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アニャン、約束の意味を知る
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今朝は、ミミルとニーナがやってきて、食事を用意していった。
エウルもゆっくり食事をしている。というか、元気がない。私と目が合うと笑みを浮かべたけれど、そのままぼーっと、食事の手を止めて私を眺めている。どうしたのだろう。具合でも悪いのだろうか。
『エウル?』
『……うん? なんだ?』
話しかけたことに、何の用事だと聞き返された気がする。……たぶん。
ああ、本当に、はやく言葉を覚えたい。エウルの方がたいへんそうなのに、返って気遣わせてしまったみたいだ。
私は、自覚がないらしいエウルではなく、パタラの袖を引いた。
『パタラ。エウル、くび、さわると、あつい?』
家畜の乳を温めるときに、パタラは、『なべを』『さわると』『あつい』『やけどするからね』と教えてくれた。
『エウルが?』
パタラは目を丸くして、ぷっと吹き出した。あっはっは、と大きな口を開けて笑いだす。
『こんなの、外に転がしておいたって、熱を出したりしやしないよ! 今日は放牧の差配をしなきゃならないから、公主の傍にいられなくて、しょんぼりしているだけさ。心配することはないよ』
どうやら、そんなことはないと笑い飛ばされたようだ。でも、明らかにいつもと違っておかしいのに。
『俺の心配をしてくれたのか?』
後ろから両脇の下に手を入れられたと思ったら、ひょいっと持ち上げられて、彼の膝に下ろされた。
何で!? どうして、急に!? 何が何だかわからなくてあわあわしていると、お腹のところで彼の腕が交差され、頭にのしっと重みがのっかってくる。ぐーいぐーいと押しつけられ、頭がぐらぐら揺れた。……もしかして、これは頬ずりされているんだろうか……?
私は硬直した。思わずパタラを窺う。
彼女は自然に笑って気にした様子はなかった。むしろ、面白がっているように見える。
……ひょっとして、いつものことなんだろうか?
そうか。エウルだもの。第二夫人にも、第三夫人にも、こういうことをしょっちゅうしているってことなんだろう。
それに、私はエウルに子供だと思われているんだった。子供なら、膝にのせてあやすのは、ごく普通のことだ。
いつまで子供の振りをしていた方がいいんだろう? 後にすればするほど、気まずい出来事が積み上がっていくのに。
パタラに目で訴えると、私にだけわかるように楽しそうに肩をすくめて、エウルを諭してくれた。……たぶん。
『公主がすごく困った顔をしているよ。下ろしておやり』
『嫌なのか?』
頭の重しがなくなって、エウルに横から顔を覗きこまれた。あんまり近くて、反射的に、ぼっと顔が熱くなる。
何か情けない表情で聞かれたけれど、よくわからない。
『しょうがない子だねえ。……公主、このリボンを取ってごらん』
パタラが私の三つ編みの先を前に持ってきて、リボンの端を摘まんで引っ張る仕草をした。言われるままにとけば、空いている私の椅子をぽんぽんと叩き、座るようにうながされる。
エウルも意図がわかったようで、私を椅子に戻してくれた。
パタラはエウルの二の腕を指さした。
『リボンを巻いてやっておくれ』
どうやら、縛りつけろと言っているみたいだ。エウルがやりやすいように上げてくれた腕に、リボンを一回りさせて蝶結びにした。
『じゃあ、俺からもだ』
エウルが首に巻き入れている布を引き抜いて、私の首に結んでくれる。彼は嬉しそうにやりはじめたのに、縛ってくれる時は、案外真剣な顔をしていた。……まるで、祈るような。
そう、あの時も、こんな表情をしていた。
あ。もしかして、これは、何かを約束してくれている……?
『やくしょく?』
『ああ、そうだ。約束だ』
しっかり頷く彼に、今日きっと、彼は遠くまで出掛けるんだと、そう感じた。
あの馬車の端っこで、離れていく彼を思わず引き留めてしまったら、布を巻いてくれた時のように。どうしても私から離れなければならないんじゃないだろうか?
