8 / 9
序章
深窓の密談
しおりを挟む
別に、迷っているわけではない。
背中を少し丸めた小柄な男性、通称無能教師佐々木秀明は校内を徘徊していた。
ほとんどの生徒が部活に行くか、家に帰るかで昼とは打って変わった静寂に包まれる放課後で、ちらちらと何故か周りを気にしながら。
冒頭で述べられた言葉、それは他ならない佐々木の脳内に浮かんだ言葉だった。
佐々木はもう時間にして約三十分、ふらふらと校内の主に高校生が使用する棟を中心にして練り歩いていた。
まず一年三組を覗きに行き、誰もいないことに落胆し。次に図書室、保健室、他の一年の教室。職員室に一旦戻り、体育館に行き、いろんな学年の教室までぐるぐると。
「はあ」
何故?
彼は何故、さながら学校探検とも呼べてしまうようなことを長い間続けているのだろうか。
理由は簡単だ。簡単だが、容易に口にはできないこと。
いや、容易、なんて言葉では生温いだろう。佐々木も自分できちんと理解している。
タブー。禁忌。ルール。御法度。
世間一般で考えて、絶対にしてはいけないこと。
「……まだ学校にいるかなあ……」
ふと、佐々木の口から、溜まりに溜まった本心がもう耐えられないとばかりに溢れ、この静かな廊下に落ちてしまう。
佐々木はそのことに気づかない。佐々木は、自分が発言したことに気づいていない。
佐々木は探し続ける。学校にいるかも分からない、ある女子生徒のことを。
その生徒は佐々木の授業を真面目に、真摯に聞き、受け止めてくれる唯一の生徒。
一年三組、三十五番。大人しく、慎ましやかな性格で、口調はまるでどこかのお嬢様。
いつも自分の席で本を読んでいて、放課後は教室で本を読むか、図書館に行くか、すぐに家に帰るかのどれか。
その生徒が通うこの高校、綿吹高校には文学部もあるが、どの部にも所属していないいわゆる帰宅部。
友達は少ないようだが、たまに隣の席の男子生徒と会話をしている。
菊田紬。
そう、佐々木は、菊田紬という女子生徒に密かな恋心を向けているのだ。
前述の通り、佐々木は理解している。好意を持つことは百歩譲ってまだ許されるとしても、恋愛関係を持ってしまうのは犯罪であると。
最低でも懲罰処分は免れないだろうし、最悪逮捕となってしまう可能性もある。
故に佐々木は恋心を包み隠している。
勿論、もし佐々木が菊田紬と付き合うため動いたとしても、必ずしも結ばれるわけではないが、佐々木はその可能性を考慮していない。
佐々木秀明。二十四歳。
菊田紬が所属するクラスの副担任を担当しており、教科は数学。
佐々木は、長所とも短所とも取れる特徴を持っていた。
それは、根拠のない絶対的な自信。
自分が間違っていると思ったことは一度もないし、容姿は整っている、自分は頭がいいんだと自負している。
実際、頭は良く、容姿もそれなりに整っている。
だが、佐々木はよく間違える。勘違い、とも言える。
自分は授業が上手いと思っているが、実際のところとても下手。
生徒が自分の話を聞かないのは自分の話がとても高度なものだから。
佐々木は本気でそう思い込んでいる。
それ故に自分が未だに副担任ということに憤りを感じている。別に、二十四歳という若い年齢でクラスを持てていないことは全くおかしくなく、むしろ普通な事なのだが……佐々木の習性を考えればその後に続く文など容易に想像できるだろう。
もうここまで読めば理解できるだろうが、そんな佐々木は今、菊田紬を探して校内を徘徊している。
何か話すわけではない。ただ、一目みたいのだ。
それだけ佐々木は菊田紬のことを恋慕っている。
そんな佐々木は校内を歩き回り、すっかり人気の無い場所まで来てしまった。
旧校舎。
現在、二階が男子生徒の更衣室となっているが、一階は何にも使われておらず、いずれ取り壊されるだろうと言われている場所。
掃除もしていないので埃っぽく、薄陽が差し込むだけの古びた廊下は春にしては少し肌寒い。
男子はこんなところで着替えているのかといささか可哀想に思えたが、自分には関係のないことだとすぐ忘れた。
