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#26 はじまりの足音(5)
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ヘルムたちがいるであろう屋敷にはすぐに着いた。二階建ての、十数人は住むことができるだろう規模のしっかりした屋敷である。白い壁に規則的な窓を取り付けた、見た目は何の変哲もない外観をしている。
「いや~かっこいいねぇレオ君!」
本性の大狼の背に乗れたファルマスはご機嫌である。
アルフォードは低い柵のような屋敷の門柱を触り、レオナルドを振り返った。
「最後の結界ですかね。狼君、力業で破れますか?」
『いける。ちょっと離れててくれ』
アルフォードとファルマスが後方に離れたのを確認し、レオナルドは意識を集中させた。大狼の鼻面の先に一つの大きな魔法陣が浮かび上がる。その魔法陣の周囲に五つ、中位の魔法陣が出現した。瞠目したアルフォードが視界の隅に見える。
大狼が唸り声を上げ、目を焼くような赤白い光が炸裂すると、紅蓮の炎が轟音を上げながら現れた。宙にとぐろを巻き、屋敷の結界に襲い掛かる。
勝負は一瞬だった。薄いガラスを割るように結界が壊れた。
「ヒュー! すっごいねぇ狼君」と拍手するアルフォード。
「……もうからかうのはやめようかなぁ」ファルマスは真顔になっていた。
「しかし、こんな高度の魔術を使わなくてもよかったんじゃないですか?」
炎の名残である火の粉が降るなか、青白い魔力の粒子を散らせながらレオナルドは人型に戻った。
「これくらい発散しとかないと、あいつらに何かしてしまいそうだから」
「僕らの意図を汲み取ってくれてありがとう」
屋敷に入った途端、酷い匂いがした。粘着質の甘さ、こちらを酩酊させようとしてくる魔術的な匂い。アルフォードの案内がなくともレオナルドには場所が分かった。目印に煙を焚いているようなものだ。
至る所に華美な装飾を施した屋敷内を駆け、書斎のような部屋に着く。マホガニーのどっしりした机に、同様の安楽椅子、書棚や飾り棚は壁際に並んでいる。そこにある書棚の一つにレオナルドは迷いなく近づき、強引に横へどかした。並大抵の力では動かないだろうが、彼にとっては問題ない。
「たぶんどっかに仕掛けがあるんだろうけどなぁ。ライラちゃんと同じくこの子も怪力だな……」
後ろにいるファルマスが苦笑気味にぼやいた。
書棚があったそこには地下へつながる階段が隠されていた。絡みつくような甘さが漂ってくる。
「ヘルムの奴、本気でライラを堕とそうとしてるんですねぇ」
アルフォードの声音に混じっているのは、怒りと呆れであった。この濃厚な魔術の匂いを感じて何故焦らないのか、レオナルドは再度キレそうになる。
「なぁ、何で焦らないんだよ! 妹だろ! これだけ用意周到にしてたら、堕ちるかもしれないだろ!」
「え……狼君は知っていると思っていました」
キョトンとしたアルフォードの代わりに、ファルマスが答える。
「ライラちゃんは《魅惑》にかからないよ。たぶん、誰がやっても」
「……エ?」
意味が分からない、とレオナルドはアルフォードの方を見た。彼もこっくりと頷く。
「ああ、だから、焦らない僕たちにとぉっても苛立ってたんですねぇ。ライラは《魅惑》ができないけれど、《魅惑》にかかりません。それにライラが危機を感じたら、ファルマスの護りが発動して、一時繭に包まれます。内からも外からも何もできない状態になるんですけどね、束の間無敵ですよ。抱いてしまいたいほど愛しい可愛い妹ですから、対抗措置は準備しています」
「……そうですか」