さっき私を見ていたのは、置いていくから、寂しがらないかと心配していたのかもしれない。
だからこそ、今もあの時も、言葉のわからない私に、行動で伝えようとしてくれていたんだろう。
預けたこれを、必ず取り戻しに来る、と。また帰ってくる、のだと。
巻き終わったエウルが、私を見つめて、ふ、と笑った。じっと見ている私に、何だ、とでもいうように、指の背で頬を撫でてくる。
その優しい感触に、あたたかいまなざしに、ふいに、この優しい人が好きだなあ、と思った。とてもとても好きだなあ、と。
胸の中で、気持ちが急に大きく膨れていった。息苦しくなるくらいのそれが喉元をせりあがって、止める間もなく、ぽろりぽろりと涙になって零れ落ちる。
『耀華公主!?』
エウルが眉尻を下げ、慌てて腰を浮かした。
『どうした。どこが痛い、それとも苦しいのか!?』
額に手を当てられ、涙をぬぐわれて、大きな掌で両の頬を包まれた。心配そうに目を覗きこまれる。
「な、なんでもありません、大丈夫です、申し訳ございません」
帝国の言葉が通じないとしても、伝えずにはおれなかった。
涙を止めようと頑張ってみるけれど、どうしても止まらない。
だって、彼の手もまなざしもあまりに優しくて、気遣われるほどに、胸が熱くなってしまう。次から次にあふれて、零れだしてきてしまう。
『何か、帝国のことでも思い出したかねえ。こんなに可愛い子だもの。あちらでも別れを惜しまれたのだろうよ』
パタラが何かを言い、エウルの方が辛そうな表情になって、頭を引き寄せられた。涙で濡れた私の顔を自分の胸元に押しつけて、頭を抱え込んでくれる。
『もう、どこにもやったりしない。ずっと一緒だからな』
そう囁いて、背中をゆっくり撫でてくれる。
何を言っているのかは、やっぱりわからなかった。わからないけれど、気遣う気持ちだけは伝わってきて、私はひとしきり泣くのをやめられなかった。
『さあて、じゃあ、牛の乳搾りでも行こうかねえ。公主は動物が好きだろう? きっと、気に入ると思うよ』
リャノという人に呼ばれて、エウルが後ろ髪引かれるように出掛けていった後、私はしばらく水で濡らした布で、顔を冷やしていた。
私の目元が落ち着いてきたのを見てとって、パタラは明るい声で話して、私を立たせた。壁際に片付けてあった桶を持ってきて、私の手を引いて外に出る。
天幕の入り口のところでいつでも遊んでいるエニとマニが飛びついてきたので、ぽいぽいっと肉の切れ端を放ってやった。
「今は遊べないの。また後でね」
そう言って、しっしと手を振ると、二匹はおとなしく後ろをついてきた。
遠くで、馬に乗った人と一緒に、羊がぞろぞろ歩いていくのが見えた。全部が全部連れて行かれるわけではないらしく、残っているのもいる。牛や馬も同じだ。
パタラは近くの牛の群れへと向かって行った。
『私達も乳搾りを手伝うよ』
牛の向こう側でしゃがみ、乳搾りをしていた二人が立ち上がった。ミミルとニーナだ。ニーナは会釈して、すぐに乳搾りに戻ったけれど、ミミルはにこりとして言った。
『ありがとうございます。では、仔牛を連れてきますね』
ミミルは仔牛だけが集められた柵の方へ歩いて行った。
ここ何日かの食事でわかったのは、閻の人達の主な食べ物は、家畜の乳を様々に加工したものらしいということだ。少しはお肉も出てくるけれど、それが主食じゃない。
『獣の血をすすり、肉ばかりを喰らうせいで、角が生えている野蛮な人々』なんていう噂は、まったくの嘘だった。
それどころか、言葉も通じない、何もできない小娘に、親切にしてくれる、優しい人達だ。
蛮族なんて、とんでもない評価だ。噂なんて当てにならないとはよく言うけれど、こんなに悪い方へ違うなんて、酷すぎる。
……いつか、もしも、家族に言伝を頼めるなら、ここの人達は良い隣人なのだと伝えたかった。
ミミルが柵の中から仔牛を引き出してきた。目がくりくりとして、とてもかわいい。毛がやわらかそうで、触ってみたくて、そろそろと近付いていってみる。
ところが、牛の群れの中から、大人の牛が一頭出てきた。乳がお腹の下でぶらぶらしている。お母さんなのかもしれない。
だいぶ大きくて、少し怖い。怒らせて突進されたら、私なんか死んでしまうだろう。私はそーっと退いて、パタラの後ろに戻った。
仔牛が母牛の下にもぐりこみ、乳を吸いだす。目をむいて、チュウチュウ一所懸命だ。
しばらくして、ミミルが仔牛の横にしゃがんだ。仔牛の頭を掴む。何をするのかと思ったら、なんと、仔牛の口に自分の指を差し入れた!
