり、胸の痛みに襲われる。気を失うことさえある。
じっとして、根気強く優しく声をかけ続けているうちに、少しずつ息遣いがゆっくりになってきた。ソランはほっとした。酷い発作ではなかったらしい。
『これは初めて? 前にもあった?』
『前にも、何度か。息が苦しくなって、でも、すぐに良くなって』
『そう。怖かったね』
触れている彼女の体が、ビクリと震えた。ソランはいけないことを言ってしまったかと緊張する。黙って固まっていると、次第に彼女の頬の触れている場所が生温かく濡れてきた。泣いているらしい。
恐る恐る腕に触れる。そこを撫でおろす。嫌がらないのを見て取って、頭も撫でてみた。彼女の指が動き、ソランの手元でぎこちなく握り締められた。
そうして彼女はしゃくりあげて、ソランにすがって泣きはじめた。
追いかけていって引き止めたい衝動と戦う。
あの人を失うのが怖い。片時も離れずに守りたい。泣き叫びたいような気持ちで思う。
けれどそれをしてはいけない。ソランは最早一介の軍医でも護衛でもない。ただただお傍に控えていればいいだけの立場ではなくなってしまった。
あの人に寄り添うということは、こういうことなのだと改めて思い知る。単純に守るだけではいられない。あの人の盾だけでなく、剣にもなると誓ったのだから。
目を瞑り、深く息をする。そうして心を鎮める。波打つ感情は奥底へと押しやり、ソランは目を開け、改めてホルテナへと意識を向けた。
ソランが考え事をしていたのは、殿下が出て行って一分にも満たない時間だったはずだ。だが、次に目にした彼女の様子は、もうおかしくなっていた。
速い呼吸を繰り返している。見たことのある症状だ。エレイアで盗賊団とやりあった後に、なった者がいた。強い恐怖を感じた時に、繰り返し出易くなる。
ファティエラが心配して声をかけているけれど、どうしたらいいのかわからないらしい。ソランは急いで近付き、話しかけた。
『大丈夫。大丈夫。鼻で息をして』
突っ張って必死に体を支えているのだろう手に、手を重ねる。
『すみません。なんでもありません。ご迷惑を……』
苦しい呼吸の合間に呟くように言葉を吐き出してくる。
『迷惑ではない。私はあなたの助けになりたい』
重ねた手で彼女の手を握った。そっと引く。すると支えを失った体が倒れ掛かってきた。それを抱きしめたりせずに肩で受けとめる。体を束縛されると怖がるかもしれないからだ。
少し体を押すようにしてずらし、体を立てさせるのと同時に、怖がらないのを確認しながら肩口で半分ほど彼女の口を塞ぐようにする。
『鼻で息をして。お腹に息を入れる。楽になる。大丈夫。できる。鼻で息をして。そう。ゆっくり。大丈夫。傍にいる』
自分のエランサ語の拙さを補うために、努めて穏やかに柔らかな声で語りかけた。
この症状で死ぬことは稀だという。でも本人は息ができなくて、とても苦しいのだ。放っておけばもっと強い恐怖に囚われ、体が痺れて動けなくなり、胸の痛みに襲われる。気を失うことさえある。
じっとして、根気強く優しく声をかけ続けているうちに、少しずつ息遣いがゆっくりになってきた。ソランはほっとした。酷い発作ではなかったらしい。
『これは初めて? 前にもあった?』
『前にも、何度か。息が苦しくなって、でも、すぐに良くなって』
『そう。怖かったね』
触れている彼女の体が、ビクリと震えた。ソランはいけないことを言ってしまったかと緊張する。黙って固まっていると、次第に彼女の頬の触れている場所が生温かく濡れてきた。泣いているらしい。
恐る恐る腕に触れる。そこを撫でおろす。嫌がらないのを見て取って、頭も撫でてみた。彼女の指が動き、ソランの手元でぎこちなく握り締められた。
そうして彼女はしゃくりあげて、ソランにすがって泣きはじめた。
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