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第十一章 解呪
解呪2
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コンコン、と衣裳部屋に続く入り口のところで壁が叩かれた。目を上げると、殿下が夜着の上にガウンを羽織って立っていた。ソランは驚いた。
「ずいぶんお早いですね。お二人は帰られたのですか?」
「ああ。祝いの酒を持ってきただけだ。すぐに帰した。なにをしている?」
「剣の手入れを」
「見ればわかる。どうしてそんなことを、今夜やっているんだ」
呆れきった声で言った殿下は、部屋に入ってきて、溜息を吐きつつ隣に座った。
ソランは返答に困った。心に絡みつくいろんなものを忘れて無心になりたかったなどと正直に言えば、きっとまた心配させる。
イアルなら、何も言わなくてもわかってくれる。ソランが心の平衡を取り戻すまで、黙って放っておいてくれる。
でも、殿下は違う。ソランを強引に抱き締める。ソランの弱いところもみっともないところも腕の中に収めて、全部晒させようとする。それは正直に言えば鬱陶しく、とても腹立たしいことだった。
誰だって隠しておきたいことくらいある。それが好きでしかたがない人が相手なら、なおさら。綺麗で良いところしか見せたくないものだ。
それを許さないこの人は、傲慢だと思う。すごく自分勝手だと思う。絶対に迷惑この上ない人だとしか思えない。
それでも。
ソランは自分の抱く気持ちに思い至って、そっと溜息を噛み殺した。
それでも、心が震える。体の奥底から熱くなる。だって、この人は、ソランのどうしようもないところも全部ひっくるめて抱き締めてくれる。みっともないところさえ、愛しんでくれる。
ああ。だから、ほら、どんな鬱屈も、途端に些細なことになってしまう。いつのまにやら澱は霧散してしまった。
ソランは横に首を振ってみせた。
「なんでもないのです。手持ち無沙汰だっただけで」
そう言って鞘を拾い上げ、剣がしっかり乾いているのを確認して、しまった。
「もういいのか?」
「ええ。気がすみましたから」
砥石をぼろ布に簡単に包み、暖炉の傍に置いた。少し乾かさないとならない。洗面器もその横に移した。明日の朝には濁りは底に沈む。上澄みを使えば問題ないだろう。と、合理的というより杜撰極まりないことを考えた。実はそのへんが朴念仁だとか女として残念だとか言われる所以なのだが、ソランはまったくわかっていない。
「そうか」
殿下の手がソランの背中に伸ばされ、くっと髪が引っ張られたと思ったら、ゆるく三つ編みにして縛っていた組紐を解かれた。手櫛で梳いてくれる。何だかどこかがくすぐったくて、ソランは肩をすくめた。
「何ですか?」
「ん? そうだな」
殿下は途中で言葉を切って、身を寄せてソランの唇に軽く口付けた。思わずつぶった目を開ける前に、離れていった唇が、今度は耳に吐息を吹きかける。
「今夜は私の部屋へおいで」
なぜ? と思う間もなく手を取られ、引かれて立ち上がった。そのまま衣裳部屋に行き、不自然な場所にある扉の前に立つ。その脇にはランプが掛けられていて、鍵穴もよく見えた。
「鍵は持っているか?」
「はい」
首から掛けていた鎖を引っ張り出して見せる。
「開けてごらん」
ソランは鍵を差し込んだ。それだけで、かちり、と外れる音がした。
「どうぞ」
殿下がソランの後ろから手を伸ばして、ドアノブを捻って押し開いた。ランプも外して、掲げて先を照らして見せてくれる。
そこは何度も朝に起こしに入った、見慣れたはずの殿下の寝室だった。ただ、こんな場所から見たことがなかったので、初めて来た場所のような錯覚をおこす。一度、任命書を枕に忍ばせに来たが、勝手に入るのが後ろめたくて、よく観察などしなかったのだ。
向こう側の壁に据えつけられた暖炉が赤々と輝き、部屋の中はとても暖かかった。
「鍵を抜いて」
