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閑話集 四季折々
盛夏の約束(殿下の勝利)
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王都はここ数日、うだるような暑さが続いていた。まだ昼前だというのに、汗が滲んでくる。
アティス王太子殿下はサインを終えて、書類に貼りつく手を引き剥がすと、目処の立った書類をディー・エフィルナン筆頭補佐官に押しやった。
そして、自分の隣で別の書類を読んでいるソラン妃殿下に声をかけた。
「そっちはどうだ」
「いくつか。目を通してください」
赤いインクで書き込みをしたものを、殿下に渡す。それに目をはしらせ、最後に自分のサインをすると、机の上にペンを放り出した。
「すぐに調査、改善策を上げさせろ」
「かしこまりました。期限は一月ほどでよろしいでしょうか」
「長いな。進捗具合を時々報告させろ。一月後には実働させる」
「はい。そのように」
その間にも、妃殿下は次の書類に取り掛かろうとしている。その手を、殿下は素早く動いて握りしめた。
何事かと彼を見上げる妃殿下に、突然宣言する。
「湖に行くぞ」
「湖?」
「約束しただろう。夏になったらもう一度行くと」
そう言っても心当たりのない顔をしている妃殿下に、王太子殿下は椅子から腰を上げて、悪い笑みを浮かべて近付いた。
不穏な気配に、彼女はとっさに逃げ出そうとしたが、そもそも手を取られている。そのまま椅子の中に押さえ込まれ、動けない状態で、ちゅ、と触れるだけの口付けがされた。
妃殿下は恥ずかしげに頬を染め、自分の口を押さえて夫を睨みつけた。しかし殿下は堪えた様子もなく、むしろからかうように問いかけた。
「思い出したか?」
「何のことですか」
彼女は眉をしかめた。しかし根が素直なために、恥ずかしがって怒っていたにもかかわらず、愛しい夫の謎かけに考え込みはじめる。
目が泳ぐこと、数十秒。
彼女の思い当たらない様子に、殿下はこれみよがしに溜息をついた。
「我が妃は、つれないことだ」
なんとなく罪悪感にかられて、彼女が夫をそろりと見上げると、彼はニヤリと笑って耳元へ顔を近づけてくる。
「なっ、やめっ」
妃殿下は、もっと恥ずかしいことをされると身構え、体を強張らせたが、彼は彼女の形のいい耳に、小さな声で囁きかけただけだった。
「私にとっては一世一代の告白だったのだが」
「え? あっ」
彼女は目を見開き、動きが止まったかと思うと、見事なほどにかーっと、首から耳まで血をのぼらせた。
「そうだ。あの時、約束しただろう? 夏になったら、またここへ二人で来ようと」
王都の北にある王領の小さな美しい湖。その辺(ほとり)で、王太子は彼女に愛を告げ、結婚の申し込みをしたのだった。
「でも、まだ仕事が」
「これだけ済んでいれば充分だ」
「それに、侍女たちに用意を頼んでいません」
「もちろんだ。邪魔が入ってはたまらないからな」
どういうことかと首を傾げる彼女の手を引き、さあ、行くぞ、と立たせる。
「これから緊急事態に備えた演習を抜き打ちで行う。ベイル、直ちに五十人を先行させ、安全を確保しろ。ディー、一泊分の食料と、我々の着替えを。イドリック、追っ手を阻め。イアルはこのまま護衛を指揮しろ。かかれ!」
男たちがきびきびと動きはじめる。そのものものしさに、一人わけのわからないソランも表情を引き締め、つかまれた手を離そうとした。手を繋いでいては、いざというときに剣が抜けないからだった。
「追っ手とは? 演習ではないのですか?」
「ああ、演習だが、恐ろしくしつこい追っ手が用意されている。けっしてこの手を離すな。誰に何を話しかけられても応えるんじゃないぞ。先を急ぐことだけ考えるんだ。わかったな?」
重々しく言い聞かされ、はい、と頷く。
何事にも真面目な妃殿下は、まわりの護衛たちが顔を背けて肩を強張らせているのを、熱心に周囲を警戒しているのだと捉え、笑いを噛み殺しているのだとは少しも気付かなかったのだった。