この旧校舎は二階建てである。二階建てといっても狭いわけでは無く、一階一階が広いのだ。
佐々木は広い校舎の一階をまだ回りきれていなかった。
「もう戻ろうかな」
佐々木はそうぼやく。
まさか菊田紬がこんなところにいるわけないし、もう探すだけ無駄だろう。
でも、万が一、億が一、ここに菊田紬がいるのなら。
佐々木はひどく後悔する。
勿論佐々木はそれも分かっているのでなかなか放課後の業務に戻ることはできない。
これでも以前よりかはマシになったほうなのだ。
以前までは見逃してしまった可能性もあると下校時間まで探し回っていた。
一度学年部長直々に説教をくらってからはなくなったが。
佐々木は辺りを注意深く見回り歩き続け、とうとうこの校舎の深窓まできてしまった。
あと残った教室は二部屋で、どちらの教室にも灯りが灯っておらず、静かだ。
まあ、灯りといってもあってないようなものだが。
「帰るか」
佐々木はひどく悲しそうな声でそう言う。
今日も菊田紬に会えなかった。授業もなかったし、顔すら見れていない。
それでも佐々木はまだ、いつもよりかは気分が沈んでいるわけではなかった。
「明日、会えるし」
明日には一限目から数学の授業がある。
菊田紬が休まない限り必然的に会う事ができる。
佐々木は沈んだ気持ちを切り替えて、その二つの教室に背を向け歩き出そうとしたその時。
声が、した。
「今宵も始めましょう」
「始めましょう」
「始めましょう」
「始めましょう」
「今宵の主題は『菊田紬』」
「『菊田紬』」
「『菊田紬』」
「『菊田紬』」
「あの儚げな瞳に」
「あの艶やかな髪に」
「あのしなやかな身体に」
「「「「何を秘めているのか、何を孕んでいるのか」」」」
「「「「今宵、明らかに致しましょう」」」」
四人の、美しい声が入り混じる。
一人は、成熟した色めかしい声で。
一人は、幼なげで溌剌とした声で。
一人は、透き通った濁りがない声で。
一人は、力強く芯がはっきりとした声で。
菊田紬。その言葉が挙げられた途端、佐々木の心臓が大きく脈打った。
何の話だ、菊田紬にまさか、隠し事があるのか?
佐々木が背を向けた深窓の教室で、その小さくも綺麗で響く声が鳴る。
菊田紬。その言葉が挙げられた途端、佐々木の体は硬直し、すっかり四人の密談に聞きいってしまった。
「では、一人一人持ち寄った話をそれぞれ語りましょう。まずは、今回個人情報を担当された方から」
「はい」
司会のような役割を、大人らしい声の持ち主が担当するようだ。そして、最初に菊田紬について話すのは、どうやら幼い声の持ち主のようだった。
「菊田紬、十五歳。誕生日は六月十三日の双子座で、AB型。一年三組の三十五番。父親と母親の三人家族で、猫を一匹飼っている。住所は——」
何だ、これは。
佐々木は狼狽え、だんだんと怒りが湧いてきた。
きっとこの四人組は菊田紬のことを遊び感覚で調べ上げ、それを共有して楽しんでいるのだろう。
今すぐにでも教室に乗り込み説教をしてやりたい気分だったが、好きな子のことを知りたいという気持ちが佐々木の中に湧いて出てきて、すぐ動くことはできなかった。
「はい、ありがとうございます」
いつの間にか個人情報の説明が終わっていて、佐々木は落胆しつつも安堵していた。
もし、菊田紬の住所や電話番号、ありとあらゆる個人情報を知ってしまったら。
佐々木は自分が何かしでかすのではないかと少し不安に思ったのだ。
「では、次の今回菊田紬の学校生活について調べた方」
「はい」
依然として司会は変わらず、次話す人が透き通った声の人間に変わった。
「中学は高校と同じく綿吹で、中入生。友達は少ない方だが、_氷谷@こおりたに_という中学時代からの親友がいて、高校入学と同時に清水という男子生徒とも仲が良くなる。容姿端麗で、密かに男子生徒から人気がある。おとなしい性格で成績優秀。特に現代文を得意とする。部活は入っていないが、文学同好会に入っている。委員会は図書委員で、一年ながらも中学の頃からやっていた為副委員長を務める。運動神経の方でもなかなかの成績を博し、柔軟性についてクラスメイトに軟体動物と言われた経験あり。品行方正で指導はおろか注意すらも受けているところを見たことがないと言われている。クラスの中では、静かに本を読む可愛くて頭がいいお淑やかな女の子と一部からは尊敬の目で、一部からは嫉妬の目で見られている。また——」