殿下の指摘に、忘れていくところだった鍵を外して、首に掛けなおした。足元を照らしてもらいながら、暖炉まで行く。なぜか落ち着かない気分で、促されるままに敷物の上に座った。
「ずいぶんお早いですね。お二人は帰られたのですか?」
「ああ。祝いの酒を持ってきただけだ。すぐに帰した。なにをしている?」
「剣の手入れを」
「見ればわかる。どうしてそんなことを、今夜やっているんだ」
呆れきった声で言った殿下は、部屋に入ってきて、溜息を吐きつつ隣に座った。
ソランは返答に困った。心に絡みつくいろんなものを忘れて無心になりたかったなどと正直に言えば、きっとまた心配させる。
イアルなら、何も言わなくてもわかってくれる。ソランが心の平衡を取り戻すまで、黙って放っておいてくれる。
でも、殿下は違う。ソランを強引に抱き締める。ソランの弱いところもみっともないところも腕の中に収めて、全部晒させようとする。それは正直に言えば鬱陶しく、とても腹立たしいことだった。
誰だって隠しておきたいことくらいある。それが好きでしかたがない人が相手なら、なおさら。綺麗で良いところしか見せたくないものだ。
それを許さないこの人は、傲慢だと思う。すごく自分勝手だと思う。絶対に迷惑この上ない人だとしか思えない。
それでも。
ソランは自分の抱く気持ちに思い至って、そっと溜息を噛み殺した。
それでも、心が震える。体の奥底から熱くなる。だって、この人は、ソランのどうしようもないところも全部ひっくるめて抱き締めてくれる。みっともないところさえ、愛しんでくれる。
ああ。だから、ほら、どんな鬱屈も、途端に些細なことになってしまう。いつのまにやら澱は霧散してしまった。
ソランは横に首を振ってみせた。
「なんでもないのです。手持ち無沙汰だっただけで」
そう言って鞘を拾い上げ、剣がしっかり乾いているのを確認して、しまった。
「もういいのか?」
「ええ。気がすみましたから」
砥石をぼろ布に簡単に包み、暖炉の傍に置いた。少し乾かさないとならない。洗面器もその横に移した。明日の朝には濁りは底に沈む。上澄みを使えば問題ないだろう。と、合理的というより杜撰極まりないことを考えた。実はそのへんが朴念仁だとか女として残念だとか言われる所以なのだが、ソランはまったくわかっていない。
「そうか」
殿下の手がソランの背中に伸ばされ、くっと髪が引っ張られたと思ったら、ゆるく三つ編みにして縛っていた組紐を解かれた。手櫛で梳いてくれる。何だかどこかがくすぐったくて、ソランは肩をすくめた。
「何ですか?」
「ん? そうだな」
殿下は途中で言葉を切って、身を寄せてソランの唇に軽く口付けた。思わずつぶった目を開ける前に、離れていった唇が、今度は耳に吐息を吹きかける。
「今夜は私の部屋へおいで」
なぜ? と思う間もなく手を取られ、引かれて立ち上がった。そのまま衣裳部屋に行き、不自然な場所にある扉の前に立つ。その脇にはランプが掛けられていて、鍵穴もよく見えた。
「鍵は持っているか?」
「はい」
首から掛けていた鎖を引っ張り出して見せる。
「開けてごらん」
ソランは鍵を差し込んだ。それだけで、かちり、と外れる音がした。
「どうぞ」
殿下がソランの後ろから手を伸ばして、ドアノブを捻って押し開いた。ランプも外して、掲げて先を照らして見せてくれる。
そこは何度も朝に起こしに入った、見慣れたはずの殿下の寝室だった。ただ、こんな場所から見たことがなかったので、初めて来た場所のような錯覚をおこす。一度、任命書を枕に忍ばせに来たが、勝手に入るのが後ろめたくて、よく観察などしなかったのだ。
向こう側の壁に据えつけられた暖炉が赤々と輝き、部屋の中はとても暖かかった。
「鍵を抜いて」
殿下の指摘に、忘れていくところだった鍵を外して、首に掛けなおした。足元を照らしてもらいながら、暖炉まで行く。なぜか落ち着かない気分で、促されるままに敷物の上に座った。
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