暁にもう一度

伊簑木サイ

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閑話集 四季折々

秋の夜長に(イアルと殿下)

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「おまえ、ソランと寝ていた頃があったそうだな」

 イアルは酒を舐めつつ、横目でそっと、一人用のソファに座る殿下の表情を覗った。
 杯を揺らし、中が波立つ様子を無表情に見ている。平時と変わらない顔色だが、もしかしたら酔っているのかもしれなかった。
 そうでなければ、高い自尊心を持つ殿下が、男相手に嫉妬心を見せるわけがない。

 ソランのまわりに群れる女性たちと火花を散らしてみせるのは、殿下にとっては娯楽の一種だ。結局ソランは殿下を最優先にするのだから、それを見せ付けて楽しんでいる節がある。
 だがそれは女性相手だからで、恋の鞘当が洒落にならない男相手では話が違う。触るどころか、時々、見るな、と視線一つで、偶々居合わせた男たちを追い払うほどだ。
 他の誰でもない殿下の妻、それもよりによって、無茶が服を着て歩いているような殿下にベタ惚れの聖騎士位を持つ女になんか、誰がどうやって手を出せるというのだろう。
 なのに、すさまじく狭い了見で威嚇するのだ。

 そんな殿下が、たとえ過去の話であっても、ソランと他の男との関係を認めるのは、素面ならありえないだろう。
 ――面倒なことになった。この人が酒で乱れたところは見たことがないが、もしかして絡み酒なのだろうか。
 イアルは緊張しながら、努めてさりげなく返答した。

「子供の頃の話ですが」
「十四くらいの時と言っていたが」

 これまた殿下からも、さりげなく返される。
 ああ、はい、俺は十八で大人でしたが、それが何か?
 奥歯に物の挟まったような応酬に、いっそそう返してやりたい衝動に駆られたが、やめた。
 イアルにとって、殿下は絶対に関係を破綻させられない相手である。まかり間違って勘気をこうむり罷免でもされたら、マリーに容赦なく離婚される。ソランの傍にいられない男になど、彼女は興味がないのだから。

 イアルは、何かいっそ、物悲しい気分になってきた。
 かわいい妻はソランに夢中で、ソランはこの人に夢中。
 なのにどうして、その二人に常に無茶振りされて苦労しているイアルが、原因の頂点に立つ相手に因縁をつけられなければならないのか。理不尽にもほどがある。

 とにかく、二度とこんな鬱陶しい殿下の嫉妬に付き合いたくはなかった。事実関係をきちんと説明して、ここできっちり納得してもらった方がいい。
 イアルは杯をテーブルの上に置き、両手で囲って息をついた。
 冷静に殿下へと向き直り、淡々と説明を始める。

「ソラン様が初めて人を殺したのは、十三歳の時でした。留学先のエレイアに向かう途中のことです。盗賊に襲われて、しかたなく。気丈にふるまっていましたが、すぐに肉類をまったく受け付けなくなりました」

 殿下も顔を上げ、黙ってイアルを見つめた。真剣に耳を傾けているのがわかる。イアルは安心して話を続けた。

「それから、次は赤い食べ物でした。口に入れなくても、見るだけでも嘔吐えづくようになって。夜も何度も飛び起きて、ろくに眠れない日々が続きました。その時に、見るに見かねてのことです」

 そうしてソランは、精神的な圧迫に耐えかねて、深い眠りに陥るたびに、柔らかい何かを失くし、急激に大人びていったのだ。
 それはイアルにとっても、強く抱き締めたはずの腕の中から、大切なものが音もなく失われていく、きつく辛い日々だった。
 そこにある裏を知っていたからこそ、よけいにだったのかもしれない。

「そんな状態であっても、ソラン様は、村の用心棒を務めて、盗賊を相手に実戦を重ねました。同時に、医学の勉強のために人体の解剖も行っていたのです。すべて、前御領主であるアーサー様の意向でした。来(きた)るべき日に、ソラン様が剣を振るうことを、決して躊躇わないようにと。……いずれ、殿下の盾となり、剣となるために」

 殿下はイアルが口を噤んでも、しばらく話を待つように目を合わせていた。鉄壁の無表情は少しも崩れておらず、どう感じているのかは窺い知れなかった。
 やがて、そうか、と言うと、自然に杯へと視線を戻していった。そのまま何を言うでもなく、ゆったりと傾けて口をつけている。
 イアルなら、あんな話を聞けば、いたたまれない気持ちで、礼と謝罪を申し述べるところだろう。

