星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

文字の大きさ
24 / 109
第三章 夜帳のきざし

20 ここは世界の裏側。

しおりを挟む

 学術機関の校舎は、どこまでも広く、どこまでも迷路のようだった。

 幾何学的な意匠が連なる廊下、角度によって色が変わる透魔ガラスの窓、浮遊する標識と、階層間を行き来する螺旋の移動床──慣れない者にとっては、空間そのものが試練のようだ。

 そんな構造に翻弄されながら、レンはようやく目的の講義室に辿り着いた。

 制服のネクタイはやや曲がり、前髪には風で乱れた跡がある。全速力で駆けてきたせいで、息もほんのり上がっていた。

 だが、胸の内にあるのはただひとつ──
 この授業だけは、どうしても出たかった。

「すみません……遅れました。講義参加の許可をいただいている、高等課程のイシミネ・レンです」

 溌剌とした声が、静まり返った講義室に響く。

 視線が一斉に入口に集中する。重厚な机列、深い色の壁、魔術専用黒板の前──
 すべての視線を受けるには、あまりにも場違いな登場だった。

 レンの背中に、緊張がじわりと広がる。

「……席は空いている。入りなさい」

 淡々とした、それでいて微かに柔らかさを含んだ声が教室の前方から届いた。

 声の主──スメラギは、教壇の前に静かに佇んでいた。

 深い海を思わせるような黒に近い濃紺の詰襟ジャケットと、漆黒のクロークコートが、まるでこの空間そのものの一部のように馴染んでいる。

 背筋は真っ直ぐで、指先の仕草ひとつすら乱れがない。
 声の調子は変わらず平坦だが、不思議と冷たさを感じさせなかった。

 それはほんの一瞬、レンにだけ向けられた、小さな温度だった。

「……失礼します」

 小さく会釈し、空いていた席に滑り込む。
 レンは教科書を取り出し、周囲のページを盗み見るようにして正しい箇所を探した。

 板書は既に始まっていた。複雑な魔術理論の数式と詠唱の構文図。
 急いでペンを走らせるが、慣れない用語に苦戦し、文字も歪む。

(やば……これ、ちゃんと理解できるのか?)

 けれど──視線を上げるたび、そこに立つスメラギの姿が、レンの不安を払いのけた。

 空気を裂かぬように動く指先。正確な手つきで描かれる符号と文字列。
 低く静かな声が、教室全体を支配するように流れていく。

 講義というより、それはもはや「儀式」に近かった。

 ……必死でノートを取り続けるうちに、時間が流れていた。

「──では、ここまで。課題の提出は、次回講義までに。端末からの術式納録でも可だが、形式は指定通りに」

 淡々と告げられた言葉とともに、スメラギは教壇を離れる。

 彼は左手のカフスボタンを、丁寧に、静かに整えた。
 魔素に反応してわずかに煌めく銀の細工。その仕草すらも、教室の空気を変えていく。

 そして、黒衣の裾を払うように背を向け──
 まるで音を立てずに、講義室を後にする。

 レンは、その背中を、無意識に目で追っていた。

 言葉もなく、ただまっすぐに。スメラギの肩の線が、忘れられないくらいに。

 何かを理解したわけではない。けれど──この講義を、彼の教えを、どうしても追いかけたいと思った。

 レンの胸に、はっきりとひとつの輪郭が宿っていた。

(……やっぱり先生、全然違うや。てか、ジュツシキノーロクって何!?)

 ⸻

 講義が終わると、教室の空気がふっと緩んだ。

 張りつめていた静寂が解け、椅子を引く音、筆記用具をしまう音、囁くような声がぽつぽつと立ち上がる。つい先ほどまで、魔術陣の構造式すら息を呑んで見守っていた空間が、急に現実に引き戻されたようだった。

 だがその中で──まだ誰もが、完全にはあの講義の余韻から抜け出せていなかった。

 スメラギが講義室を去った瞬間、彼のまとう魔素の気配ごと空間の重力が変わった気がした。音もなく閉じた扉。その背を見送ったあとの静けさには、どこか取り残されたような寂しさがあった。