レオナルドは小さく返事をした。怒鳴った勢いはもう無い。
(だからデヴォンの《魅惑》にもかからなかったのか。聞いたことないけど繭の魔術って何だ? あと妹に対して抱いてしまいたいとか言ってなかったかこの美形。……。トゥーリエント兄弟についてはあまり考えない方がいい気がする)
「そろそろ行こうか~」
のんびりと言いながら先に下りていくファルマスに、残り二人も続く。
階段部分に下りた途端、声が聞こえた。男の叫び声だ。
「くっそ! 調子乗んなよこの女!」
ガシャンと鋼鉄なものが揺らされた音がした。
階段を飛び降りるようにして先へ急げば、そこは赤と黒と純白と、極彩色に彩られた牢屋の部屋だった。屋敷の入り口にまで漂っていた甘い匂いが充満しており、レオナルドは噎せそうになる。
鉄格子の向こうには、ライラがぼんやり立っていた。いや、ぼんやりしているように見えて、瞳は燃えている。制服のシャツは皺だらけで、スカートは汚れている。素足には鎖の千切れた大きな足枷が嵌っていた。よく見ると床に手枷の残骸が、壁面の二ヵ所にはやや崩れたところがある。ライラがどうされていたか、これからどうされようとしていたのか、憶測ではあるが理解した。
牢屋の中にはライラの他に三人。こちらに背を向けて鉄格子にもたれかかっている男、さっきのガシャンといった音はこれだったのだろう。ライラから見て左手の方の壁に座り込んでいるのはヘルム。右手の方で詠唱している長髪の男――
「ライラ危ない!」
「――えっ、レオ?」
ライラがぱちんと目を瞬いた。長髪の男が繰り出す鋭利な風の刃がライラを襲い、大きな三つの刀傷を負わせる――はずだった。
ライラはその魔術を、まるで叩き落とすように壊した。長髪の男もレオナルドも唖然とする。
「レオ? レオがいるの? ってゆか兄様たちと!?」
乱入者に気付いたヘルムが凄まじい形相で奥歯を噛みしめる。
「なっんで、ここが分かった! ここには入って来られない、はずっ! くっそ!」
ヘルムの周囲が淡く光り……そして消えた。意味が分からない、と凍り付く彼に、説明したのはファルマスだ。
「森に巡らされた結界は壊さず侵入させてもらって、転移封じの結界を張らせてもらったよ。ちゃんと効き目あるみたいだね、よかった~」
「自分だけ逃げようなんて君のやりそうなことですね」
レオナルドが鉄格子を壊そうと掴んだ。さわると解る、魔術封じが施されている。簡単に壊すことはできない。本気の紅蓮の炎で溶かし壊すことはできるが、それだと自分以外が重症を負う。他の高難度魔術でも広範囲に及ぶものになってしまう。レオナルドは器用に一点集中して攻撃することが苦手だった。魔力が恐ろしく多いせいもある。ならばもう天井から壊せばいいかな、と考えた。
劣勢なのを悟ったヘルムたちは、まだ一番弱そうなライラを片付けようと決めた。あわよくば人質にとろうと考えたのだろう。なかなか壊せない仕様の鉄格子の中は、ライラがいる以上、ある意味安全だった。三人が目配せしあい、ライラに対峙する。
「ライラいいですか、これは正当防衛です。本気を、全力を出して大丈夫。彼らは弱くないし、ほら、何かあってもここに治癒魔術も得意なファルマスがいますから」
「それとライラちゃん、この鉄格子も壊して?」
俺ちょっと面倒くさい、と笑いながら言う兄弟。
ナメられている、と思ったヘルムたちはライラに襲い掛かった。まず一人が拳に炎の魔術を込めてライラに殴りかかる。ライラはそれを左掌で弾くように受け止め、右の正面突きを体幹に当てた。相手は苦し気に鉄格子まで吹っ飛び、床に崩れ落ちる。