 だが、とイアルはふいに気付いた。この人にそれはできないのだ、と。そんな、その場限りの思いや言葉だけで済ませることは許されない。
 この人は一生、たくさんの命と思いを背負って生きていかなければならない。そういう立場にいる。

 たぶん、話すべきではなかった。エレイアでのソランの様子はさておき、殿下のために、そうしたのだなどということは。
 一時いっときの、この人も少しは思い知ればいいという意地の悪い気分は、今ではもう抜けていた。
 殿下のソランに関する了見の狭さを揶揄できない。自分こそ狭量だったと、イアルは少し苦い思いで酒を口にした。

 ――だから、嫌なんだ。
 殿下の杯に酒が少なくなったのを見て、酒瓶を取り上げながら、腹の底からそう思う。
 器の違いを見せ付けられる。この人の背負う、常人には耐えられないだろう荷の重さを、垣間見るほどに。
 そのあまりの違いに、畏怖を覚えて膝を折りたくもなれば、同じ男として、無性に反発を覚えもする。
 だから、相手によっては、命を懸けるほどに入れ込む者もいるし、毛嫌いする者もいるのだ。

 そのどちらも、殿下にとっては不本意なものだろう。過ぎた評価も、貶す評価も、正しくないというその一点において等しくあれば。
 それでも、この人は決して己を曲げない。誰にもおもねらず、信念の下に、目指すべきものを見誤らない。
 だからイアルも、この先何があっても、後悔だけはしないだろうという確信があった。たとえ途中で己の命を失い、マリーを死なせてしまうとしても。
 ソランとこの人が選び、足掻き、必死に辿り着こうとしている未来を、信じられるから。

 瓶の口を傾け差し出せば、殿下が杯を出してきた。イアルが注ぎ終わると自分のものから手を離し、瓶を取り上げていく。そして、イアルの意向も確認せずに、どぶどぶと注いでくれた。
 世の中のすべてを睨んでいるような、ものすごく気難しい顔で。
 イアルは思わず小さく笑ってしまった。

「なんだ」

 表情ほどには不機嫌ではない声音で尋ねられる。

「いえ、女性方は遅いな、と」

 適当にごまかせば、殿下は溜息混じりに言った。

「しかたあるまい。女は話が長いと決まっている」

 ディーの奥方シリンが、ソランの懐妊祝いにと、わざわざ領地からやってきたのだった。その際に、マリーの出産祝いまで用意してきてくれており、只今、その三人以外にも親しい間柄の女性が集まり、ディーの屋敷で晩餐会が開かれているのだった。昼のお茶会から、伸びに伸びてのことである。
 イアルは、ならばせめて自分たちの部屋でマリーの帰りを待つつもりだったはずが、そろそろ食堂で夕飯でもと、ふらりと出た所で殿下と鉢合わせし、そのままなぜか殿下の部屋で酒を飲んでいるというわけだった。

 本当なら今頃は、イアルは息子をあやすマリーに見惚れており、殿下も妃殿下をかまいたおしている時間だ。
 その貴重な時間が削られて、面白いわけがない。が、女性のたまの楽しみを邪魔するような無粋もできない。

「気長に待つしかあるまい。幸い、秋の夜は長いことだしな。おまえも、もうしばらくつきあえ。ソランの幼い頃の話でも聞かせろ」

 鷹揚に言った殿下は、イアルに顔を向け、わずかに笑みを刷いた。寛いでいるのがよくわかるそれは、男相手であってもドキリとさせる、非常に魅力的な表情だった。
 ああ、かなわない、と感じる。
 気に入らないと思っているのは確かなのに、どうしてこんな笑み一つで、こんなに、この人の願いを叶えてやりたいと思わされてしまうのだろう。

「かしこまりました。では、生まれた時から順を追ってお話ししましょうか」

 つい、そんな提案をしてしまう。

「ああ。そうしてくれ」

 殿下は杯から手を離し、背もたれに寄りかかって、聞く体勢を整えた。
 イアルは、酒をふるまってくれた部屋の主の秋の夜長の無聊を慰めるため、大切な少女と走り抜けてきた、懐かしく、重く、何ものにも換え難い愛しい日々を、ゆっくりと語りだしたのだった。
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