仔牛は、チュバチュバ音をたててミミルの指を吸った。お母さんの乳との違いがわかってないみたいだ。ミミルはそのまま指を吸わせながら、巧みに母牛から仔牛を引き離していった。
パタラがすかさず母牛の横に座って、腹の下に桶を置いた。乳房を両手で掴んで、下に軽くひっぱる。シャーッシャーッと白い乳が、桶の中にほとばしった。
「うわあ……」
感嘆の声をもらすと、パタラが目を上げて教えてくれた。
『牛の乳搾り、だよ』
『うしのちちしおり?』
『牛』
片手だけ乳を離して、牛を指さす。
『うし』
『そうそう。牛の、乳搾り』
そう言って、今度は乳を搾り出している手を指さした。
『うしの、ちちしお、……しぼり、うしのちちしぼり』
『そう。上手に言えたね。……牛の乳搾り、やってみるかい?』
パタラは脇によけて、自分が座っていた場所を、どうぞと示した。
私は実は、初めてではない。家で山羊を飼っていて、子供の頃、その乳を搾っていたのだ。
そっと牛の乳に触れてみた。生暖かくて、やわらかい。それに、当たり前だけど、牛の方が山羊より大きい。ちょっと勝手が違う。昔を思い出しながら、上から順に指を握りこむと、ジョロ、と少しだけ乳が出た。
『おや、上手じゃないか!』
言葉はわからなくても、褒められたのはわかる。嬉しい。
何度かやっているうちに、ショーッと太く出るようになってきた。
『おやまあ、公主は飲み込みが早いね。じゃあ、この子は公主に任せるからね』
パタラは、ぽんぽんと私の肩を叩いて、ミミルが新しく連れてきた牛の方へ歩いていった。
私でもできる仕事があることに、心が弾む。私は夢中で、乳搾りの続きに精を出した。
エウルもゆっくり食事をしている。というか、元気がない。私と目が合うと笑みを浮かべたけれど、そのままぼーっと、食事の手を止めて私を眺めている。どうしたのだろう。具合でも悪いのだろうか。
『エウル?』
『……うん? なんだ?』
話しかけたことに、何の用事だと聞き返された気がする。……たぶん。
ああ、本当に、はやく言葉を覚えたい。エウルの方がたいへんそうなのに、返って気遣わせてしまったみたいだ。
私は、自覚がないらしいエウルではなく、パタラの袖を引いた。
『パタラ。エウル、くび、さわると、あつい?』
家畜の乳を温めるときに、パタラは、『なべを』『さわると』『あつい』『やけどするからね』と教えてくれた。
『エウルが?』
パタラは目を丸くして、ぷっと吹き出した。あっはっは、と大きな口を開けて笑いだす。
『こんなの、外に転がしておいたって、熱を出したりしやしないよ! 今日は放牧の差配をしなきゃならないから、公主の傍にいられなくて、しょんぼりしているだけさ。心配することはないよ』
どうやら、そんなことはないと笑い飛ばされたようだ。でも、明らかにいつもと違っておかしいのに。
『俺の心配をしてくれたのか?』
後ろから両脇の下に手を入れられたと思ったら、ひょいっと持ち上げられて、彼の膝に下ろされた。
何で!? どうして、急に!? 何が何だかわからなくてあわあわしていると、お腹のところで彼の腕が交差され、頭にのしっと重みがのっかってくる。ぐーいぐーいと押しつけられ、頭がぐらぐら揺れた。……もしかして、これは頬ずりされているんだろうか……?
私は硬直した。思わずパタラを窺う。
彼女は自然に笑って気にした様子はなかった。むしろ、面白がっているように見える。
……ひょっとして、いつものことなんだろうか?