次のもう一人が、中距離から魔術でライラを狙っていた。十字架のような棘を巡らせる、消滅系の魔術だ。ライラを取り囲み、串刺しにしようとしている。どのような仕組みなのかは分からないが、ライラはそれを、ただ殴り飛ばした。レオナルドには、魔術の核そのものに直接触れて壊しているように見えた。
ライラは今の出来事に呆然としている男の方へ足を踏み込み、飛び蹴りをする。彼はそのまま壁に激突し、意識を失った。
くるりと振り向いて、ヘルムを睨み付ける。
「お前……お前、一体、何なんだっ!」
ヘルムの周囲に氷の槍が四つ現れる。それらがヒュンと突き刺さる――前に、ライラは右腕で薙ぎ払った。砕け散った氷の破片が宙にきらめいて消える。
「っ!」
息をのむヘルムに近づこうとしたライラを、アルフォードが止めた。
「あ、ライラ。ヘルムは僕が相手していいですか?」
「兄様が? いいよ、私はもう一発殴ったし」
「ええ。たぶん、僕への私怨も込みの誘拐だったんでしょう。そうですよね? ヘルム」
ヘルムは憎々し気にアルフォードを睨み付けている。当のアルフォードは鉄格子越しに涼しい顔をして見下ろしていた。
「僕の妹をいいようにすることができたら、いい気味だと思っていたんでしょう?」
正解なのだろう。ヘルムは奥歯が削られそうなほど噛みしめている。
「はああ……アル兄のせいじゃん……」
一気に疲れた様子のライラは、レオナルドたちの方へ寄り、鉄格子を両手で一本ずつ掴んだ。そのまま左右へ力を入れる。
「これ、結構堅い」
「ライラちゃんならいける!」
ぐぐぐぐぐ、と岩の扉を開くように、鉄格子を押し曲げていく。すんなり通れるくらい広げたころには、流石のライラも息切れしていた。
とん、と牢屋を出たライラを、ファルマスが抱きしめる。
「無事でなにより、ライラちゃん。遅くなってごめんね」
「ううん。……助けに来てくれてありがとう、ファル兄」
「ライラは一人で何とかしましたし、できましたよ。だからもう、大丈夫です。十分、強くなりました」
ヘルムの動向を監視していたアルフォードが、ひととき目線を外してライラに微笑む。笑みを絶やさない彼の、慈愛に満ちた本物の微笑みだった。
「アル兄、ありがとう」
ファルマスの腕の中から出たライラは、所在なさげに立っているレオナルドに近づいてきた。
「レオも、来てくれて、ありがとう。嬉しい。……心配してくれた?」
ライラがレオナルドを見上げる。彼女の体は、ほんの少し、震えていた。
レオナルドは涙が滲みそうになった。ごまかすように、ライラの頭を撫でつけて俯かせる。
「あっ、たりまえ、だろ!」
「ふふふ」
ライラが笑う。無事だ。ちゃんとここにいる――
「あれ、おかしいな――安心したら、急に体が重……」
ライラがふらつき、前のめりに倒れてきたところを、レオナルドが受けとめた。ライラは目を閉じて気を失っている。
「ライラ!?」
「大丈夫だよレオ君。たぶん体力も魔力も精神力も使い過ぎて眠りに入っただけ。そろそろ電池切れじゃないかと思ったんだよね」
ファルマスがライラの状態を確認し、レオナルドの肩を叩く。血色は悪くない。呼吸も落ち着いて規則的だ。
「ライラのことは任せたよ。トゥーリエントの家に届けてくれてもいいけど、もしその状態を何とかしてくれるんなら、その方が有難いかな」
制服姿のライラはボロボロである。いつも綺麗にしている髪はほつれて汚れ、薬品のような液体をかけられたあとがある。服も言わずもがなだ。素足の両足首には鎖の千切れた鈍色の足枷が嵌っており、四肢に小さな傷が多数ある。衣服と体全体に染みついた泥のような甘い匂いが凄まじく、ライラ本来の匂いが全く嗅ぎ取れないほど酷い。
「俺の家に連れ帰ってもいいってことか?」
