星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

文字の大きさ
26 / 109
第三章 夜帳のきざし

22 英雄の子孫

しおりを挟む
 レンが慌ただしい一日を終えて寮に戻ったのは日も傾き始めた夕暮れ時のことだった。

 西の空が淡く焦げるような茜色に染まり、天頂では早くも星光がちらほらと瞬き始めていた。
 星屑の寮〈ドミトリウム・アストルム〉。これからレンが、イシュ・アルマでの生活を送る場所である。

 天空を渡る魔素の流れが天窓から柔らかな光線となって降り注ぎ、寮の中央棟にある古風な食堂は、まるで銀糸で織られた天幕の下にいるかのような幻想的な空間に変わっていた。

 この広い食堂は、かつて王室の晩餐会に使われていたという由緒ある場所で、高い天井と荘厳なアーチを支える漆黒の柱が歴史を物語っている。壁際には魔素の結晶を埋め込んだ燭台が規則正しく並び、今もゆらゆらと揺れる光が磨かれた木の床に踊っていた。

 そんな場所に、今は生徒たちの声と食器の触れ合う音がにぎやかに響いていた。私服に着替えた生徒たちはそれぞれの席で笑い、語らい、忙しくフォークを動かしている。

 長く並んだテーブルの上には、栄養と魔素吸収効率のバランスを追求した多彩な料理がずらりと並んでいたが、それらの設計的意図は、色鮮やかな香草とルビー色の果実ソースがたっぷりかけられた砂鶏肉のローストや、香ばしく焼かれたデカベジグラタンの甘くとろける匂いの前では、どうでもよくなってしまう。空腹の若者にとって、味覚と嗅覚を刺激される誘惑に勝てる理屈など存在しないのだ。