清水という男子生徒は佐々木も少し目につけていた。菊田紬に群がる、悪い虫。菊田紬はそれを鬱陶しがるわけではなく、反対に好意を示しているようにも見える行動を多々取っている。
菊田紬をたぶらかす、愚かな中坊。
佐々木にとって清水春樹はその程度にしか見えていなかった。
学力だって中の上、運動神経は女の菊田紬より無い。男らしくない声や見た目で身長も低い。
敵ではない、自分の有能さに到底及ばない。
菊田紬はあらかたただの友人か、おちょくっているだけかの二択だと判断していた。
佐々木は清水春樹の間抜け面を頭に浮かべ、蔑んだ目をして鼻で笑った。
「では、最後。今回菊田紬の過去を調べた方」
「はい」
佐々木が清水春樹を鼻で笑っている間に菊田紬の学校生活についての話は終わり、過去の話へと移り変わった。
声は、力強く芯がある声。
女の声ではあるが、清水春樹よりよっぽど男らしい声だな、と佐々木はまた鼻で笑った。
「菊田紬の過去について調べ、一応色々とありきたりな良い情報は見つかりました。その中で、興味深い情報が」
「それは何です?」
司会の女が急かすようにそう問いかける。
「菊田紬と関わりがある男性がいないんです」
「いない?」
「はい。文字通り、どこにも」
「どこにもいない? それを証明するのは不可能じゃない?」
幼なげな、最初に菊田の個人情報を暴いた女が先程よりもずっとくだけた口調でそう疑問を呈す。
菊田紬と関わりがある男性がいない。
佐々木にとってもそれは興味深い話だった。だがしかし、見つからない、存在が確定しないならまだしも、いないと言い切られた大分雑なその情報に眉を顰めずにはいられなかった。
無いものを証明するのは、あると証明することよりも何倍も難しいことである。
「菊田紬は男性とあまり仲を深めないというわけではないのですね?」
大人びた司会の女がそう問う。
それを聞き、佐々木はその可能性もあると考えた。
ただ、この菊田紬の過去を語る女が皆を惹きつけるためにそんなことを口走った可能性も勿論ある。
「はい、そうではありません」
「そうですか……」
「では、どういう訳か、教えてくれませんか?」
自分の話すべきことを終えてからずっと黙っていた、透き通った声の持ち主は落ち着いた様子で問うた。
「分かりました。まず——」
簡潔にまとめると。
まず、菊田紬は数人程度ではあるが、一応男子生徒との関わりがある。否、あった。
中学一年の頃、二人。中学二年の頃にまた一人。中学三年の頃に一人。そして今、高校一年。
今の所菊田紬と関わりがある男子生徒は清水春樹の一人。
その清水春樹を除き、中学時代仲が良かった四人は姿を消している、と言われていた。
その四人が偶然全員転校や不登校になったとも考えにくい。
その、姿を消す、という言い方も曖昧だ。
この綿吹高校から姿を消したのか、この世界から姿を消したのか、色んな意味に捉えられる。
「……はあ」
佐々木は自分が想いを寄せる生徒にそんな重大な過去があったのか、と驚きそして心配をし、大きなため息をついた。
「質問、よろしいですか?」
透き通った声の女が落ち着いた様子でそう尋ねる。
「はい、勿論」
「その男子生徒が姿を消した、という点について、姿を消したとはそのままの意味なんですか? それとも、学校からいなくなったか」
「私が知る限りでは、文字通りの意味です。調べましたが、どこにも。ただ、遠方でしたり海外となると分からないので、一概には言えませんが」
その男子生徒らが消えた理由について考えられる可能性はいくつかある。
一つ、その四人が偶然何らかの事情でこの学校から姿を消した。
二つ、菊田紬はこの学校を離れる男子生徒を選り好みして関係を作った。