「レオ君は、ライラの嫌がるようなことはしないだろ?」
人好きのする笑顔で言うファルマスに、レオナルドは首肯する。
「翠さんが、きっと心配するからね」
「翠さん?」
「純粋な人間の、ライラの母親。ああ見えて豪胆な人だけどね。ライラのことになると、たぶん、自分を責めるから。ライラも見せたくないだろうし。後でちゃんと報告はするよ」
「分かった」
神妙に頷いたレオナルドはライラを自分のブレザーでくるみ、横抱きにする。それを見たファルマスが目元を綻ばせる。
「君って、案外細やかとゆーか、世話焼きとゆーか。ギャップ萌えだね」
「貴方も、俺が思ってたような淫魔とはちょっと雰囲気が違う。悪い意味で言ってるんじゃない。魔術はおそろしく器用で、構成が鮮やかだった。素直に、すげぇと思ってる」
「ありがとう。別に今更畏まらなくていいよ、ファルマスって呼びなよ」
「じゃあ、そうさせてもらう。……あっちの方は、俺が思ってるような感じの淫魔なんだけどな」
レオナルドが目線を向けたのはアルフォードだ。彼はさっきからずっと詠唱している。ヘルムは動こうにも動けないようだ。
「ああ、兄貴《アレ》はまぁ、典型的な淫魔だよ。何もしなくても女の子たちが寄ってくるし。変なルールは決めてるみたいだけど、マジで来る者拒まないからね。でもどうやら兄貴も片思い中――あ、レオ君ちょっと構えてね」
ファルマスが防御魔術を発動させる。自分と妹たちを護るように、金糸雀色の大きな盾が現れた。その数秒後、アルフォードの長い詠唱が終わり、魔術が発動する。うねりを帯びた魔力の束が螺旋を描き、天上へ激突した。建物を破壊突破していく鳴動が四度程し、ガラガラバラバラと残骸が落ちてきて、見上げると空が見えた。数人がすっぽり入りそうな穴があいている。
「兄貴~? 証拠資料とか探すんじゃなかったのさ。この上に大事な物あったらどうすんだよ」
「ごめんごめん。やっぱり苛々してしまいまして。でもまぁ、この部屋があれば十分じゃないですか?」
アルフォードの魔術は、ファルマスのような繊細さも緻密さもなく、効率重視で要領よく、ときに力任せで組み立てたものだった。なるほど大雑把だ。
魔術発動前は、凝縮した魔力がとぐろを巻いており、それだけで圧があった。あれだけの力を行使しても、アルフォードは平然としている。ファルマスもだ。魔石を使ったとは言え、あれだけ大掛かりで精緻な――それもシュタイン家が張っていた魔術を破る――魔術を使ってもなお、涼しい顔して立っている。
歴史ある名家の出とは言え、若い世代の、しかも淫魔である。これほどに魔力がある、訳がない。戦闘に特化している大狼族のレオナルドよりも、もしかすると魔力は多いかもしれない。
「なぁ、まさか――」
ファルマスは悪戯するような笑顔で、唇に人差し指を当てた。「シー」
ライラは、本当に《羊の姫》なのか。
「君も、いつか分かるかもしれないね。でもまだナイショ」
「さて。狼君、ライラを頼みましたよ。あとのことは僕たちに任せなさい」
ライラが《羊の姫》であれどうであれ、レオナルドはどちらでもいい。
(ただ、守りたいだけ)
「とりあえず俺の家に連れて行く。そしてちゃんと、送り届ける。じゃあ、また」
ライラを抱えたまま、レオナルドは空へ向かって跳んだ。屋根の上に出ると、ライラに負担がかからないようにぎゅっと抱き直す。湖の底から水面を見上げたような、青白く光る波紋の足跡が森の空を駆けた。
「さーてヘルム。そろそろ一度決着をつけません? 淫魔らしく、淫魔の闘いを、しましょうか」
「舐めるなよ」
アルフォードは凄絶に笑う。ファルマスはそれを横目に、ライラに倒された二人を引きずって集めた。骨折等はしているが命に別状はない。このまま魔術で拘束する。