そうか。エウルだもの。第二夫人にも、第三夫人にも、こういうことをしょっちゅうしているってことなんだろう。
それに、私はエウルに子供だと思われているんだった。子供なら、膝にのせてあやすのは、ごく普通のことだ。
いつまで子供の振りをしていた方がいいんだろう? 後にすればするほど、気まずい出来事が積み上がっていくのに。
パタラに目で訴えると、私にだけわかるように楽しそうに肩をすくめて、エウルを諭してくれた。……たぶん。
『公主がすごく困った顔をしているよ。下ろしておやり』
『嫌なのか?』
頭の重しがなくなって、エウルに横から顔を覗きこまれた。あんまり近くて、反射的に、ぼっと顔が熱くなる。
何か情けない表情で聞かれたけれど、よくわからない。
『しょうがない子だねえ。……公主、このリボンを取ってごらん』
パタラが私の三つ編みの先を前に持ってきて、リボンの端を摘まんで引っ張る仕草をした。言われるままにとけば、空いている私の椅子をぽんぽんと叩き、座るようにうながされる。
エウルも意図がわかったようで、私を椅子に戻してくれた。
パタラはエウルの二の腕を指さした。
『リボンを巻いてやっておくれ』
どうやら、縛りつけろと言っているみたいだ。エウルがやりやすいように上げてくれた腕に、リボンを一回りさせて蝶結びにした。
『じゃあ、俺からもだ』
エウルが首に巻き入れている布を引き抜いて、私の首に結んでくれる。彼は嬉しそうにやりはじめたのに、縛ってくれる時は、案外真剣な顔をしていた。……まるで、祈るような。
そう、あの時も、こんな表情をしていた。
あ。もしかして、これは、何かを約束してくれている……?
『やくしょく?』
『ああ、そうだ。約束だ』
しっかり頷く彼に、今日きっと、彼は遠くまで出掛けるんだと、そう感じた。
あの馬車の端っこで、離れていく彼を思わず引き留めてしまったら、布を巻いてくれた時のように。どうしても私から離れなければならないんじゃないだろうか?
さっき私を見ていたのは、置いていくから、寂しがらないかと心配していたのかもしれない。
だからこそ、今もあの時も、言葉のわからない私に、行動で伝えようとしてくれていたんだろう。
預けたこれを、必ず取り戻しに来る、と。また帰ってくる、のだと。
巻き終わったエウルが、私を見つめて、ふ、と笑った。じっと見ている私に、何だ、とでもいうように、指の背で頬を撫でてくる。
その優しい感触に、あたたかいまなざしに、ふいに、この優しい人が好きだなあ、と思った。とてもとても好きだなあ、と。
胸の中で、気持ちが急に大きく膨れていった。息苦しくなるくらいのそれが喉元をせりあがって、止める間もなく、ぽろりぽろりと涙になって零れ落ちる。
『耀華公主!?』
エウルが眉尻を下げ、慌てて腰を浮かした。
『どうした。どこが痛い、それとも苦しいのか!?』
額に手を当てられ、涙をぬぐわれて、大きな掌で両の頬を包まれた。心配そうに目を覗きこまれる。
「な、なんでもありません、大丈夫です、申し訳ございません」
帝国の言葉が通じないとしても、伝えずにはおれなかった。
涙を止めようと頑張ってみるけれど、どうしても止まらない。
だって、彼の手もまなざしもあまりに優しくて、気遣われるほどに、胸が熱くなってしまう。次から次にあふれて、零れだしてきてしまう。
『何か、帝国のことでも思い出したかねえ。こんなに可愛い子だもの。あちらでも別れを惜しまれたのだろうよ』
パタラが何かを言い、エウルの方が辛そうな表情になって、頭を引き寄せられた。涙で濡れた私の顔を自分の胸元に押しつけて、頭を抱え込んでくれる。
『もう、どこにもやったりしない。ずっと一緒だからな』
そう囁いて、背中をゆっくり撫でてくれる。
何を言っているのかは、やっぱりわからなかった。わからないけれど、気遣う気持ちだけは伝わってきて、私はひとしきり泣くのをやめられなかった。
『さあて、じゃあ、牛の乳搾りでも行こうかねえ。公主は動物が好きだろう? きっと、気に入ると思うよ』
リャノという人に呼ばれて、エウルが後ろ髪引かれるように出掛けていった後、私はしばらく水で濡らした布で、顔を冷やしていた。
