238 / 272
閑話 ルティンの恋
3-3
しおりを挟む
あの日、アリエイラは戦況を報告しに、わざわざ本国まで出向いたのだった。命じられた戦地を離れ、しかも停戦を奏上すれば、いかに戦神と崇められている彼女でも、反逆者として聖王に処刑されるかもしれなかった。
だから、唯一親しくしている兄バルトローに言付けたのだ。私に何かあった時は、私の部隊をよろしく頼む、と。
反逆者の部下の末路など知れている。バルトローなら匿って、無駄に死なせないだろうと踏んで頼んだのに。置いてきたはずの部隊が丸々本国まで追ってきたばかりか、バルトローまで来ていた。
おかげで、アリエイラ一人が死ねばすむ話だったのが、そのたった一人を逃すために、一部隊が全滅してしまった。上官の命令を無視した挙句の愚行だった。アリエイラを生かす必要などまったくなかったものを。
なぜなら、あの時、アリエイラは世界を滅ぼすつもりだったのだから。
あの時。聖王に手をかけた時。馬鹿馬鹿しいことに、世界が終わると本気で信じていた。天は落ち、地は割れ、海は干上がり、世界はバラバラに砕け散ると。
だから、聖王の体から流れ出た血は死ぬに足りており、のみならず、確かに急所を抉ったはずだったのに、世界が終わらないことに、心底戸惑った。やはり聖王は特別で、殺し足りないのかと考えたほどだ。そして、完全に殺すために、首を切り落としてみたのだった。
愚かしいことだった。
アリエイラは、聖王がただの人間であると知っているつもりだった。アリエイラが軍神などではないように、彼もまた神の代弁者などではないと。ところが、その実、あの醜く心も体も肥大した老人を、心の奥底では神と同一視していたのだ。
人間を殺して、世界が滅びるわけがない。なのに、無意識にアリエイラはそう信じていた。聖国の多くの国民がそうであるように、彼女もまた、例外ではなかったのだ。
彼女は神を殺して、世界を壊し、自分も含めてすべてを終わらせるつもりだった。成功するわけもない妄想だったが、そんなことを望んだ人間を、命を捨ててまで生かす必要などなかったのだ。
部下たちは、状況を読めないどうしようもない愚か者たちばかりだった。しかも腹立たしいことに、死者が相手では、怒りのままに殴り飛ばすこともできない。
馬鹿者どもが。強く、強く、心の中で罵る。
胸の内が大きくうねり、歯を食いしばった。船底で目覚めた時から、胸の奥のどこかが引き攣ったように感じてしかたがなかった。アリエイラは、こみあげる何かを堪えて、息を止めた。
男が立つのが目の端に映り、はっとして物思いから醒めた。彼は近付いてきて、アリエイラのすぐ傍で膝をつき、下から彼女を見上げた。
『大丈夫ですか。無理をさせてしまったようですね』
憔悴しきっているところを拾われたとはいえ、もう3日も安静にしていた。体力はだいぶ戻ったと思っていたのだが、どうやら情けないことに気力が続かず、意識が散漫になりがちなようだ。
アリエイラは黙って彼を見返した。至近距離でその美貌にあてられて、とっさに声が出なかったのだ。
『あと一つだけ、お答えいただけますか』
真摯な瞳だった。アリエイラにおもねろうという素振りも、脅そうとする素振りもなかった。ただ人として、向かい合った者に、真剣に向き合おうとしているのがわかった。
『あなたを逃したのは誰ですか』
それを答えれば、エーランディアに深刻な不利をもたらすのは、将軍たるアリエイラにはわかっていた。
バルトローは、アルドシシリより少し北部にある、最大の植民地イルチスの総督だ。彼がエーランディアを本当に裏切ったのかはわからない。アリエイラにすべてを押し付け、聖王亡き後の聖国を掌握しようとしているだけかもしれなかった。だが、少なくとも名将と呼ばれる彼の不在が知られれば、ウィシュタリアの戦略も変わるに違いない。恐らく、いっきに南部の植民地の制圧に乗り出すのではないか。
それでよかった。聖国の崩壊。それがアリエイラの望みだった。
『バルトロー・ユースティ二アだ』
冷静に答えると、男は確かめるようにアリエイラに目を留め続けた。やがて、微かな笑みと共に、礼を言われた。
『ありがとうございます』
そして彼は後ろを振り返り、ウィシュタリア語で何事かを命じた。護衛の一人がやってきて、すぐに鎖の鍵をはずされた。
『お疲れでしょう。陸に部屋を用意します。怪我人もそちらへ運びましょう』
にこりと返事を促すように微笑みかけられて、アリエイラは頷いた。
『では、後ほど』
彼は再び立ち上がると、胸に手を当て、頭を下げてから出て行った。それは見惚れるほど優雅な美しい動作だった。だから、どうやらそれがウィシュタリアの礼儀作法の一つなのだと、アリエイラは知ることができたのだった。
だから、唯一親しくしている兄バルトローに言付けたのだ。私に何かあった時は、私の部隊をよろしく頼む、と。