 その一角。やや窓に近い席で、イシミネはフォークとナイフを器用に操りながら、向かいに座る少女に笑いかけていた。

「……ってことでさ。炎属性の制御演習で、誰かが袖燃やしちゃってさ!びっくりしたよ」

 彼の笑い声は素朴で、どこか緩んだ空気を持っていた。異邦から来た者らしい独特の温度。それがどこか、この空間の「異質」でありながらも、やけに自然に溶け込んでいた。

 カナメは目元を少し細めて、パイの皮を器用に崩しながら鼻で笑う。

「いたいた、多分火の魔素と相性悪かったんだね。……てか、あんたも燃やしかけてなかった?」

「う、う……バレてた? あれ、狙ったわけじゃないんだけどな~」

「狙って袖を燃やすバカがどこにいるのよ」

 フォークを握るカナメの手が、肩の力を抜いて柔らかく揺れる。どこか警戒していた雰囲気が、ようやく少し解けたような、そんな温度が彼女の中に生まれていた。

 ふたりの間には、放課後の疲れをにじませた、静かで心地よい安堵の空気が漂っていた。

 レンがこの異質な学園に少しずつ馴染みはじめている——カナメはそれを、無意識に感じ取っていた。

「でもまあ、一日無事に終わってよかったよ。授業、正直ちょっと必死だったけど……でも、すごく楽しかった」

 レンの言葉は真っ直ぐだった。嘘がない。その素朴な一言に、カナメはふと視線を落とし、少しだけ表情を緩めた。

「……そっか。楽しめるって、大事よね」

 だがその笑みは、一瞬で翳った。ほんの僅かに眉尻が下がり、目元に影が射した。レンはその変化に気づかないまま、パンをちぎりながら話を続けた。

「でも、やっぱり教室の空気って独特だよな。午後もやっぱりちょっとからかわれたよ。『普通の高校から来たんだって?』って」

「……ああ、いるよね。ああいうの」

 声のトーンがわずかに下がった。水のグラスに指を添えるカナメの目が、少し遠くを見ていた。

「私も最初はずっと言われてた。『あのヒウラ・クウガの末裔』だってさ」

「……ヒウラ・クウガ?」

 レンが聞き返すと、カナメはどこか自嘲気味に小さく笑った。

「大戦期に、異界との裂け目を封じた退魔師。伝説の英雄よ。教本にも載ってる。けど……家系が英雄だったからって、私がそうなれるとは限らないのにね」

 その言葉には、長く背負ってきた重圧の重さが滲んでいた。テーブルの上で、フォークの先がかすかに震える。

「異界との……大戦?」

「はぁ、あんたってほんと興味のない事とことんスルーするね。いいよ、少しだけ教えてあげる」

『封獄の守り人と偉大なる扉』

 むかしむかし、この世界がまだ荒れ果て、
 人々が恐れと不安のなかで暮らしていた頃——

 どこからともなく現れたひとりの男がいました。

「封獄の守り人」と呼ばれた、偉大なる退魔師です。

 彼は強大な魔獣を一振りの術で鎮め、
 世界に突如現れた異形の存在を迷いなく祓い、
 人々に安らぎと秩序をもたらしました。

 彼の行く先には常に光があり、
 その瞳は真実と理を見通していたと言われています。

「この世界は、この世界の命のもの」
 そう語った彼の言葉は、時を超えて今も受け継がれています。

 やがて人々は、彼のもとに集まりました。
 知を学びたい者、魔術を極めたい者、
 そして何より、平和の礎を築きたいと願う者たちが。

 こうして、偉大なる魔術都市の礎が築かれました。
 それは、クウガの理想と信念が形となった、夢の都でした。

 しかし——ある夜、空が裂けました。

 激しい風が世界を切り裂き、
 別の世界とつながる“狭間”が口を開いたのです。

 人々は絶望しました。
 あまりの力に、誰ひとり抗うことはできませんでした。

 けれどその時——
 封獄の守り人——ヒウラ・クウガが立ち上がりました。

 彼は一歩も引かず、風のなかを歩み出ました。
 術を紡ぎ、魂を燃やし、知のすべてをもって、
 ついに“狭間”に巨大な封印の扉を築き上げたのです。

 誰にも真似できぬ構文、誰にも破れぬ封印。
 それは、この世界を守るために生まれた、奇跡の扉でした。

 そして扉が閉じられた瞬間、
 闇は退き、風は止み、空は再び青く澄みわたりました。

 人々は歓喜し、涙を流しました。

 こうしてこの世界は救われ、
 偉大なる封獄の守り人、ヒウラ・クウガの名は
 永遠に語り継がれることとなったのです。

 カナメが話し終わった後、レンは呆気に取られてきた。
 まだ、知らない世界がたくさんある。
 今日の学校生活で自分が知らないと思って触れたのは、まだ始まってすらいないのかもしれない。

「……すごいんだな、ヒウラんちって」

 レンは素直に驚いた。彼の反応が心からくるものだと分かっていたカナメは、困ったように笑う。

「……重いんだよね、この名前。誰かに期待されることも、比較されることも。私は私で、ちゃんと勉強して、訓練して、試験を受けてここに来た。でも周りからは、ずっと“あの人の子孫”って目で見られる」

 その瞳に宿る痛みは、誰にも完全には理解できない孤独だとレンは直感的に思った。

「でも——」

 ふいに、カナメは顔を上げた。微かな光を湛えた瞳は、まっすぐ前を向いていた。

「スメラギ先生だけは、違った。最初から、“君の魔素は興味深い”って。私自身を、ちゃんと見てくれた。血筋じゃなくて、私を」

 その言葉には、心の奥から溢れるような尊敬と感謝がにじんでいた。

 レンは目を丸くして、それからふと微笑んだ。

「なんか、ちょっとわかるかも。今日、放課後に少し話したんだ。自習室で。ノート見てたら、“復習偉いな”って声かけてくれて」

「……え?」

 その瞬間、カナメの動きが止まった。目が、ほんの一瞬、見開かれる。

「……スメラギ先生と、二人きりで?」

「え?うん、でもちょっとだけだよ?授業、難しくてさ……訊いたらさ、丁寧に教えてくれて、」

「……」

 レンの言葉に、カナメは思わずフォークをテーブルに置いた。その顔に浮かぶのは、驚き、困惑、そして——少しの嫉妬にも似た感情だった。

「……ほんとに?」

「え、え? なんかまずいことした俺……?」

「ちがう、ちがうの。……驚いただけ。あの人、他人とあんまり関わらない人だから。近づくのも難しいのに、あんた……なんで、そんな自然に……懐かれてるの?」

「懐かれてるって……俺、普通に話しかけただけだよ?」

 カナメふぅん、と息を吐いた。まだ何処か、腑に落ちていないようだった。

「……なんか、すごいな、あんたってさ」

 その瞬間、背後から包み込むような、ふくよかな声が響いた。

「こらこら、冷める前にちゃんと食べなさいねぇ、坊やたち」

 ふたりが振り返ると、そこにはマダム・グラニアの姿があった。豊かな胸元と丸みのある頬、慈愛と迫力を兼ね備えた存在感。エプロンには花と星の刺繍。彼女は、魔素寮の食堂を預かる肝っ玉母ちゃんを自で行く——どんな小さな変化も見逃さない、この寮の番人だ。

 その手には、大皿に盛られた自家製プリン。黄金色に輝く表面を、カラメルの艶が包んでいる。

「んふふ、今日は二人とも……少し“ほぐして”あげたほうが良さそうねぇ?」

 その目は、すべてを見透かすように優しく、強く、そして温かい。

 レンとカナメは目を見合わせ、小さく笑った。

 こうして、星屑の降る学寮の夜は、ゆっくりと、しかし確かに、二人の心を繋ぎながら更けていく。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま

中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。 両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。 故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!! 様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材! 僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX! ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。 うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか! 僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。 そうしてニ年後。 領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。 え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。 関係ここからやり直し?できる? Rには*ついてます。 後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。 ムーンライトにも同時投稿中

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!

野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ 平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、 どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。 数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。 きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、 生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。 「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」 それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。

ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎ 兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。 冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない! 仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。 宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。 一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──? 「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」 コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

その捕虜は牢屋から離れたくない

さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。 というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。

異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!

めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈ 社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。 もらった能力は“全言語理解”と“回復力”! ……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈ キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん! 出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。 最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈ 攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉ -------------------- ※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!

処理中です...