私の目元が落ち着いてきたのを見てとって、パタラは明るい声で話して、私を立たせた。壁際に片付けてあった桶を持ってきて、私の手を引いて外に出る。
天幕の入り口のところでいつでも遊んでいるエニとマニが飛びついてきたので、ぽいぽいっと肉の切れ端を放ってやった。
「今は遊べないの。また後でね」
そう言って、しっしと手を振ると、二匹はおとなしく後ろをついてきた。
遠くで、馬に乗った人と一緒に、羊がぞろぞろ歩いていくのが見えた。全部が全部連れて行かれるわけではないらしく、残っているのもいる。牛や馬も同じだ。
パタラは近くの牛の群れへと向かって行った。
『私達も乳搾りを手伝うよ』
牛の向こう側でしゃがみ、乳搾りをしていた二人が立ち上がった。ミミルとニーナだ。ニーナは会釈して、すぐに乳搾りに戻ったけれど、ミミルはにこりとして言った。
『ありがとうございます。では、仔牛を連れてきますね』
ミミルは仔牛だけが集められた柵の方へ歩いて行った。
ここ何日かの食事でわかったのは、閻の人達の主な食べ物は、家畜の乳を様々に加工したものらしいということだ。少しはお肉も出てくるけれど、それが主食じゃない。
『獣の血をすすり、肉ばかりを喰らうせいで、角が生えている野蛮な人々』なんていう噂は、まったくの嘘だった。
それどころか、言葉も通じない、何もできない小娘に、親切にしてくれる、優しい人達だ。
蛮族なんて、とんでもない評価だ。噂なんて当てにならないとはよく言うけれど、こんなに悪い方へ違うなんて、酷すぎる。
……いつか、もしも、家族に言伝を頼めるなら、ここの人達は良い隣人なのだと伝えたかった。
ミミルが柵の中から仔牛を引き出してきた。目がくりくりとして、とてもかわいい。毛がやわらかそうで、触ってみたくて、そろそろと近付いていってみる。
ところが、牛の群れの中から、大人の牛が一頭出てきた。乳がお腹の下でぶらぶらしている。お母さんなのかもしれない。
だいぶ大きくて、少し怖い。怒らせて突進されたら、私なんか死んでしまうだろう。私はそーっと退いて、パタラの後ろに戻った。
仔牛が母牛の下にもぐりこみ、乳を吸いだす。目をむいて、チュウチュウ一所懸命だ。
しばらくして、ミミルが仔牛の横にしゃがんだ。仔牛の頭を掴む。何をするのかと思ったら、なんと、仔牛の口に自分の指を差し入れた!
仔牛は、チュバチュバ音をたててミミルの指を吸った。お母さんの乳との違いがわかってないみたいだ。ミミルはそのまま指を吸わせながら、巧みに母牛から仔牛を引き離していった。
パタラがすかさず母牛の横に座って、腹の下に桶を置いた。乳房を両手で掴んで、下に軽くひっぱる。シャーッシャーッと白い乳が、桶の中にほとばしった。
「うわあ……」
感嘆の声をもらすと、パタラが目を上げて教えてくれた。
『牛の乳搾り、だよ』
『うしのちちしおり?』
『牛』
片手だけ乳を離して、牛を指さす。
『うし』
『そうそう。牛の、乳搾り』
そう言って、今度は乳を搾り出している手を指さした。
『うしの、ちちしお、……しぼり、うしのちちしぼり』
『そう。上手に言えたね。……牛の乳搾り、やってみるかい?』
パタラは脇によけて、自分が座っていた場所を、どうぞと示した。
私は実は、初めてではない。家で山羊を飼っていて、子供の頃、その乳を搾っていたのだ。
そっと牛の乳に触れてみた。生暖かくて、やわらかい。それに、当たり前だけど、牛の方が山羊より大きい。ちょっと勝手が違う。昔を思い出しながら、上から順に指を握りこむと、ジョロ、と少しだけ乳が出た。
『おや、上手じゃないか!』
言葉はわからなくても、褒められたのはわかる。嬉しい。
何度かやっているうちに、ショーッと太く出るようになってきた。
『おやまあ、公主は飲み込みが早いね。じゃあ、この子は公主に任せるからね』
パタラは、ぽんぽんと私の肩を叩いて、ミミルが新しく連れてきた牛の方へ歩いていった。
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