三つ、そもそもこの女が捜査不足で男子生徒がまだこの学校にいることを把握していない。
四つ、菊田紬が男子生徒に転校を促した、またはそうせざるを得ない状況を作った。
佐々木はいくつかの説を頭に浮かべたが、最後の説はあくまで可能性があるというだけの話で、その可能性の数値は限りなくゼロに近いと考えていた。
自分が惚れている女が、まさかそんな。
佐々木はそもそも菊田紬の品行方正な所に惚れた節もある。
単純な佐々木はそんな可能性、ちっとも考えはしなかった。
その後の密談は、菊田紬の過去の話といえど、中学時代、密かに小説をネットに投稿していた話だとか、小学校の頃ちょっとした事故に遭った話だとか、そこまで重要性のない話だった。
事故に遭った話は佐々木にとって気になる点ではあったが、どうやらそこまで大きな事故ではないようで、一度安心した後すぐに興味を逸らした。
「では、本日の密談を終了といたします」
司会の女が初めの挨拶とが打って変わって大分ラフな言い方で場を締め、この密談はこれにて解散となったようだった。
ガタガタと椅子か机を動かす音が聞こえる。きっと話す時使っていたのだろう。
「ねえねえ、次はいつにする? それと、誰について調べる?」
「そうねえ、やっぱり菊田紬さん、気になるわよね」
「ええ、二回連続同じ人?」
「いいんじゃないの? 別にきまりはないんだし」
「まあそうだけどさあ」
幼なげな声の女子は不満げな様子だ。色めかしい声の女が菊田紬について調べたがっているが、佐々木としても菊田紬のことを調べられたくないので、その女子には反対である。
「まああとでメールで話し合えば良いんじゃない?」
「ま、それもそうだね」
「もう遅いし帰りましょ」
「あー、お腹すいた!」
佐々木に賛成反対の意見があってもこの女達の間に入り意見を言うことは叶わぬことだ。
どうにかしてやめさせることはできぬものかと苦悩していると、だんだんと佐々木に近づく足音が大きくなってきた。
「やべえ」
佐々木はバレることがないよう忍び足で、かつ素早くその旧校舎から去っていった。
背中を少し丸めた小柄な男性、通称無能教師佐々木秀明は校内を徘徊していた。
ほとんどの生徒が部活に行くか、家に帰るかで昼とは打って変わった静寂に包まれる放課後で、ちらちらと何故か周りを気にしながら。
冒頭で述べられた言葉、それは他ならない佐々木の脳内に浮かんだ言葉だった。
佐々木はもう時間にして約三十分、ふらふらと校内の主に高校生が使用する棟を中心にして練り歩いていた。
まず一年三組を覗きに行き、誰もいないことに落胆し。次に図書室、保健室、他の一年の教室。職員室に一旦戻り、体育館に行き、いろんな学年の教室までぐるぐると。
「はあ」
何故?
彼は何故、さながら学校探検とも呼べてしまうようなことを長い間続けているのだろうか。
理由は簡単だ。簡単だが、容易に口にはできないこと。
いや、容易、なんて言葉では生温いだろう。佐々木も自分できちんと理解している。
タブー。禁忌。ルール。御法度。
世間一般で考えて、絶対にしてはいけないこと。
「……まだ学校にいるかなあ……」
ふと、佐々木の口から、溜まりに溜まった本心がもう耐えられないとばかりに溢れ、この静かな廊下に落ちてしまう。
佐々木はそのことに気づかない。佐々木は、自分が発言したことに気づいていない。
佐々木は探し続ける。学校にいるかも分からない、ある女子生徒のことを。
その生徒は佐々木の授業を真面目に、真摯に聞き、受け止めてくれる唯一の生徒。
一年三組、三十五番。大人しく、慎ましやかな性格で、口調はまるでどこかのお嬢様。
いつも自分の席で本を読んでいて、放課後は教室で本を読むか、図書館に行くか、すぐに家に帰るかのどれか。
その生徒が通うこの高校、綿吹高校には文学部もあるが、どの部にも所属していないいわゆる帰宅部。
友達は少ないようだが、たまに隣の席の男子生徒と会話をしている。
菊田紬。
そう、佐々木は、菊田紬という女子生徒に密かな恋心を向けているのだ。