反逆者の部下の末路など知れている。バルトローなら匿って、無駄に死なせないだろうと踏んで頼んだのに。置いてきたはずの部隊が丸々本国まで追ってきたばかりか、バルトローまで来ていた。
おかげで、アリエイラ一人が死ねばすむ話だったのが、そのたった一人を逃すために、一部隊が全滅してしまった。上官の命令を無視した挙句の愚行だった。アリエイラを生かす必要などまったくなかったものを。
なぜなら、あの時、アリエイラは世界を滅ぼすつもりだったのだから。
あの時。聖王に手をかけた時。馬鹿馬鹿しいことに、世界が終わると本気で信じていた。天は落ち、地は割れ、海は干上がり、世界はバラバラに砕け散ると。
だから、聖王の体から流れ出た血は死ぬに足りており、のみならず、確かに急所を抉ったはずだったのに、世界が終わらないことに、心底戸惑った。やはり聖王は特別で、殺し足りないのかと考えたほどだ。そして、完全に殺すために、首を切り落としてみたのだった。
愚かしいことだった。
アリエイラは、聖王がただの人間であると知っているつもりだった。アリエイラが軍神などではないように、彼もまた神の代弁者などではないと。ところが、その実、あの醜く心も体も肥大した老人を、心の奥底では神と同一視していたのだ。
人間を殺して、世界が滅びるわけがない。なのに、無意識にアリエイラはそう信じていた。聖国の多くの国民がそうであるように、彼女もまた、例外ではなかったのだ。
彼女は神を殺して、世界を壊し、自分も含めてすべてを終わらせるつもりだった。成功するわけもない妄想だったが、そんなことを望んだ人間を、命を捨ててまで生かす必要などなかったのだ。
部下たちは、状況を読めないどうしようもない愚か者たちばかりだった。しかも腹立たしいことに、死者が相手では、怒りのままに殴り飛ばすこともできない。
馬鹿者どもが。強く、強く、心の中で罵る。
胸の内が大きくうねり、歯を食いしばった。船底で目覚めた時から、胸の奥のどこかが引き攣ったように感じてしかたがなかった。アリエイラは、こみあげる何かを堪えて、息を止めた。
男が立つのが目の端に映り、はっとして物思いから醒めた。彼は近付いてきて、アリエイラのすぐ傍で膝をつき、下から彼女を見上げた。
『大丈夫ですか。無理をさせてしまったようですね』
憔悴しきっているところを拾われたとはいえ、もう3日も安静にしていた。体力はだいぶ戻ったと思っていたのだが、どうやら情けないことに気力が続かず、意識が散漫になりがちなようだ。
アリエイラは黙って彼を見返した。至近距離でその美貌にあてられて、とっさに声が出なかったのだ。
『あと一つだけ、お答えいただけますか』
真摯な瞳だった。アリエイラにおもねろうという素振りも、脅そうとする素振りもなかった。ただ人として、向かい合った者に、真剣に向き合おうとしているのがわかった。
『あなたを逃したのは誰ですか』
それを答えれば、エーランディアに深刻な不利をもたらすのは、将軍たるアリエイラにはわかっていた。
バルトローは、アルドシシリより少し北部にある、最大の植民地イルチスの総督だ。彼がエーランディアを本当に裏切ったのかはわからない。アリエイラにすべてを押し付け、聖王亡き後の聖国を掌握しようとしているだけかもしれなかった。だが、少なくとも名将と呼ばれる彼の不在が知られれば、ウィシュタリアの戦略も変わるに違いない。恐らく、いっきに南部の植民地の制圧に乗り出すのではないか。
それでよかった。聖国の崩壊。それがアリエイラの望みだった。
『バルトロー・ユースティ二アだ』
冷静に答えると、男は確かめるようにアリエイラに目を留め続けた。やがて、微かな笑みと共に、礼を言われた。
『ありがとうございます』
そして彼は後ろを振り返り、ウィシュタリア語で何事かを命じた。護衛の一人がやってきて、すぐに鎖の鍵をはずされた。
『お疲れでしょう。陸に部屋を用意します。怪我人もそちらへ運びましょう』
にこりと返事を促すように微笑みかけられて、アリエイラは頷いた。
『では、後ほど』
彼は再び立ち上がると、胸に手を当て、頭を下げてから出て行った。それは見惚れるほど優雅な美しい動作だった。だから、どうやらそれがウィシュタリアの礼儀作法の一つなのだと、アリエイラは知ることができたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
はじめまして、私の知らない婚約者様
有木珠乃@『ヒロ弟』コミカライズ配信中
ファンタジー
ミルドレッド・カーマイン公爵令嬢は突然、学園の食堂で話しかけられる。
見覚えのない男性。傍らには豊満な体型の女性がいる。
けれどその女性から発せられた男性の名前には、聞き覚えがあった。
ミルドレッドの婚約者であるブルーノ王子であることを。
けれどミルドレッドの反応は薄い。なぜなら彼女は……。
この世界を乙女ゲームだと知った人々による、悪役令嬢とヒロイン、魔女の入れ替え話です。
悪役令嬢を救いたかったはずなのに、どうしてこんなことに?