こうして王太子殿下は、結婚後初めて、小うるさい『妃殿下の花園』をまき、思い出の地で、愛する妻を丸一日独り占めするのに成功したのだった。
アティス王太子殿下はサインを終えて、書類に貼りつく手を引き剥がすと、目処の立った書類をディー・エフィルナン筆頭補佐官に押しやった。
そして、自分の隣で別の書類を読んでいるソラン妃殿下に声をかけた。
「そっちはどうだ」
「いくつか。目を通してください」
赤いインクで書き込みをしたものを、殿下に渡す。それに目をはしらせ、最後に自分のサインをすると、机の上にペンを放り出した。
「すぐに調査、改善策を上げさせろ」
「かしこまりました。期限は一月ほどでよろしいでしょうか」
「長いな。進捗具合を時々報告させろ。一月後には実働させる」
「はい。そのように」
その間にも、妃殿下は次の書類に取り掛かろうとしている。その手を、殿下は素早く動いて握りしめた。
何事かと彼を見上げる妃殿下に、突然宣言する。
「湖に行くぞ」
「湖?」
「約束しただろう。夏になったらもう一度行くと」
そう言っても心当たりのない顔をしている妃殿下に、王太子殿下は椅子から腰を上げて、悪い笑みを浮かべて近付いた。
不穏な気配に、彼女はとっさに逃げ出そうとしたが、そもそも手を取られている。そのまま椅子の中に押さえ込まれ、動けない状態で、ちゅ、と触れるだけの口付けがされた。
妃殿下は恥ずかしげに頬を染め、自分の口を押さえて夫を睨みつけた。しかし殿下は堪えた様子もなく、むしろからかうように問いかけた。
「思い出したか?」
「何のことですか」
彼女は眉をしかめた。しかし根が素直なために、恥ずかしがって怒っていたにもかかわらず、愛しい夫の謎かけに考え込みはじめる。
目が泳ぐこと、数十秒。
彼女の思い当たらない様子に、殿下はこれみよがしに溜息をついた。
「我が妃は、つれないことだ」
なんとなく罪悪感にかられて、彼女が夫をそろりと見上げると、彼はニヤリと笑って耳元へ顔を近づけてくる。
「なっ、やめっ」
妃殿下は、もっと恥ずかしいことをされると身構え、体を強張らせたが、彼は彼女の形のいい耳に、小さな声で囁きかけただけだった。
「私にとっては一世一代の告白だったのだが」
「え? あっ」
彼女は目を見開き、動きが止まったかと思うと、見事なほどにかーっと、首から耳まで血をのぼらせた。
「そうだ。あの時、約束しただろう? 夏になったら、またここへ二人で来ようと」
王都の北にある王領の小さな美しい湖。その辺(ほとり)で、王太子は彼女に愛を告げ、結婚の申し込みをしたのだった。
「でも、まだ仕事が」
「これだけ済んでいれば充分だ」
「それに、侍女たちに用意を頼んでいません」
「もちろんだ。邪魔が入ってはたまらないからな」
どういうことかと首を傾げる彼女の手を引き、さあ、行くぞ、と立たせる。
「これから緊急事態に備えた演習を抜き打ちで行う。ベイル、直ちに五十人を先行させ、安全を確保しろ。ディー、一泊分の食料と、我々の着替えを。イドリック、追っ手を阻め。イアルはこのまま護衛を指揮しろ。かかれ!」
男たちがきびきびと動きはじめる。そのものものしさに、一人わけのわからないソランも表情を引き締め、つかまれた手を離そうとした。手を繋いでいては、いざというときに剣が抜けないからだった。
「追っ手とは? 演習ではないのですか?」
「ああ、演習だが、恐ろしくしつこい追っ手が用意されている。けっしてこの手を離すな。誰に何を話しかけられても応えるんじゃないぞ。先を急ぐことだけ考えるんだ。わかったな?」
重々しく言い聞かされ、はい、と頷く。
何事にも真面目な妃殿下は、まわりの護衛たちが顔を背けて肩を強張らせているのを、熱心に周囲を警戒しているのだと捉え、笑いを噛み殺しているのだとは少しも気付かなかったのだった。
こうして王太子殿下は、結婚後初めて、小うるさい『妃殿下の花園』をまき、思い出の地で、愛する妻を丸一日独り占めするのに成功したのだった。
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