前述の通り、佐々木は理解している。好意を持つことは百歩譲ってまだ許されるとしても、恋愛関係を持ってしまうのは犯罪であると。
最低でも懲罰処分は免れないだろうし、最悪逮捕となってしまう可能性もある。
故に佐々木は恋心を包み隠している。
勿論、もし佐々木が菊田紬と付き合うため動いたとしても、必ずしも結ばれるわけではないが、佐々木はその可能性を考慮していない。
佐々木秀明。二十四歳。
菊田紬が所属するクラスの副担任を担当しており、教科は数学。
佐々木は、長所とも短所とも取れる特徴を持っていた。
それは、根拠のない絶対的な自信。
自分が間違っていると思ったことは一度もないし、容姿は整っている、自分は頭がいいんだと自負している。
実際、頭は良く、容姿もそれなりに整っている。
だが、佐々木はよく間違える。勘違い、とも言える。
自分は授業が上手いと思っているが、実際のところとても下手。
生徒が自分の話を聞かないのは自分の話がとても高度なものだから。
佐々木は本気でそう思い込んでいる。
それ故に自分が未だに副担任ということに憤りを感じている。別に、二十四歳という若い年齢でクラスを持てていないことは全くおかしくなく、むしろ普通な事なのだが……佐々木の習性を考えればその後に続く文など容易に想像できるだろう。
もうここまで読めば理解できるだろうが、そんな佐々木は今、菊田紬を探して校内を徘徊している。
何か話すわけではない。ただ、一目みたいのだ。
それだけ佐々木は菊田紬のことを恋慕っている。
そんな佐々木は校内を歩き回り、すっかり人気の無い場所まで来てしまった。
旧校舎。
現在、二階が男子生徒の更衣室となっているが、一階は何にも使われておらず、いずれ取り壊されるだろうと言われている場所。
掃除もしていないので埃っぽく、薄陽が差し込むだけの古びた廊下は春にしては少し肌寒い。
男子はこんなところで着替えているのかといささか可哀想に思えたが、自分には関係のないことだとすぐ忘れた。
この旧校舎は二階建てである。二階建てといっても狭いわけでは無く、一階一階が広いのだ。
佐々木は広い校舎の一階をまだ回りきれていなかった。
「もう戻ろうかな」
佐々木はそうぼやく。
まさか菊田紬がこんなところにいるわけないし、もう探すだけ無駄だろう。
でも、万が一、億が一、ここに菊田紬がいるのなら。
佐々木はひどく後悔する。
勿論佐々木はそれも分かっているのでなかなか放課後の業務に戻ることはできない。
これでも以前よりかはマシになったほうなのだ。
以前までは見逃してしまった可能性もあると下校時間まで探し回っていた。
一度学年部長直々に説教をくらってからはなくなったが。
佐々木は辺りを注意深く見回り歩き続け、とうとうこの校舎の深窓まできてしまった。
あと残った教室は二部屋で、どちらの教室にも灯りが灯っておらず、静かだ。
まあ、灯りといってもあってないようなものだが。
「帰るか」
佐々木はひどく悲しそうな声でそう言う。
今日も菊田紬に会えなかった。授業もなかったし、顔すら見れていない。
それでも佐々木はまだ、いつもよりかは気分が沈んでいるわけではなかった。
「明日、会えるし」
明日には一限目から数学の授業がある。
菊田紬が休まない限り必然的に会う事ができる。
佐々木は沈んだ気持ちを切り替えて、その二つの教室に背を向け歩き出そうとしたその時。
声が、した。
「今宵も始めましょう」
「始めましょう」
「始めましょう」
「始めましょう」
「今宵の主題は『菊田紬』」
「『菊田紬』」
「『菊田紬』」
「『菊田紬』」
「あの儚げな瞳に」
「あの艶やかな髪に」
「あのしなやかな身体に」
「「「「何を秘めているのか、何を孕んでいるのか」」」」
「「「「今宵、明らかに致しましょう」」」」
四人の、美しい声が入り混じる。
一人は、成熟した色めかしい声で。
一人は、幼なげで溌剌とした声で。
一人は、透き通った濁りがない声で。
一人は、力強く芯がはっきりとした声で。
菊田紬。その言葉が挙げられた途端、佐々木の心臓が大きく脈打った。
何の話だ、菊田紬にまさか、隠し事があるのか?
