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閑話集 四季折々
初夏の誘惑(イアルの不覚)
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「暑いな、今日は」
イアルは領主館に向かって歩きながら一つ息を吐き、額の汗を拭って空を見上げた。
昨日まで三日も雨が降り続け、冬の終わりに逆戻りしたような寒さだったのに、一夜明けてみれば、今度はぎらぎらと太陽が照りつけて、急に夏がきたような感じだ。
あまりの暑さに、服の胸元のボタンをいつもより一つ多く開け、掴んでぱたぱたと空気を入れた。両袖も肘まで折り返す。
一月ほど前に、母が櫃から取り出してきた去年の服は、胸と首がぜんぜん入らず、あらまあ、急いであなたの分を新調しなきゃ、と言っていたのだが、それからどうなったのかは知らない。朝、弟のアッシュは、イアルのお古を着て涼しげな顔で出ていったが、彼は冬のシャツのままだった。
それでもありがたいことに、これから増水した川の見まわりについていく。ソラン以下チビたちの武術鍛錬の相手をさせられるより、よほど涼しいだろう。
もっとも、ソランがいるかぎり、ぜんぜん気は抜けない。なにしろ、突然何を始めるのか予測がつかないからだ。どうやらイアルに勝とうとしているようで、何かと隙をついて襲いかかってくるのだ。
気を抜いていれば、足をひっかけて転ばされ、落とし穴に落とされ、泥ダンゴや馬糞を投げつけられ、棒で殴られる。
年上の意地で事前に察知し、幸いどれもまだくらってはいなかったが、遊びの範疇に入れるには行き過ぎた感があると思うのは、どうやらイアルだけらしかった。
館の家事一切を取り仕切っているエイダ小母さんは、イアルに取り押さえられて唇を尖らせたソランに、残念でしたね、とおやつの焼き菓子を一つ増やしてやるし、牧場の小父さんたちは、次の入れ知恵を耳に囁いてやっているようだった。
一人、領主夫人のイリスけが大丈夫かと心配してくれ、やり過ぎないようにね、と注意をしてはくれるものの、それでもやはり、やめろとは言ってくれない。
むしろこれでイアルが負ければ、その程度でソラン様をお守りできるのか、と叱られかねなかった。
領主館の玄関扉が開き、そこから小柄な人影が出てきた。腕に重そうなバスケットを抱えている。マリーだ。
イアルは大変だろうと駆けよって、おはよう、と挨拶しながらバスケットを持ち上げた。
「おはよう、イアル」
反抗期だか思春期だか男嫌いだかで、このところツンケンすることの多いマリーが、珍しく可愛らしく笑いながら挨拶を返してくれた。
真っ白い半袖のブラウスが眩しい。まだ日に焼けていない細い首と腕も真っ白で、若木のように柔らかそうだ。後ろで編みこんだ残りの後れ毛に、少しだけ色気を感じて、どきりとする。
あれ? いや、子供だろ? と思いつつも、バスケットを手放した後に現れた、薄い布を盛り上げている胸のふくらみに目を奪われた。
冬着だった時にはそれほど気にならなかったそれが、形良くおいしそうに、とまで考えて、いやいやいや、だから、焼きたてのパンみたいだって思ったからで、と、一人心の中で弁解する。
ふと、雰囲気が変わったのを感じて視線を上げれば、顔を強張らせ、じと、と自分を見上げるマリーと目が合い、まずい、とうろたえた。
「新しいブラウス、よく似合ってると思って」
しどろもどろに褒める。そのうろたえぶりが疚しさを物語って余りあったのだが、事実疚しいので、どうにもならない。
まだ十二歳の妹みたいに面倒を見てきた子に対して、俺、何考えてんだ! と、自分で自分の首を絞めたい心境だった。
と、その時。背後で空気が動いて、まずいと身構えた瞬間、どすう、と背中に衝撃がくる。
「隙あり!」
ソランの声だった。飛び蹴りをくらわされたらしい。思わずバスケットを落とすまいと踏ん張る。そうして動けなくなったイアルの目の前で、マリーがにいっと笑った。
「スケベオヤジ!」
右足が振り上げられ、スカートがめくれて素敵な足が膝まで見えたかと思うと、急所に蹴りを入れられた。
凄まじい痛みが脳天まで突き抜け、今度こそイアルは膝を折った。今日の昼食だろうバスケットは死守したが。
「やったー! 大成功ー!」
ソランがまわりで飛び跳ねて歓声をあげている。
それは反則だろうとか、気軽に急所を攻めるんじゃないとか、本気で俺を殺す気かとか、いろいろ言いたかったが、声にならない。動けない。
バスケットが取り上げられ、おじーさまとおばーさまに教えてこよーっ、という嬉々とした声が遠ざかっていく。
頼む。言いふらしてくれるな。と思っても、無駄なことはわかっていた。