 レンもまた、そんな空気の中で、ようやく張っていた背筋をゆるめた。

 机に突っ伏し、肩で息を吐く。

 全身がくたくただ。緊張と興奮が、遅れてどっと押し寄せてくる。

「おつかれさま。緊張したでしょ?」

 耳に届いた柔らかな声に、レンは顔を上げた。

 そこには、カナメが笑顔で立っていた。制服のクロークを肩から羽織り、すみれ色のメッシュが光を受けて煌めいた。

 その姿に、レンは一瞬目を瞬かせてから、ほっとしたように笑みを返した。

「ヒウラぁあ……いてくれてよかった。もう、朝からずっとテンパっててさ……」

「だろうね。スメラギ先生の授業って、初見だと“洗礼”みたいなもんだから」

「それもそうなんだけど……来る途中で迷ってさぁ……絶対、道変わってたって!!」

「道が変わってた? ああ、多分イタズラ妖精のせいだよ」

「いたずらようせい……?」

 レンが目を丸くすると、カナメはくすっと笑う。

「見慣れない魔素があると、好奇心で揶揄ってくるの。困ってる人間の反応が珍しいみたいで、ね」

「えっ、そんなの、いるの?」

「いるよ。よくスメラギ先生が窘めてる。先生、妖精語も分かるっぽいし……あの人、そういうとこ本当に人間離れしてるから」

「ふぅん……やっぱり現実味ないや」

 ぼそっと呟いたレンの言葉に、カナメは「ふふ」と笑って隣の机に手を置いた。

「まあ、すぐ慣れるよ。たぶんね」

 微笑み合う二人の間に、ひとときの穏やかな空気が流れた——が、それを遮るように、数人の男子生徒が近づいてくる。

 授業中にも同じ空間にいた、顔も名前も知らない生徒たち。レンやカナメと同年代に見える。制服の肩章を見るに、彼らも特待生らしい。

 その表情に浮かんでいたのは、探るような冷笑と、ほんの少しの悪意だった。

「へぇ。あんたが噂の編入生? 遅刻しても怒られないんだ。初日から“氷の教授”に特別扱いされて、いい身分だね」

 レンは眉をひそめたが、言い返さなかった。目も合わせたくなかった。

「でもさぁ、あれだけ歓迎されてるってことは、“特別”な理由でもあるわけ? ……顔はそこそこだけど、それ以外は、なんか普通だし?」

「てか、そのペンなに? まさか手書き? 自動筆記、知らないの?」

 小馬鹿にした声と笑いが続く。レンは唇を引き結び、黙ったまま耐えていた。

 けれど、やっぱり言葉が出てこない。心のどこかで、何かがきゅうっと縮こまる。

「氷の教授も、見る目ないよね。こんな平凡な奴連れてきて。……もしかして、そーいう趣味?」

 その瞬間。

「——やめて」

 鋭く、けれど芯の通った声が空気を裂いた。

 カナメだった。

 一歩踏み出し、先頭の男子生徒と向き合う。瞳の奥に宿ったのは、揺るがない怒りの光だった。

「他人を値踏みして、意味もなく見下して、それで気分がいいの? すごく、ちっぽけだよ」

 沈黙が落ちる。彼らはわずかに言葉を失いかけるが、カナメは続けた。

「私も、色んなふうに見られてきた。“誰かの子孫”とか、“誰かの弟子”とか……名前より先に肩書きが歩くと、勝手に比べられるし、好き勝手言われる。でも、それって本当に、しんどいんだよ」

 静かな声が、教室の空気をもう一度張り詰めさせた。男子生徒たちは気まずそうに視線を逸らし、踵を返して去っていった。

 彼らの背中が完全に見えなくなったところで、カナメはようやく肩の力を抜く。

「……ありがと」

 レンがぽつりと呟いた。

「いいの。ムカついたから言っただけだし。……でもさ、レンも、少しずつ言い返せるようになるといいよ。自分のために」

「……うん」

 レンは頷いた。

 まだ不器用で、何もうまく返せなかったけれど——彼女の隣に立つだけで、自分は自分のままでいてもいいのだと、思えた。

 まだ何も分からない。けれど、ここでなら、何かを見つけられる気がした。

 この場所で、新しい物語が、静かに動き出していた。

 ⸻

 午前中の講義が終わり、重く張り詰めていた気配も少し和らいでいる。昼休みの鐘が鳴ると、レンはカナメと連れ立って、大食堂へと足を運んだ。

 天井の高いホールには、光る浮遊灯がふわふわと浮かび、陽光の代わりにやわらかな白光を落としている。床は滑らかな石造りで、空間を満たすのは料理の匂いと、談笑と、そして不思議な気配。ニャルやキノッペ達が、相変わらず忙しなく飛び回っては盆を運び、魔法の道具で皿を並べていた。

「今日のおすすめはこれ。イシュ・アルマ名物、浮遊サンド。具材がこぼれない魔術式付きなんだよ」

 カナメが差し出したのは、ふわりと宙に浮かぶサンドイッチだった。パンの表面はこんがりと焼かれ、香ばしい湯気が立ちのぼる。浮遊しているのに、ひと口かじるとその存在感はしっかりとしたものだった。肉のジューシーな旨みと、香草の鮮烈な香りが、舌の上でふわりと混ざり合う。

