暁にもう一度

伊簑木サイ

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第十章 バートリエ事変

3-8

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 殿下の御前で片膝をつく。頭を下げ、報告する。

「悪しきやからは、御名の下にすべて跪きましてございます」
「見事な仕業であった。おまえが我が旗下にあること、誇りに思うぞ」

 二つの歩く音が近付いてくる。視界に入った長靴がすぐ目の前で止まった。ふっと何かが落ちてきて、冷たいものに顎を持ち上げられる。殿下の気遣う瞳に覗き込まれ、安堵が体中に広がり、気がゆるんでいくのがどうにも止められなかった。
 顎に触れているのは、殿下の手袋を外した手だった。こんな寒い日に動きもせずに座っていれば、こうなるのは当たり前だ。冷え切った指先に、どうしようもなく胸が軋む。頭の芯がぼうっとし、考えが纏まらないままに呟いた。

「お待たせして、申し訳ありません」
「黙れ。謝罪は受け付けん。くだらぬことを言うな」

 殿下が眉間に深い皺を刻んだ。怒っているのではないのはわかっている。不用意な一言で心配させてしまったのだ。馬鹿なことを言った、情けない、これしきのことで集中を欠くなんて。思わず奥歯を噛み締めたソランの顎をぐいと引き、殿下は強いまなざしで、立てと促した。そうしながら、空いた手を後ろに突きだし、傍らのディーから真っ赤な物を受け取る。

 冷たい手が離れていき、ソランは寄る辺ない思いに囚われた。が、次の瞬間に、ばさりと布の広がる音とともに緋色が視界の端をかすめ、背中の冷気が遮断された。殿下が手にした布地で、ソランの体を覆ったのだ。
 若葉色の瞳が真剣にソランを見守っており、ソランはそれに見惚れた。

「我が軍旗を授ける。常に我と共に戦場にれ」

 ソランは目を見開いた。褒美をいただけるとは聞いていた。でも、それがどんなものかは直前になってもまだ決まっていなかったのだ。

 軍旗はそれを掲げる者の分身だ。まして殿下のそれは、王族として、地の色を変えただけの国旗の意匠を許されている。それを与えられるのが、どれほどの意味を持つのか、わからないわけがない。
 命を預けられたに等しく、それ以上に、常にその名を託されたと同じになるのだ。この旗を掲げるかぎり、ソランは殿下の代理さえ務められる。

 ソランには過ぎた褒美だ。身に余る栄誉だ。それを充分承知していても、熱い塊が体の中心から立ち上ってくるのをとどめられなかった。

 必ずや、と思う。最早誓うまでもない。ソランの魂には、この人の盾となり剣となると刻まれている。この人が、共に生きるための場所を、権限を与えてくれるというのなら、ソランにとってそれ以上の喜びはない。

 嬉しいはずなのに、胸が張り裂けそうな痛みも感じて、泣きたくなってくる。微笑むことすらできず、喉が詰まって、声がかすれた。

「ありがたき幸せにございます」

 掛けられた軍旗が落ちないように胸元で両手で掴み、深く頭を下げるので精一杯だった。
 だがすぐに殿下に片手を取られ、顔を上げよ、と囁かれる。ソランの心を支えるように旗ごと上からしっかりと手を握ってくれ、ともに空へ向かって持ち上げられる。ソランは反対側の端をもう片手で持ち、腕を伸ばして旗を広げた。
 とたんに、どおっと鬨の声があがる。声が反響し、幾重にもなって擂り鉢の底にいる二人の上に降ってくる。

 ウィシュタリア! ウィシュタリア!

 斜面の上に居並ぶ兵たちが、国名を高らかに唱える。何度も、何度も、途切れることなく。
 殿下はソランと並んでゆっくりとその場でまわり、集まってきていた全軍に、ソランと旗とをはっきり示して見せた。
 それに反応して、唱和する声がさらに高まって大気を揺らし、熱狂が殿下とソランを包む。

 愛馬が連れてこられ、二人は声に押し上げられるようにして馬に上った。イアルが、脱いでおいたマントを渡してくれる。それを軍旗が竿に括り付けられる間に、手早く纏った。

 鬨をあげ続ける兵たちの片隅で、ホルテナたちが小さくなってかたまっているのが、馬上から見えた。あたりはどう動きだすかわからない興奮に包まれている。さぞ怖い思いをしているだろう。
 ソランは旗を渡そうとしている顔見知りの兵へと、とっさに屈み、「私の花たちが萎れないように気を配ってほしい」と頼んだ。彼は快く引き受けてくれた。

 それに幾許か安心し、身を起こして旗を受け取る。重い竿の下端を鞍に押し当て、全軍に見えるように左腕で掲げてみせた。

 わぁぁぁぁぁっ。

 歓声があがる。
 ソランは、風で翻る度にあまりの重みに揺らぎそうになるのを堪えながら、殿下の後に続き、兵たちの間をゆっくりと進んでいった。

 ウィシュタリア。ウィシュタリア。

 国を称える声が、いつしか殿下とソランを呼ぶ声に変わっていくのを、一歩ごとにひしひしと感じた。『ウィシュタリア』は殿下の名でもあり、彼に従いその軍旗を掲げるソランは、全軍の代表であった。『ウィシュタリア』と叫ぶ度に、ソランに仮託された一体感が増していく。

 凄まじい感覚だった。抗いようのない熱気が絡みつき、上へ上へと押し上げられていくような。それは領地の収穫祭で感じるものとは比べ物にならないほど強大だった。
 これが一国の名を冠する重みなのだと、初めて知る。

 それでも、それを恐れる必要はなかった。幼い頃に祖母が教えてくれた。拒めば重荷となるが、受け入れれば力となる。今、まさに、全軍が殿下とソランに力を与えてくれようとしていた。世界を変える力を。

 ――ああ、ここが、殿下と見ていた場所だ。バートリエに来て以来、辿り着きたいと願っていた場所。
 熱狂した歓呼の声は、バートリエの地を満たし、いつ絶えるともなく誇らかに響き渡ったのだった
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