「ああ……数週間、イヤなものを見るハメになりそうだなぁ」
この先の展開を想像し、肩をすくめた。
「いや~かっこいいねぇレオ君!」
本性の大狼の背に乗れたファルマスはご機嫌である。
アルフォードは低い柵のような屋敷の門柱を触り、レオナルドを振り返った。
「最後の結界ですかね。狼君、力業で破れますか?」
『いける。ちょっと離れててくれ』
アルフォードとファルマスが後方に離れたのを確認し、レオナルドは意識を集中させた。大狼の鼻面の先に一つの大きな魔法陣が浮かび上がる。その魔法陣の周囲に五つ、中位の魔法陣が出現した。瞠目したアルフォードが視界の隅に見える。
大狼が唸り声を上げ、目を焼くような赤白い光が炸裂すると、紅蓮の炎が轟音を上げながら現れた。宙にとぐろを巻き、屋敷の結界に襲い掛かる。
勝負は一瞬だった。薄いガラスを割るように結界が壊れた。
「ヒュー! すっごいねぇ狼君」と拍手するアルフォード。
「……もうからかうのはやめようかなぁ」ファルマスは真顔になっていた。
「しかし、こんな高度の魔術を使わなくてもよかったんじゃないですか?」
炎の名残である火の粉が降るなか、青白い魔力の粒子を散らせながらレオナルドは人型に戻った。
「これくらい発散しとかないと、あいつらに何かしてしまいそうだから」
「僕らの意図を汲み取ってくれてありがとう」
屋敷に入った途端、酷い匂いがした。粘着質の甘さ、こちらを酩酊させようとしてくる魔術的な匂い。アルフォードの案内がなくともレオナルドには場所が分かった。目印に煙を焚いているようなものだ。
至る所に華美な装飾を施した屋敷内を駆け、書斎のような部屋に着く。マホガニーのどっしりした机に、同様の安楽椅子、書棚や飾り棚は壁際に並んでいる。そこにある書棚の一つにレオナルドは迷いなく近づき、強引に横へどかした。並大抵の力では動かないだろうが、彼にとっては問題ない。
「たぶんどっかに仕掛けがあるんだろうけどなぁ。ライラちゃんと同じくこの子も怪力だな……」
後ろにいるファルマスが苦笑気味にぼやいた。
書棚があったそこには地下へつながる階段が隠されていた。絡みつくような甘さが漂ってくる。
「ヘルムの奴、本気でライラを堕とそうとしてるんですねぇ」
アルフォードの声音に混じっているのは、怒りと呆れであった。この濃厚な魔術の匂いを感じて何故焦らないのか、レオナルドは再度キレそうになる。
「なぁ、何で焦らないんだよ! 妹だろ! これだけ用意周到にしてたら、堕ちるかもしれないだろ!」
「え……狼君は知っていると思っていました」
キョトンとしたアルフォードの代わりに、ファルマスが答える。
「ライラちゃんは《魅惑》にかからないよ。たぶん、誰がやっても」
「……エ?」
意味が分からない、とレオナルドはアルフォードの方を見た。彼もこっくりと頷く。
「ああ、だから、焦らない僕たちにとぉっても苛立ってたんですねぇ。ライラは《魅惑》ができないけれど、《魅惑》にかかりません。それにライラが危機を感じたら、ファルマスの護りが発動して、一時繭に包まれます。内からも外からも何もできない状態になるんですけどね、束の間無敵ですよ。抱いてしまいたいほど愛しい可愛い妹ですから、対抗措置は準備しています」
「……そうですか」
レオナルドは小さく返事をした。怒鳴った勢いはもう無い。
(だからデヴォンの《魅惑》にもかからなかったのか。聞いたことないけど繭の魔術って何だ? あと妹に対して抱いてしまいたいとか言ってなかったかこの美形。……。トゥーリエント兄弟についてはあまり考えない方がいい気がする)
