血の記憶

甘宮しずく

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友情

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 デートの日、蒼依は朝から緊張していた。
 デートと言ってはいるが、ただの友だちだ。服装にも女っぽさが出ないよう気を使った。
 だが、ほんのり色づいた化粧に心模様が表れていた。

 晃聖は時間通りにやって来た。白いシャツに、色あせたジーンズ。彼女を上から下まで眺め、気をよくして笑みを広げた。

 つられて、蒼依の不安も消し飛ぶ。

 「行こうか?」晃聖がさり気なく彼女の手を取った。
 いつもなら警戒するところだが、あまりに自然で、気にならなかった。

 「どこ行くの?」気持ちのいい大気のなかを走り出すと、蒼依はリラックスして訊いた。

 「あの絶壁じゃないよ」
 冗談めかしていたが、彼がどんな思いを抱いているのかわかっているので、黙っていた。
 「いいところだよ。後のお楽しみ」

 晃聖が音楽に合わせて、指でリズムを刻んでいる。

 蒼依もシートに身を沈め、CDに聞き入った。

 車窓を葉桜が流れていく。一番嫌いなこの季節に、こんな気持ちになれるとは思わなかった。
 父が姿を消したのは、この季節だった。次の春、兄が出て行き、さらに翌年、母が亡くなった。

 「最近、お客は乗せてないんだ」不意に晃聖が言い出した。

 「私もお客でしょ?」もたれていたシートから頭をもたげて、切り返す。

 「きみは友だちだろ?」

 「お店でお金を払ったのに?」

 「二度と来るつもりはないんだよな?」

 蒼依はおかしそうに唇をゆるめた。
 「どうして、わざわざそんなこと言うの?」

 「特別だってことを知っといてほしくて」

 蒼依は何でもないふりをしたが、喜びが身体全体に広がった。

 やがて車は雑木林へと入っていった。左手に、木立の間から渓流が見える。いきいきした緑に混じって、黄色やピンクの春の色が見えた。
 ほどなく行くと、切り開かれた駐車場に出た。

 「ここからは歩きだ」晃聖が後部座席の荷物をまとめ始める。

 蒼依は景色に誘われるように車から降り、思い切りすがすがしい空気を吸った。どこか近くに滝があるらしく、激しく水の流れる音がする。辺りを見回すと、日当たりのいい一角に薄紫のスミレが群れをなして咲いていた。
 思わずそばに行ってしゃがみ込んだ。まるで童話の世界だ。知らず顔がほころぶ。

 ところが、いきなりシャッター音が響き渡り、夢物語は消えた。

 振り向いた先で、晃聖がカメラのファインダー越しに彼女を見ている。

 抗議しようと口を開きかけたとたん、再びフィルムを巻きあげる音がした。

 「やめてよ」

 「どうして?」カメラの後ろから、かわいた声が訊いてくる。

 「写真は嫌いなの」

 「嫌いなものがおおいんだな?」晃聖はあっさりカメラを下ろした。
 「行こうか?そこの小道をくだると、もっときれいだよ」何事もなかったかのように、彼がうながす。両手にたくさんの荷物を持っていた。

 「持ちましょうか?」

 「なら、これ頼む」一番軽そうなコンビニの袋を差し出してきた。
 「ここはキャンプ地なんだ。シーズンになると、人でいっぱいになる」説明しながら、蒼依の前を歩いていく。滑りやすい場所では、彼女に手を貸してくれた。

 しだいに水の音が大きくなり、こんもりした雑草の間を抜けると、そこはもう河原だった。上流には大量の水が降ってくる大きな滝がある。

 蒼依は魅せられたように川縁に立った。
 「すごい……」つぶやきは巨大な水音にかき消されてしまった。
 しばし降り注ぐ流れに見入り、その圧倒的な迫力を堪能する。座り心地のよさそうな石を見つけ、スニーカーとソックスを脱いで冷たい流れにつま先を浸けてみた。