佐々木が背を向けた深窓の教室で、その小さくも綺麗で響く声が鳴る。
菊田紬。その言葉が挙げられた途端、佐々木の体は硬直し、すっかり四人の密談に聞きいってしまった。
「では、一人一人持ち寄った話をそれぞれ語りましょう。まずは、今回個人情報を担当された方から」
「はい」
司会のような役割を、大人らしい声の持ち主が担当するようだ。そして、最初に菊田紬について話すのは、どうやら幼い声の持ち主のようだった。
「菊田紬、十五歳。誕生日は六月十三日の双子座で、AB型。一年三組の三十五番。父親と母親の三人家族で、猫を一匹飼っている。住所は——」
何だ、これは。
佐々木は狼狽え、だんだんと怒りが湧いてきた。
きっとこの四人組は菊田紬のことを遊び感覚で調べ上げ、それを共有して楽しんでいるのだろう。
今すぐにでも教室に乗り込み説教をしてやりたい気分だったが、好きな子のことを知りたいという気持ちが佐々木の中に湧いて出てきて、すぐ動くことはできなかった。
「はい、ありがとうございます」
いつの間にか個人情報の説明が終わっていて、佐々木は落胆しつつも安堵していた。
もし、菊田紬の住所や電話番号、ありとあらゆる個人情報を知ってしまったら。
佐々木は自分が何かしでかすのではないかと少し不安に思ったのだ。
「では、次の今回菊田紬の学校生活について調べた方」
「はい」
依然として司会は変わらず、次話す人が透き通った声の人間に変わった。
「中学は高校と同じく綿吹で、中入生。友達は少ない方だが、_氷谷@こおりたに_という中学時代からの親友がいて、高校入学と同時に清水という男子生徒とも仲が良くなる。容姿端麗で、密かに男子生徒から人気がある。おとなしい性格で成績優秀。特に現代文を得意とする。部活は入っていないが、文学同好会に入っている。委員会は図書委員で、一年ながらも中学の頃からやっていた為副委員長を務める。運動神経の方でもなかなかの成績を博し、柔軟性についてクラスメイトに軟体動物と言われた経験あり。品行方正で指導はおろか注意すらも受けているところを見たことがないと言われている。クラスの中では、静かに本を読む可愛くて頭がいいお淑やかな女の子と一部からは尊敬の目で、一部からは嫉妬の目で見られている。また——」
清水という男子生徒は佐々木も少し目につけていた。菊田紬に群がる、悪い虫。菊田紬はそれを鬱陶しがるわけではなく、反対に好意を示しているようにも見える行動を多々取っている。
菊田紬をたぶらかす、愚かな中坊。
佐々木にとって清水春樹はその程度にしか見えていなかった。
学力だって中の上、運動神経は女の菊田紬より無い。男らしくない声や見た目で身長も低い。
敵ではない、自分の有能さに到底及ばない。
菊田紬はあらかたただの友人か、おちょくっているだけかの二択だと判断していた。
佐々木は清水春樹の間抜け面を頭に浮かべ、蔑んだ目をして鼻で笑った。
「では、最後。今回菊田紬の過去を調べた方」
「はい」
佐々木が清水春樹を鼻で笑っている間に菊田紬の学校生活についての話は終わり、過去の話へと移り変わった。
声は、力強く芯がある声。
女の声ではあるが、清水春樹よりよっぽど男らしい声だな、と佐々木はまた鼻で笑った。
「菊田紬の過去について調べ、一応色々とありきたりな良い情報は見つかりました。その中で、興味深い情報が」
「それは何です?」
司会の女が急かすようにそう問いかける。
「菊田紬と関わりがある男性がいないんです」
「いない?」
「はい。文字通り、どこにも」
「どこにもいない? それを証明するのは不可能じゃない?」
幼なげな、最初に菊田の個人情報を暴いた女が先程よりもずっとくだけた口調でそう疑問を呈す。
菊田紬と関わりがある男性がいない。
佐々木にとってもそれは興味深い話だった。だがしかし、見つからない、存在が確定しないならまだしも、いないと言い切られた大分雑なその情報に眉を顰めずにはいられなかった。
無いものを証明するのは、あると証明することよりも何倍も難しいことである。
「菊田紬は男性とあまり仲を深めないというわけではないのですね?」
大人びた司会の女がそう問う。
それを聞き、佐々木はその可能性もあると考えた。
ただ、この菊田紬の過去を語る女が皆を惹きつけるためにそんなことを口走った可能性も勿論ある。
「はい、そうではありません」
「そうですか……」
「では、どういう訳か、教えてくれませんか?」
自分の話すべきことを終えてからずっと黙っていた、透き通った声の持ち主は落ち着いた様子で問うた。
「分かりました。まず——」
簡潔にまとめると。
まず、菊田紬は数人程度ではあるが、一応男子生徒との関わりがある。否、あった。
中学一年の頃、二人。中学二年の頃にまた一人。中学三年の頃に一人。そして今、高校一年。