それにしたって、スケベオヤジって。
イアルは一人、玄関の前で這い蹲り、がっくりとうなだれたのだった。
イアルは領主館に向かって歩きながら一つ息を吐き、額の汗を拭って空を見上げた。
昨日まで三日も雨が降り続け、冬の終わりに逆戻りしたような寒さだったのに、一夜明けてみれば、今度はぎらぎらと太陽が照りつけて、急に夏がきたような感じだ。
あまりの暑さに、服の胸元のボタンをいつもより一つ多く開け、掴んでぱたぱたと空気を入れた。両袖も肘まで折り返す。
一月ほど前に、母が櫃から取り出してきた去年の服は、胸と首がぜんぜん入らず、あらまあ、急いであなたの分を新調しなきゃ、と言っていたのだが、それからどうなったのかは知らない。朝、弟のアッシュは、イアルのお古を着て涼しげな顔で出ていったが、彼は冬のシャツのままだった。
それでもありがたいことに、これから増水した川の見まわりについていく。ソラン以下チビたちの武術鍛錬の相手をさせられるより、よほど涼しいだろう。
もっとも、ソランがいるかぎり、ぜんぜん気は抜けない。なにしろ、突然何を始めるのか予測がつかないからだ。どうやらイアルに勝とうとしているようで、何かと隙をついて襲いかかってくるのだ。
気を抜いていれば、足をひっかけて転ばされ、落とし穴に落とされ、泥ダンゴや馬糞を投げつけられ、棒で殴られる。
年上の意地で事前に察知し、幸いどれもまだくらってはいなかったが、遊びの範疇に入れるには行き過ぎた感があると思うのは、どうやらイアルだけらしかった。
館の家事一切を取り仕切っているエイダ小母さんは、イアルに取り押さえられて唇を尖らせたソランに、残念でしたね、とおやつの焼き菓子を一つ増やしてやるし、牧場の小父さんたちは、次の入れ知恵を耳に囁いてやっているようだった。
一人、領主夫人のイリスけが大丈夫かと心配してくれ、やり過ぎないようにね、と注意をしてはくれるものの、それでもやはり、やめろとは言ってくれない。
むしろこれでイアルが負ければ、その程度でソラン様をお守りできるのか、と叱られかねなかった。
領主館の玄関扉が開き、そこから小柄な人影が出てきた。腕に重そうなバスケットを抱えている。マリーだ。
イアルは大変だろうと駆けよって、おはよう、と挨拶しながらバスケットを持ち上げた。
「おはよう、イアル」
反抗期だか思春期だか男嫌いだかで、このところツンケンすることの多いマリーが、珍しく可愛らしく笑いながら挨拶を返してくれた。
真っ白い半袖のブラウスが眩しい。まだ日に焼けていない細い首と腕も真っ白で、若木のように柔らかそうだ。後ろで編みこんだ残りの後れ毛に、少しだけ色気を感じて、どきりとする。
あれ? いや、子供だろ? と思いつつも、バスケットを手放した後に現れた、薄い布を盛り上げている胸のふくらみに目を奪われた。
冬着だった時にはそれほど気にならなかったそれが、形良くおいしそうに、とまで考えて、いやいやいや、だから、焼きたてのパンみたいだって思ったからで、と、一人心の中で弁解する。
ふと、雰囲気が変わったのを感じて視線を上げれば、顔を強張らせ、じと、と自分を見上げるマリーと目が合い、まずい、とうろたえた。
「新しいブラウス、よく似合ってると思って」
しどろもどろに褒める。そのうろたえぶりが疚しさを物語って余りあったのだが、事実疚しいので、どうにもならない。
まだ十二歳の妹みたいに面倒を見てきた子に対して、俺、何考えてんだ! と、自分で自分の首を絞めたい心境だった。
と、その時。背後で空気が動いて、まずいと身構えた瞬間、どすう、と背中に衝撃がくる。
「隙あり!」
ソランの声だった。飛び蹴りをくらわされたらしい。思わずバスケットを落とすまいと踏ん張る。そうして動けなくなったイアルの目の前で、マリーがにいっと笑った。
「スケベオヤジ!」
右足が振り上げられ、スカートがめくれて素敵な足が膝まで見えたかと思うと、急所に蹴りを入れられた。
凄まじい痛みが脳天まで突き抜け、今度こそイアルは膝を折った。今日の昼食だろうバスケットは死守したが。
「やったー! 大成功ー!」
ソランがまわりで飛び跳ねて歓声をあげている。
それは反則だろうとか、気軽に急所を攻めるんじゃないとか、本気で俺を殺す気かとか、いろいろ言いたかったが、声にならない。動けない。
バスケットが取り上げられ、おじーさまとおばーさまに教えてこよーっ、という嬉々とした声が遠ざかっていく。
頼む。言いふらしてくれるな。と思っても、無駄なことはわかっていた。
それにしたって、スケベオヤジって。
イアルは一人、玄関の前で這い蹲り、がっくりとうなだれたのだった。
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