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第三章 夜帳のきざし
21 あの人の香り
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午後の講義と演習は、午前よりもやや実践寄りだった。
薬草の見分け方に魔力の計測実習、知らないことばかりで頭はついていかなかったが――それでも、レンはどこか高揚していた。
「疲れた……でも、なんか、楽しかったかも」
夕刻。レンは人気のない自習室で、ひとり机に向かっていた。
窓の外では空が朱に染まり始めている。
壁際の席でノートを広げ、今日一日を振り返るように、震えるような字をなぞっていく。
「……何書いてんだ、俺」
ノートには、浮かび上がるチョークの軌跡を追って書き殴った痕跡が残っていた。
魔法構文、古代言語、未知の専門用語――初耳の言葉ばかりで、意味を考える余裕もなく、ただ手を動かすことで精一杯だった。
それでも、不思議と後悔はなかった。
胸の奥には、ささやかな達成感のようなものが灯っていた。
椅子にもたれて、そっと息をついたそのとき――
「……復習とは、偉いな」
不意に、背後から静かな声が落ちてきた。
レンは驚いて振り向く。そこに立っていたのは、淡い光を纏ったような佇まいの、スメラギ・ミナトだった。
まったく足音がなかった。気配すらなかったはずなのに、彼はいつの間にか、まるで自然の一部のようにそこにいた。
「せ、先生……びっくりしますって……!」
「そうか?」
とぼけたように言いながら、スメラギはレンの隣の席へ歩み寄る。
黒の詰襟に身を包み、クロークの裾がかすかに揺れていた。
「……授業、難しすぎて。歴史の授業よりも、ずっと」
ぽつりと漏れた言葉に、スメラギは一瞬だけ目を細めた。
静かに、けれど確かに微笑んでいた。
「ふふ。イシミネは歴史が得意だものな。この時期はまだ基礎編とはいえ……魔導理論は、少し毛色が違う」
彼は腕を組み、どこか遠い記憶をたぐるように言葉を紡いだ。
「歴史は、過去の記録を辿る学問だ。だが魔法の歴史は違う。そこでは、記録ではなく魔力そのものが“時”を記憶している。……お前が見ているそれは、“生きている記録”と向き合う作業でもある」
「生きてる……?」
レンは思わず呟いた。
「魔力には、因果が宿る。古文書を読むのではなく、魔素に問い、文脈を解く。そうして“魔法”は、ようやく理論になる」
その声は、講義のときよりもずっとやわらかだった。
レンの理解に合わせて、言葉を選んでくれているのが伝わる。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
(この人、ちゃんと見てくれてる……)
不意に、そんな実感が胸を満たす。
けれどそれは、嬉しさと同時に、ほんの少し切なさも含んでいた。
まるで、最初から知っていた人に、ようやく出会えたような――そんな感覚。
「じゃあ……ここ、聞いてもいいですか」
レンは気持ちを切り替えるようにして、ノートの一行を指差した。
授業中、理解できなかった記述のひとつだった。
スメラギは静かに頷き、ふっと身を寄せてレンのノートを覗き込む。
その瞬間、彼の髪がわずかに揺れ、レンの鼻腔をくすぐるように、爽やかな香りが漂った。
(……薬草? それとも、先生の匂い……?)