今の所菊田紬と関わりがある男子生徒は清水春樹の一人。
その清水春樹を除き、中学時代仲が良かった四人は姿を消している、と言われていた。
その四人が偶然全員転校や不登校になったとも考えにくい。
その、姿を消す、という言い方も曖昧だ。
この綿吹高校から姿を消したのか、この世界から姿を消したのか、色んな意味に捉えられる。
「……はあ」
佐々木は自分が想いを寄せる生徒にそんな重大な過去があったのか、と驚きそして心配をし、大きなため息をついた。
「質問、よろしいですか?」
透き通った声の女が落ち着いた様子でそう尋ねる。
「はい、勿論」
「その男子生徒が姿を消した、という点について、姿を消したとはそのままの意味なんですか? それとも、学校からいなくなったか」
「私が知る限りでは、文字通りの意味です。調べましたが、どこにも。ただ、遠方でしたり海外となると分からないので、一概には言えませんが」
その男子生徒らが消えた理由について考えられる可能性はいくつかある。
一つ、その四人が偶然何らかの事情でこの学校から姿を消した。
二つ、菊田紬はこの学校を離れる男子生徒を選り好みして関係を作った。
三つ、そもそもこの女が捜査不足で男子生徒がまだこの学校にいることを把握していない。
四つ、菊田紬が男子生徒に転校を促した、またはそうせざるを得ない状況を作った。
佐々木はいくつかの説を頭に浮かべたが、最後の説はあくまで可能性があるというだけの話で、その可能性の数値は限りなくゼロに近いと考えていた。
自分が惚れている女が、まさかそんな。
佐々木はそもそも菊田紬の品行方正な所に惚れた節もある。
単純な佐々木はそんな可能性、ちっとも考えはしなかった。
その後の密談は、菊田紬の過去の話といえど、中学時代、密かに小説をネットに投稿していた話だとか、小学校の頃ちょっとした事故に遭った話だとか、そこまで重要性のない話だった。
事故に遭った話は佐々木にとって気になる点ではあったが、どうやらそこまで大きな事故ではないようで、一度安心した後すぐに興味を逸らした。
「では、本日の密談を終了といたします」
司会の女が初めの挨拶とが打って変わって大分ラフな言い方で場を締め、この密談はこれにて解散となったようだった。
ガタガタと椅子か机を動かす音が聞こえる。きっと話す時使っていたのだろう。
「ねえねえ、次はいつにする? それと、誰について調べる?」
「そうねえ、やっぱり菊田紬さん、気になるわよね」
「ええ、二回連続同じ人?」
「いいんじゃないの? 別にきまりはないんだし」
「まあそうだけどさあ」
幼なげな声の女子は不満げな様子だ。色めかしい声の女が菊田紬について調べたがっているが、佐々木としても菊田紬のことを調べられたくないので、その女子には反対である。
「まああとでメールで話し合えば良いんじゃない?」
「ま、それもそうだね」
「もう遅いし帰りましょ」
「あー、お腹すいた!」
佐々木に賛成反対の意見があってもこの女達の間に入り意見を言うことは叶わぬことだ。
どうにかしてやめさせることはできぬものかと苦悩していると、だんだんと佐々木に近づく足音が大きくなってきた。
「やべえ」
佐々木はバレることがないよう忍び足で、かつ素早くその旧校舎から去っていった。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
病弱な彼女は、外科医の先生に静かに愛されています 〜穏やかな執着に、逃げ場はない〜
来栖れいな
恋愛
――穏やかな微笑みの裏に、逃げられない愛があった。
望んでいたわけじゃない。
けれど、逃げられなかった。
生まれつき弱い心臓を抱える彼女に、政略結婚の話が持ち上がった。
親が決めた未来なんて、受け入れられるはずがない。
無表情な彼の穏やかさが、余計に腹立たしかった。
それでも――彼だけは違った。
優しさの奥に、私の知らない熱を隠していた。
形式だけのはずだった関係は、少しずつ形を変えていく。
これは束縛? それとも、本当の愛?
穏やかな外科医に包まれていく、静かで深い恋の物語。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
橘若頭と怖がり姫
真木
恋愛
八歳の希乃は、母を救うために極道・橘家の門を叩き、「大人になったら自分のすべてを差し出す」と約束する。
その言葉を受け取った橘家の若頭・司は、希乃を保護し、慈しみ、外界から遠ざけて育ててきた。
高校生になった希乃は、虚弱体質で寝込んでばかり。思いつめて、今まで養ってもらったお金を返そうと夜の街に向かうが、そこに司が現れて……。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる