暁にもう一度

伊簑木サイ

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閑話 ルティンの恋

3-1

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 その男の顔を見た時、アリエイラは不覚にも目が釘付けになってしまった。美しい卵形の輪郭の中に、なんとも絶妙な配置で、言い知れぬほど精巧な造形の目鼻口がある。その顔から目をそらすことができず、視覚からもたらされる刺激に、脳髄が蕩けていく感覚がした。

 その男との間を、他の人間が横切って強制的に目の前から遮られなければ、アリエイラは縛められているのを忘れて、近付こうとしていたかもしれない。
 いかにも高官めいた人物に対し、この状況でその行動は命取りだったが、そんな基本的なことさえ忘れてしまうほど、その男は強烈、且つ鮮烈な容貌をしていた。

 エーランディア聖国では、美しいことは神の祝福であり、眼福でもって人々に神の愛を広く与える奇跡の一つと言われている。そのために、本国や属国や植民地から多くの美女が献上され集められた聖王の後宮にも、これほどの美貌の持ち主はいなかった。

 もっとも、アリエイラから言わせれば、たとえ神が本当にいたとしても、本人にとっては災厄でしかないそれが、祝福であるとは思えなかった。
 母はその美貌のために、征服された属国から無理矢理連れて来られ、気まぐれで聖王に手を付けられた末に、アリエイラを生んだ。

 そうであっても、もしもアリエイラが軍神ウルティアの特徴を持っていなければ、アリエイラ共々、奴隷として一生を過ごしただろう。
 いっそその方が、まだ幸せだったかもしれない。母は奴隷から妃の末席に名を連ね、すべての自由を奪われて、最後には心を病んで死んだ。

 母は間違いなく美しかった。子供心にも、その美しさに見惚れたものだった。だが、母を不幸にしたはずのそれが、目の前の男には比べるべくも無い取るに足らないものだったのだと、愕然として悟らずにはおれなかった。

 その人を見るだけで、心が躍り、全身の血が滾る。敵船の中で両手両足を鎖で繋がれている状態で、しかも明日をも知れない身の上であってさえ、その美しさは、アリエイラに快楽をもたらす。そんな人間が現実に存在する奇跡。
 これこそが本物の、神の祝福。
 生まれて初めて、神の存在を感じた。どんなに血を吐くような思いで祈っても、願っても、今までその存在を感じ取ることはできなかったというのに。

 アリエイラは笑いたくなった。胸が苦しく、痛かった。そんな感情は、とうに擦り切れてなくなってしまったと思っていたのに。こんな気持ちを抱く自分も、こんな人間が存在することも、それを内包する世界も、すべてが不条理で馬鹿馬鹿しいことこの上なかった。

 アリエイラは、神を呪っていた。いや、神だけではない。世界を、国を、運命を、自分を。そう、神が与えたもうた天の下すべてを。自分を含めて、滅茶苦茶に破壊してしまいたかったのだ。
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