「そろそろ行こうか~」
のんびりと言いながら先に下りていくファルマスに、残り二人も続く。
階段部分に下りた途端、声が聞こえた。男の叫び声だ。
「くっそ! 調子乗んなよこの女!」
ガシャンと鋼鉄なものが揺らされた音がした。
階段を飛び降りるようにして先へ急げば、そこは赤と黒と純白と、極彩色に彩られた牢屋の部屋だった。屋敷の入り口にまで漂っていた甘い匂いが充満しており、レオナルドは噎せそうになる。
鉄格子の向こうには、ライラがぼんやり立っていた。いや、ぼんやりしているように見えて、瞳は燃えている。制服のシャツは皺だらけで、スカートは汚れている。素足には鎖の千切れた大きな足枷が嵌っていた。よく見ると床に手枷の残骸が、壁面の二ヵ所にはやや崩れたところがある。ライラがどうされていたか、これからどうされようとしていたのか、憶測ではあるが理解した。
牢屋の中にはライラの他に三人。こちらに背を向けて鉄格子にもたれかかっている男、さっきのガシャンといった音はこれだったのだろう。ライラから見て左手の方の壁に座り込んでいるのはヘルム。右手の方で詠唱している長髪の男――
「ライラ危ない!」
「――えっ、レオ?」
ライラがぱちんと目を瞬いた。長髪の男が繰り出す鋭利な風の刃がライラを襲い、大きな三つの刀傷を負わせる――はずだった。
ライラはその魔術を、まるで叩き落とすように壊した。長髪の男もレオナルドも唖然とする。
「レオ? レオがいるの? ってゆか兄様たちと!?」
乱入者に気付いたヘルムが凄まじい形相で奥歯を噛みしめる。
「なっんで、ここが分かった! ここには入って来られない、はずっ! くっそ!」
ヘルムの周囲が淡く光り……そして消えた。意味が分からない、と凍り付く彼に、説明したのはファルマスだ。
「森に巡らされた結界は壊さず侵入させてもらって、転移封じの結界を張らせてもらったよ。ちゃんと効き目あるみたいだね、よかった~」
「自分だけ逃げようなんて君のやりそうなことですね」
レオナルドが鉄格子を壊そうと掴んだ。さわると解る、魔術封じが施されている。簡単に壊すことはできない。本気の紅蓮の炎で溶かし壊すことはできるが、それだと自分以外が重症を負う。他の高難度魔術でも広範囲に及ぶものになってしまう。レオナルドは器用に一点集中して攻撃することが苦手だった。魔力が恐ろしく多いせいもある。ならばもう天井から壊せばいいかな、と考えた。
劣勢なのを悟ったヘルムたちは、まだ一番弱そうなライラを片付けようと決めた。あわよくば人質にとろうと考えたのだろう。なかなか壊せない仕様の鉄格子の中は、ライラがいる以上、ある意味安全だった。三人が目配せしあい、ライラに対峙する。
「ライラいいですか、これは正当防衛です。本気を、全力を出して大丈夫。彼らは弱くないし、ほら、何かあってもここに治癒魔術も得意なファルマスがいますから」
「それとライラちゃん、この鉄格子も壊して?」
俺ちょっと面倒くさい、と笑いながら言う兄弟。
ナメられている、と思ったヘルムたちはライラに襲い掛かった。まず一人が拳に炎の魔術を込めてライラに殴りかかる。ライラはそれを左掌で弾くように受け止め、右の正面突きを体幹に当てた。相手は苦し気に鉄格子まで吹っ飛び、床に崩れ落ちる。
次のもう一人が、中距離から魔術でライラを狙っていた。十字架のような棘を巡らせる、消滅系の魔術だ。ライラを取り囲み、串刺しにしようとしている。どのような仕組みなのかは分からないが、ライラはそれを、ただ殴り飛ばした。レオナルドには、魔術の核そのものに直接触れて壊しているように見えた。
ライラは今の出来事に呆然としている男の方へ足を踏み込み、飛び蹴りをする。彼はそのまま壁に激突し、意識を失った。
くるりと振り向いて、ヘルムを睨み付ける。
「お前……お前、一体、何なんだっ!」
ヘルムの周囲に氷の槍が四つ現れる。それらがヒュンと突き刺さる――前に、ライラは右腕で薙ぎ払った。砕け散った氷の破片が宙にきらめいて消える。
「っ!」
息をのむヘルムに近づこうとしたライラを、アルフォードが止めた。
「あ、ライラ。ヘルムは僕が相手していいですか?」
「兄様が? いいよ、私はもう一発殴ったし」
「ええ。たぶん、僕への私怨も込みの誘拐だったんでしょう。そうですよね? ヘルム」
ヘルムは憎々し気にアルフォードを睨み付けている。当のアルフォードは鉄格子越しに涼しい顔をして見下ろしていた。
「僕の妹をいいようにすることができたら、いい気味だと思っていたんでしょう?」
正解なのだろう。ヘルムは奥歯が削られそうなほど噛みしめている。
「はああ……アル兄のせいじゃん……」
一気に疲れた様子のライラは、レオナルドたちの方へ寄り、鉄格子を両手で一本ずつ掴んだ。そのまま左右へ力を入れる。
「これ、結構堅い」
「ライラちゃんならいける!」
ぐぐぐぐぐ、と岩の扉を開くように、鉄格子を押し曲げていく。すんなり通れるくらい広げたころには、流石のライラも息切れしていた。
とん、と牢屋を出たライラを、ファルマスが抱きしめる。
「無事でなにより、ライラちゃん。遅くなってごめんね」
「ううん。……助けに来てくれてありがとう、ファル兄」
「ライラは一人で何とかしましたし、できましたよ。だからもう、大丈夫です。十分、強くなりました」
ヘルムの動向を監視していたアルフォードが、ひととき目線を外してライラに微笑む。笑みを絶やさない彼の、慈愛に満ちた本物の微笑みだった。
「アル兄、ありがとう」
ファルマスの腕の中から出たライラは、所在なさげに立っているレオナルドに近づいてきた。
「レオも、来てくれて、ありがとう。嬉しい。……心配してくれた?」
ライラがレオナルドを見上げる。彼女の体は、ほんの少し、震えていた。
レオナルドは涙が滲みそうになった。ごまかすように、ライラの頭を撫でつけて俯かせる。
「あっ、たりまえ、だろ!」
「ふふふ」
ライラが笑う。無事だ。ちゃんとここにいる――
「あれ、おかしいな――安心したら、急に体が重……」
ライラがふらつき、前のめりに倒れてきたところを、レオナルドが受けとめた。ライラは目を閉じて気を失っている。
「ライラ!?」
「大丈夫だよレオ君。たぶん体力も魔力も精神力も使い過ぎて眠りに入っただけ。そろそろ電池切れじゃないかと思ったんだよね」
ファルマスがライラの状態を確認し、レオナルドの肩を叩く。血色は悪くない。呼吸も落ち着いて規則的だ。
「ライラのことは任せたよ。トゥーリエントの家に届けてくれてもいいけど、もしその状態を何とかしてくれるんなら、その方が有難いかな」
制服姿のライラはボロボロである。いつも綺麗にしている髪はほつれて汚れ、薬品のような液体をかけられたあとがある。服も言わずもがなだ。素足の両足首には鎖の千切れた鈍色の足枷が嵌っており、四肢に小さな傷が多数ある。衣服と体全体に染みついた泥のような甘い匂いが凄まじく、ライラ本来の匂いが全く嗅ぎ取れないほど酷い。
「俺の家に連れ帰ってもいいってことか?」
「レオ君は、ライラの嫌がるようなことはしないだろ?」
人好きのする笑顔で言うファルマスに、レオナルドは首肯する。
「翠さんが、きっと心配するからね」
「翠さん?」
「純粋な人間の、ライラの母親。ああ見えて豪胆な人だけどね。ライラのことになると、たぶん、自分を責めるから。ライラも見せたくないだろうし。後でちゃんと報告はするよ」
「分かった」
神妙に頷いたレオナルドはライラを自分のブレザーでくるみ、横抱きにする。それを見たファルマスが目元を綻ばせる。
「君って、案外細やかとゆーか、世話焼きとゆーか。ギャップ萌えだね」
「貴方も、俺が思ってたような淫魔とはちょっと雰囲気が違う。悪い意味で言ってるんじゃない。魔術はおそろしく器用で、構成が鮮やかだった。素直に、すげぇと思ってる」
「ありがとう。別に今更畏まらなくていいよ、ファルマスって呼びなよ」
「じゃあ、そうさせてもらう。……あっちの方は、俺が思ってるような感じの淫魔なんだけどな」
レオナルドが目線を向けたのはアルフォードだ。彼はさっきからずっと詠唱している。ヘルムは動こうにも動けないようだ。
「ああ、兄貴《アレ》はまぁ、典型的な淫魔だよ。何もしなくても女の子たちが寄ってくるし。変なルールは決めてるみたいだけど、マジで来る者拒まないからね。でもどうやら兄貴も片思い中――あ、レオ君ちょっと構えてね」
ファルマスが防御魔術を発動させる。自分と妹たちを護るように、金糸雀色の大きな盾が現れた。その数秒後、アルフォードの長い詠唱が終わり、魔術が発動する。うねりを帯びた魔力の束が螺旋を描き、天上へ激突した。建物を破壊突破していく鳴動が四度程し、ガラガラバラバラと残骸が落ちてきて、見上げると空が見えた。数人がすっぽり入りそうな穴があいている。
「兄貴~? 証拠資料とか探すんじゃなかったのさ。この上に大事な物あったらどうすんだよ」
「ごめんごめん。やっぱり苛々してしまいまして。でもまぁ、この部屋があれば十分じゃないですか?」
アルフォードの魔術は、ファルマスのような繊細さも緻密さもなく、効率重視で要領よく、ときに力任せで組み立てたものだった。なるほど大雑把だ。
魔術発動前は、凝縮した魔力がとぐろを巻いており、それだけで圧があった。あれだけの力を行使しても、アルフォードは平然としている。ファルマスもだ。魔石を使ったとは言え、あれだけ大掛かりで精緻な――それもシュタイン家が張っていた魔術を破る――魔術を使ってもなお、涼しい顔して立っている。
歴史ある名家の出とは言え、若い世代の、しかも淫魔である。これほどに魔力がある、訳がない。戦闘に特化している大狼族のレオナルドよりも、もしかすると魔力は多いかもしれない。
「なぁ、まさか――」
ファルマスは悪戯するような笑顔で、唇に人差し指を当てた。「シー」
ライラは、本当に《羊の姫》なのか。
「君も、いつか分かるかもしれないね。でもまだナイショ」
「さて。狼君、ライラを頼みましたよ。あとのことは僕たちに任せなさい」
ライラが《羊の姫》であれどうであれ、レオナルドはどちらでもいい。
(ただ、守りたいだけ)
「とりあえず俺の家に連れて行く。そしてちゃんと、送り届ける。じゃあ、また」
ライラを抱えたまま、レオナルドは空へ向かって跳んだ。屋根の上に出ると、ライラに負担がかからないようにぎゅっと抱き直す。湖の底から水面を見上げたような、青白く光る波紋の足跡が森の空を駆けた。
「さーてヘルム。そろそろ一度決着をつけません? 淫魔らしく、淫魔の闘いを、しましょうか」
「舐めるなよ」
アルフォードは凄絶に笑う。ファルマスはそれを横目に、ライラに倒された二人を引きずって集めた。骨折等はしているが命に別状はない。このまま魔術で拘束する。
「ああ……数週間、イヤなものを見るハメになりそうだなぁ」
この先の展開を想像し、肩をすくめた。
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