星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

文字の大きさ
25 / 109
第三章 夜帳のきざし

21 あの人の香り

しおりを挟む
 午後の講義と演習は、午前よりもやや実践寄りだった。
 薬草の見分け方に魔力の計測実習、知らないことばかりで頭はついていかなかったが――それでも、レンはどこか高揚していた。

「疲れた……でも、なんか、楽しかったかも」

 夕刻。レンは人気のない自習室で、ひとり机に向かっていた。
 窓の外では空が朱に染まり始めている。
 壁際の席でノートを広げ、今日一日を振り返るように、震えるような字をなぞっていく。

「……何書いてんだ、俺」

 ノートには、浮かび上がるチョークの軌跡を追って書き殴った痕跡が残っていた。
 魔法構文、古代言語、未知の専門用語――初耳の言葉ばかりで、意味を考える余裕もなく、ただ手を動かすことで精一杯だった。

 それでも、不思議と後悔はなかった。
 胸の奥には、ささやかな達成感のようなものが灯っていた。

 椅子にもたれて、そっと息をついたそのとき――

「……復習とは、偉いな」

 不意に、背後から静かな声が落ちてきた。
 レンは驚いて振り向く。そこに立っていたのは、淡い光を纏ったような佇まいの、スメラギ・ミナトだった。

 まったく足音がなかった。気配すらなかったはずなのに、彼はいつの間にか、まるで自然の一部のようにそこにいた。

「せ、先生……びっくりしますって……!」

「そうか?」

 とぼけたように言いながら、スメラギはレンの隣の席へ歩み寄る。
 黒の詰襟に身を包み、クロークの裾がかすかに揺れていた。

「……授業、難しすぎて。歴史の授業よりも、ずっと」

 ぽつりと漏れた言葉に、スメラギは一瞬だけ目を細めた。
 静かに、けれど確かに微笑んでいた。

「ふふ。イシミネは歴史が得意だものな。この時期はまだ基礎編とはいえ……魔導理論は、少し毛色が違う」

 彼は腕を組み、どこか遠い記憶をたぐるように言葉を紡いだ。

「歴史は、過去の記録を辿る学問だ。だが魔法の歴史は違う。そこでは、記録ではなく魔力そのものが“時”を記憶している。……お前が見ているそれは、“生きている記録”と向き合う作業でもある」

「生きてる……?」

 レンは思わず呟いた。

「魔力には、因果が宿る。古文書を読むのではなく、魔素に問い、文脈を解く。そうして“魔法”は、ようやく理論になる」

 その声は、講義のときよりもずっとやわらかだった。
 レンの理解に合わせて、言葉を選んでくれているのが伝わる。

 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

(この人、ちゃんと見てくれてる……)

 不意に、そんな実感が胸を満たす。
 けれどそれは、嬉しさと同時に、ほんの少し切なさも含んでいた。
 まるで、最初から知っていた人に、ようやく出会えたような――そんな感覚。

「じゃあ……ここ、聞いてもいいですか」

 レンは気持ちを切り替えるようにして、ノートの一行を指差した。
 授業中、理解できなかった記述のひとつだった。

 スメラギは静かに頷き、ふっと身を寄せてレンのノートを覗き込む。
 その瞬間、彼の髪がわずかに揺れ、レンの鼻腔をくすぐるように、爽やかな香りが漂った。

(……薬草? それとも、先生の匂い……?)

 香りとともに、ぐっと距離が縮まる。肩が触れそうなほど、顔も近い。
 レンの鼓動が跳ね上がった。けれどスメラギは、それにまったく気づいていない。

「ここか。……この符号は“逆理構文”と呼ばれるものだ。単語ではなく、発動者の因果によって意味が変容する。ゆえに固定された文法は存在しない」

 優しく、丁寧に。けれど、その本質は鋭く、まっすぐに核心を突くようだった。

 レンは横顔を見上げた。
 涼しげな目元、長い睫毛。整えられた黒髪、白くなめらかな肌。薄く引かれた唇。
 その唇から紡がれる言葉は、低く甘さを醸し出している。
 どこか現実離れしているのに、今この場所に、確かに存在している。

「……はあ……」

 思わず漏れたため息のような音に、スメラギは気づくこともなく、静かに言葉を続けていた。

(こんなの、無理だよ。落ち着けるわけない)

 そう思いながらも、レンはただ、静かにその時間に身を委ねていた。

 窓の外では、夕陽が赤く雲を染めている。

 学苑の一日は、まだ終わらない。
 けれど彼にとって、このひとときは――何よりも濃く、特別なものとして、そっと胸に刻まれていくのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま

中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。 両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。 故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!! 様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材! 僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX! ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。 うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか! 僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。 そうしてニ年後。 領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。 え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。 関係ここからやり直し?できる? Rには*ついてます。 後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。 ムーンライトにも同時投稿中

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!

野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ 平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、 どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。 数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。 きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、 生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。 「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」 それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。

ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎ 兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。 冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない! 仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。 宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。 一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──? 「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」 コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

その捕虜は牢屋から離れたくない

さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。 というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。

異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!

めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈ 社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。 もらった能力は“全言語理解”と“回復力”! ……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈ キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん! 出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。 最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈ 攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉ -------------------- ※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!

処理中です...