香りとともに、ぐっと距離が縮まる。肩が触れそうなほど、顔も近い。
レンの鼓動が跳ね上がった。けれどスメラギは、それにまったく気づいていない。
「ここか。……この符号は“逆理構文”と呼ばれるものだ。単語ではなく、発動者の因果によって意味が変容する。ゆえに固定された文法は存在しない」
優しく、丁寧に。けれど、その本質は鋭く、まっすぐに核心を突くようだった。
レンは横顔を見上げた。
涼しげな目元、長い睫毛。整えられた黒髪、白くなめらかな肌。薄く引かれた唇。
その唇から紡がれる言葉は、低く甘さを醸し出している。
どこか現実離れしているのに、今この場所に、確かに存在している。
「……はあ……」
思わず漏れたため息のような音に、スメラギは気づくこともなく、静かに言葉を続けていた。
(こんなの、無理だよ。落ち着けるわけない)
そう思いながらも、レンはただ、静かにその時間に身を委ねていた。
窓の外では、夕陽が赤く雲を染めている。
学苑の一日は、まだ終わらない。
けれど彼にとって、このひとときは――何よりも濃く、特別なものとして、そっと胸に刻まれていくのだった。
薬草の見分け方に魔力の計測実習、知らないことばかりで頭はついていかなかったが――それでも、レンはどこか高揚していた。
「疲れた……でも、なんか、楽しかったかも」
夕刻。レンは人気のない自習室で、ひとり机に向かっていた。
窓の外では空が朱に染まり始めている。
壁際の席でノートを広げ、今日一日を振り返るように、震えるような字をなぞっていく。
「……何書いてんだ、俺」
ノートには、浮かび上がるチョークの軌跡を追って書き殴った痕跡が残っていた。
魔法構文、古代言語、未知の専門用語――初耳の言葉ばかりで、意味を考える余裕もなく、ただ手を動かすことで精一杯だった。
それでも、不思議と後悔はなかった。
胸の奥には、ささやかな達成感のようなものが灯っていた。
椅子にもたれて、そっと息をついたそのとき――
「……復習とは、偉いな」
不意に、背後から静かな声が落ちてきた。
レンは驚いて振り向く。そこに立っていたのは、淡い光を纏ったような佇まいの、スメラギ・ミナトだった。
まったく足音がなかった。気配すらなかったはずなのに、彼はいつの間にか、まるで自然の一部のようにそこにいた。
「せ、先生……びっくりしますって……!」
「そうか?」
とぼけたように言いながら、スメラギはレンの隣の席へ歩み寄る。
黒の詰襟に身を包み、クロークの裾がかすかに揺れていた。
「……授業、難しすぎて。歴史の授業よりも、ずっと」
ぽつりと漏れた言葉に、スメラギは一瞬だけ目を細めた。
静かに、けれど確かに微笑んでいた。
「ふふ。イシミネは歴史が得意だものな。この時期はまだ基礎編とはいえ……魔導理論は、少し毛色が違う」
彼は腕を組み、どこか遠い記憶をたぐるように言葉を紡いだ。
「歴史は、過去の記録を辿る学問だ。だが魔法の歴史は違う。そこでは、記録ではなく魔力そのものが“時”を記憶している。……お前が見ているそれは、“生きている記録”と向き合う作業でもある」
「生きてる……?」
レンは思わず呟いた。
「魔力には、因果が宿る。古文書を読むのではなく、魔素に問い、文脈を解く。そうして“魔法”は、ようやく理論になる」
その声は、講義のときよりもずっとやわらかだった。
レンの理解に合わせて、言葉を選んでくれているのが伝わる。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
(この人、ちゃんと見てくれてる……)
不意に、そんな実感が胸を満たす。
けれどそれは、嬉しさと同時に、ほんの少し切なさも含んでいた。
まるで、最初から知っていた人に、ようやく出会えたような――そんな感覚。
「じゃあ……ここ、聞いてもいいですか」
レンは気持ちを切り替えるようにして、ノートの一行を指差した。
授業中、理解できなかった記述のひとつだった。
スメラギは静かに頷き、ふっと身を寄せてレンのノートを覗き込む。
その瞬間、彼の髪がわずかに揺れ、レンの鼻腔をくすぐるように、爽やかな香りが漂った。
(……薬草? それとも、先生の匂い……?)
香りとともに、ぐっと距離が縮まる。肩が触れそうなほど、顔も近い。
レンの鼓動が跳ね上がった。けれどスメラギは、それにまったく気づいていない。
「ここか。……この符号は“逆理構文”と呼ばれるものだ。単語ではなく、発動者の因果によって意味が変容する。ゆえに固定された文法は存在しない」
優しく、丁寧に。けれど、その本質は鋭く、まっすぐに核心を突くようだった。
レンは横顔を見上げた。
涼しげな目元、長い睫毛。整えられた黒髪、白くなめらかな肌。薄く引かれた唇。
その唇から紡がれる言葉は、低く甘さを醸し出している。
どこか現実離れしているのに、今この場所に、確かに存在している。
「……はあ……」
思わず漏れたため息のような音に、スメラギは気づくこともなく、静かに言葉を続けていた。
(こんなの、無理だよ。落ち着けるわけない)
そう思いながらも、レンはただ、静かにその時間に身を委ねていた。
窓の外では、夕陽が赤く雲を染めている。
学苑の一日は、まだ終わらない。
けれど彼にとって、このひとときは――何よりも濃く、特別なものとして、そっと胸に刻まれていくのだった。
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