※他サイトにも掲載しています。
【完結】貧乏令嬢の野草による領地改革
うみの渚
ファンタジー
八歳の時に木から落ちて頭を打った衝撃で、前世の記憶が蘇った主人公。
優しい家族に恵まれたが、家はとても貧乏だった。
家族のためにと、前世の記憶を頼りに寂れた領地を皆に支えられて徐々に発展させていく。
主人公は、魔法・知識チートは持っていません。
加筆修正しました。
お手に取って頂けたら嬉しいです。
追放令嬢、辺境王国で無双して王宮を揺るがす
遊鷹太
ファンタジー
王国随一の名門ハーランド公爵家の令嬢エリシアは、第一王子の婚約者でありながら、王宮の陰謀により突然追放される。濡れ衣を着せられ、全てを奪われた彼女は極寒の辺境国家ノルディアへと流される。しかしエリシアには秘密があった――前世の記憶と現代日本の経営知識を持つ転生者だったのだ。荒廃した辺境で、彼女は持ち前の戦略眼と人心掌握術で奇跡の復興を成し遂げる。やがて彼女の手腕は王国全土を震撼させ、自らを追放した者たちに復讐の刃を向ける。だが辺境王ルシアンとの運命的な出会いが、彼女の心に新たな感情を芽生えさせていく。これは、理不尽に奪われた女性が、知略と情熱で世界を変える物語――。
大根令嬢の雑学無双、王弟殿下を添えて。~ 前世を思い出したので、許婚をほったらかして人助けしまくります!!
古森真朝
恋愛
気弱な伯爵令嬢のカレンは、自分勝手な婚約者レナートに振り回されていた。耐え続けていたある日、舞踏会で何者かに突き飛ばされ、階段から落ちてしまう。
その傷が元で儚く……なるかと思いきや。衝撃で前世を思い出したカレンは一転、かの『ド根性大根』みたいな超・ポジティブ人間になっていた。
『モラハラ婚約者の思惑なんぞ知るか!! 今度こそ好きなことやって、目いっぱい幸せに長生きするんだから!!!』
昔ひたすら読書に耽って身に着けた『雑学』を武器に、うっかり採れ過ぎた作物や、開墾しようとすると不幸に見舞われる土地、不治の病にかかった王族、等々の問題をどんどん解決。
領地の内外で心強い友人が出来たり、いつの間にかものすごく有名になっていたり、何かと協力してくれる王弟ヴィクトルから好意を寄せられたり(注:気付いてない)する中、温かい家族と共に仕事に励んでいく。
一方、前世から因縁のある人々もまた、こちらに転生していて――
【完結】転生7年!ぼっち脱出して王宮ライフ満喫してたら王国の動乱に巻き込まれた少女戦記 〜愛でたいアイカは救国の姫になる
三矢さくら
ファンタジー
【完結しました】異世界からの召喚に応じて6歳児に転生したアイカは、護ってくれる結界に逆に閉じ込められた結果、山奥でサバイバル生活を始める。
こんなはずじゃなかった!
異世界の山奥で過ごすこと7年。ようやく結界が解けて、山を下りたアイカは王都ヴィアナで【天衣無縫の無頼姫】の異名をとる第3王女リティアと出会う。
珍しい物好きの王女に気に入られたアイカは、なんと侍女に取り立てられて王宮に!
やっと始まった異世界生活は、美男美女ぞろいの王宮生活!
右を見ても左を見ても「愛でたい」美人に美少女! 美男子に美少年ばかり!
アイカとリティア、まだまだ幼い侍女と王女が数奇な運命をたどる異世界王宮ファンタジー戦記。
侯爵家の愛されない娘でしたが、前世の記憶を思い出したらお父様がバリ好みのイケメン過ぎて毎日が楽しくなりました
下菊みこと
ファンタジー
前世の記憶を思い出したらなにもかも上手くいったお話。
ご都合主義のSS。
お父様、キャラチェンジが激しくないですか。
小説家になろう様でも投稿しています。
突然ですが長編化します!ごめんなさい!ぜひ見てください!
積みかけアラフォーOL、公爵令嬢に転生したのでやりたいことをやって好きに生きる!
ぽらいと
ファンタジー
アラフォー、バツ2派遣OLが公爵令嬢に転生したので、やりたいことを好きなようにやって過ごす、というほのぼの系の話。
悪役等は一切出てこない、優しい世界のお話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる