たわごと。

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自分の自己開示欲求について考えてみた

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私はしばしば自己開示欲求が強く、それにより自分で自分の首を絞めてしまう経験も非常に多い。
要は、言わなくても良い事まで何でも自分の事を話してしまうのだ。

例えば、どんな生活をしているのか・自分はどんな人間なのか・どういう経験をしてきたのか
正直、ポジティブな内容は少ない。聞いていて気持ちの良い内容はさほどないだろう。
だからこそ、後に後悔や悩み、トラブルが絶えなくなる。

しかしながら、その事象について他者と比べた事は無い。
ゆえに、「誰かより上か下か」という事は考えた事が無く、当然ながら「自分だけが」という概念も無い。
同じ体験をした所で、その捉え方や感情・衝撃の度合いは人それぞれ異なるからだ。

とはいえ、❝解っているのに抑えられなくなるのは何故なのか?❞

自分のケースについて分析してみた。

▸どんな時にそれが生じるのか
一言で言えば、相手に自分の事をある程度知ってもらいたい時
もっと言えば、誤認識を訂正したい時及び、見誤られたくない意だ。

「こういう人だもんね」と決めつけられたり、内容の良し悪し問わず的外れな感想を受けた時に反発心が生じて自己弁護したくなる。

厄介な事は、それが必ずしも否定的な内容に限らない事だ。
自分でも自分を分かりきれていない上で、正確性を求めてしまう。

例えば、誰でも多かれ少なかれ苦労の経験をしていると思うが
(中には客観的な苦労を苦労と認識していない人もいるだろう)

「今まで苦労した事ないもんね」「今まで辛すぎる思いをしてきたもんね」
どちらも腑に落ちず、モヤモヤするのだ。
そもそも、自分の人生を評価されたくない気持ちもあるが。

それゆえに、実際に起きた事を伝えて、どうなのかを改めて判断してもらうべく自己開示を行う。
何故なら、いずれの人も「現在の状態」のみを見て、過去を知らずに評価してきた為だ。

幸せも不幸も、他人の物差しでは測れず、断定できないものと私は思っている。

客観的に見て幸せそうであっても実情はそうでなかったり、不幸そうに見えても本人的にはそうではない場合もある。


一先ず、自らの自己開示欲求の根底には、過去のトラウマが関連していると思う。

それは高校生の頃、周囲からサイコパスと、いわれのない感想を受けていた事。
なぜあまり話をした事の無い人から親しい人まで、そう言ってくるのか疑問で悩んだ。
(10年間ほど幾つかの精神科へ通院しているが、結果的に人格障害の診断は受けていない)

当時気が付いた要素は下記の点。
・表情が乏しかった(笑顔を「笑っていない」と言われる/号泣すると異常に驚かれる等)
・心がなさそうに見えていた(「心が無いから何を言っても傷つかない」と実際に言われた事があるが、私自身はとても涙もろく傷つきやすい)

それに気付いて改善を試み、今となってはそのようないわれはされなくなった。

しかし、大人になっていく途中でもう一つ疑問に思った事がある。

「~のくせに」「~だもんね」と、断定口調で言われる事があまりにも多い。
なぜ知らないのにそう言われてしまうのか考えた。

結果、自分の話をしなさ過ぎた事が原因だと思った。
聞かれた時にしか自分の感情含めて、自分について話さない
そんなスタンスを二十歳頃迄続けていた。

その理由は、「怒られる」からだ。

自分の過去について尋ねられた時、ありのままを素直に答える度、周囲から怒りを受けた。
「私の方が/私はこんなに大変だったのに」「世の中にはもっと辛い人がいるのに」
「悲劇のヒロインぶっている」「(質問したのに)そんな事、聞いてないから」

言い方にも問題があったのかもしれないが、割と機械的に事実を伝えた。
それを不幸と捉えられ、しかしそうでないと否定され、大声で怒られる事が苦に感じた。

例えば、皆が自らの複雑な家庭環境について語らっている時、私も同じように話に入ろうとした際もそうなった。

つまり、喋ってはいけないのだと思ったのだ。

が、それが祟ってより「怖い」存在に見られていたのだと思う。
実際に「怖い」と言われて避けられた事も多い。

本当の所は小心者で臆病の為、他者に対して怖い事等何も出来ない。
するも何もしようという発想も起きない。
なぜなら、何かをしでかした際の後が怖いと思うからだ。

それからは、自分で自分の事を話すようになった。
この文章もまさしくそうであるが、「自語り」である。
一般的に自語りは嫌われる。

様々な観点からどうしたら良いのか分からないのが正直な所…
恐らく、「この人はこういう人だ」と、自分自身が相手を断定付けて気にしないように大人に過ごし、極力自分の余計な話はしない事が得策だろう。

しかし、それがなかなか出来ない。

どうしても人は人の表面を見て評価やイメージの固定化を行う。
全員が全員そうとは言えないが、少なくとも自分の周囲はそうだった。
考えるに、不安が嫌なのだと思う。

「分からない・読めない人」というのは、見る人からすれば不安であり恐怖の対象となりうる。

とはいえ、今を生きて来て思う正解は、「自分の話をしない事」
0か100では、どちらもマイナスな結果をもたらす可能性が高い為、ほどほどに必要に応じてする事が一番だろう。

結局また喋り過ぎている訳だが、それを自制する事や丁度良い塩梅を見つける事が今の自分の課題である。(・・・と、言いながら満足するまで文章にて喋り続ける事だろう)


▸中にはこのような面倒くさい人間がいる事も踏まえて、自語りが酷い人が周囲に居て困っている人へ向けて、一つ役に立つかもしれない案

①人間性を決めつけない
(実際に何度も見ている部分を感想として述べる事はありかもしれない)

②話の一段落時に「予定がある」「トイレへ行く」等の口実を使用して、区切る
(相手の気持ちを察する能力が残っている人の場合、話を終える事が出来る/それでも続く場合は自分に余裕がなくなっていて周りを見れなくなっている可能性があると思うので③が良いだろう)

③話があまりに止まらず、高頻度であるようならカウンセリングを勧めてみる
(トラウマや心の病によって、理解を求めて話に終わりが見えない場合がある為/改善を見込めるかもしれない)

④文章や動画作りを勧めてみる
(個人の経験上、配信サイトはあまりお勧めできない。一方的に言いたい事を提示出来る場という事で、「見たい人・知りたい人が見られる」プラットフォームが良いと思った。配信はコミュニケーションが重要なので、会話を楽しみたいタイプでないと後々つらくなる)
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