 驚いた河魚が慌てて逃げていく。

 その姿を追って、目を凝らした。魚の名前を訊こうと、晃聖を見た。

 晃聖は滝に向かってカメラを構えていた。
袖をまくりあげた二の腕が、陽の光を受けて白く光っている。

 「カメラ、好きなの?」魚のことも忘れ、大声で尋ねた。

 カメラを下ろし、晃聖が「そうだ」と声を張りあげる。こちらにやって来て、隣に腰を下ろした。

 「あのケースの中身もカメラの機材?」離れた所に置いてある、シルバーのケースを見て訊いた。

 「そうだよ」

 「どんなものを撮るの?」

 「人とか自然とか、何でも。自然はそれだけで美しいし、人の場合、その背景やドラマが浮かんできておもしろいよ」瞳を輝かせ、熱心に語る。

 「そんなに好きなら、その道を目指せばいいじゃない」

 「言うほど簡単じゃないさ」

 「ああ、それで楽に儲かる方法を選んだのね?」

 晃聖が口をつぐんだ。

 急に水音が大きくなったような気がする。ふたりの間で、いつか彼が怒りにまかせて言ったホストをやっている理由がわだかまっていた。

 「腹、減ったろ?」晃聖が唐突に話題を変えた。「コーヒー、紅茶、緑茶、どれにする?」三種類のペットボトルと缶が石の上に危なっかしく並んだ。
 さっきまでの和やかな雰囲気を、取り戻そうとするかのようだ。

 「前菜はこれにしよう」ふたりの間の平らな石の上に、パックに入った春巻きを置く。「それで、メインはこれな」チキンとサラダを彼女の膝に載せた。
 「ついでにこれも」玉子焼きを春巻きの隣に置き、さらにおにぎりとサンドイッチが並んだ。

 ついに蒼依は吹き出した。
 「ごちそうじゃない。おいしそう」お茶を取りあげ、キャップをひねった。

 まったく、女をおだてる彼の手管にはかなわない。晃聖の満ち足りた顔を眺め、川面に視線を移す。実にいい気分だ。緊張から解放され、純粋な空腹を感じた。こんな感覚は母の死とともに息絶えたと思っていた。
 それが今、息を吹き返し、蒼依に生きる喜びを感じさせている。
 景色を眺め、彼の冗談に笑い転げ、気づいたときには並んだ食料はすべて平らげていた。

 晃聖がご機嫌でゴミを片づけ始めた。
 「マナーだからね」照れくさそうに言う。

 蒼依も片づけを手伝った。言葉は交わさないが、心は通じていた。
 ふたりはもうしばらくそこにいて、水面すれすれに飛ぶ鳥の名前を言い当てたり、写真を撮ったりして過ごした。

 晃聖が「そろそろ帰ろう」と言ったときには残念に思ったぐらいだ。

 ひとりぼっちの部屋に帰りたくない。瞬時にそう思った。いつもなら、外界から自分を守る安らぎの場所のはずなのに、おかしなものだ。

 「次の休みも一緒に出かけようか?」帰り際、晃聖が蒼依の手を取って訊いた。

 「ほんと!?」考えるより先に言葉が出ていた。

 晃聖がうれしそうに笑い、蒼依もほほ笑む。

 「きみが笑うとうれしいよ」彼女を引き寄せ、かがみ込んできた。

 蒼依は緊張して、固まった。どうしていいのかわからない。

 晃聖は髪にキスして、すぐに離れた。何事もなかったように彼女の手を引いて、小道を戻り始めた。


 晃聖の心は踊っていた。髪に触れただけのキスでも、大きな進歩だ。髪は女心を量るバロメーター。触れさせてもらえるか、もらえないかで状況は一変する。
 部屋には招かれなかったが、不満はなかった。なぜなら彼女の方から『また明日』と言ったからだ。いずれ部屋にも招待されるだろう。
 晃聖はにやけ顔で、出勤に備えて家に向かった。
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