「うま……!! 高校の焼きそばパンくらい、うまっ!!」

 あまりの感動に、思わず大きな声が出た。

「あの焼きそばパン、いつも買えないんだよね……食べたことあるの、いいなぁ」

「それがね、裏技があんだよ。今度教えてあげる」

「え! ほんと! ありがと! ……ってか、食べながら喋んないでよ」

 くすくす笑いながらたしなめるカナメに、レンは慌ててサンドイッチを飲み込んだ。目の前の木製トレーには、透き通ったガラスのグラスが置かれている。中にはきらきらと光を散らす液体。

「これ、何のジュース?」

「〈星霧泡(せいむほう)〉っていう炭酸飲料。炭酸の粒が、流れ星みたいに弾けるの。舌の上でね。初めて飲むとちょっとびっくりするかも」

 言われてレンがひと口飲むと、細やかな泡が、舌先でまるで星屑がはじけるように弾けた。さわやかで、どこかライチのような香りと、すっきりとした酸味。

「わ、ほんとに星みたい……!すごっ……」

 目を丸くして感嘆するレンに、カナメが微笑を浮かべる。

「ふふ、気に入ってもらえてよかった」

 いつしか、レンの肩の力はだいぶ抜けていた。重ねられる言葉のひとつひとつが、あたたかくて、やわらかい。知らない土地、知らない学び舎、知らないルール。そんな“初めて”だらけの中でも、誰かと分かち合える時間があるだけで、こんなにも安心できるのだと知る。

「あ、そうだ。なぁ、ジュツシキノーロクって、なに?」

「術式納録、ね。要するにオンライン提出のことだよ」

「あ、なるほど」

「術式端末っていう魔素を利用したガジェットがあって、それを使ってやり取りするの。スマホとか、パソコンとか、それとおんなじ」

「なるほどなぁ……同じ国なのに、こうも言葉が違うと困っちゃうな」

「ふふ、同じ世界でも、ここは“裏側”。だからね」

 その言葉に、レンはふと手を止める。“裏側”という響きに、ほんの少しだけ、胸の奥がざわめいた。けれど、カナメの声がすぐにその不安を包み込む。

「……でも、大丈夫。ゆっくりでいいよ。私も、最初は何も分かんなかったし。だんだん慣れていくものだから」

「うん。……ありがとな」

 小さく呟いたその言葉に、カナメは何も言わずに、笑みだけを返した。

 こうして、イシュ・アルマでの最初の昼休みは、穏やかな光とともに静かに流れていった。空の色が、ほんのりと茜に染まりはじめていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

嫁がされたと思ったら放置されたので、好きに暮らします。だから今さら構わないでください、辺境伯さま

中洲める
BL
錬金術をこよなく愛する転生者アッシュ・クロイツ。 両親の死をきっかけにクロイツ男爵領を乗っ取った叔父は、正統な後継者の僕を邪魔に思い取引相手の辺境伯へ婚約者として押し付けた。 故郷を追い出された僕が向かった先辺境グラフィカ領は、なんと薬草の楽園!!! 様々な種類の薬草が植えられた広い畑に、たくさんの未知の素材! 僕の錬金術師スイッチが入りテンションMAX! ワクワクした気持ちで屋敷に向かうと初対面を果たした辺境伯婚約者オリバーは、「忙しいから君に構ってる暇はない。好きにしろ」と、顔も上げずに冷たく言い放つ。 うむ、好きにしていいなら好きにさせて貰おうじゃないか! 僕は屋敷を飛び出し、素材豊富なこの土地で大好きな錬金術の腕を思い切り奮う。 そうしてニ年後。 領地でいい薬を作ると評判の錬金術師となった僕と辺境伯オリバーは再び対面する。 え? 辺境伯様、僕に惚れたの? 今更でしょ。 関係ここからやり直し?できる? Rには*ついてます。 後半に色々あるので注意事項がある時は前書きに入れておきます。 ムーンライトにも同時投稿中

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!

野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ 平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、 どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。 数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。 きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、 生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。 「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」 それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――

結婚初夜に相手が舌打ちして寝室出て行こうとした

BL
十数年間続いた王国と帝国の戦争の終結と和平の形として、元敵国の皇帝と結婚することになったカイル。 実家にはもう帰ってくるなと言われるし、結婚相手は心底嫌そうに舌打ちしてくるし、マジ最悪ってところから始まる話。 オメガバースでオメガの立場が低い世界 こんなあらすじとタイトルですが、主人公が可哀そうって感じは全然ないです 強くたくましくメンタルがオリハルコンな主人公です 主人公は耐える我慢する許す許容するということがあんまり出来ない人間です 倫理観もちょっと薄いです というか、他人の事を自分と同じ人間だと思ってない部分があります ※この主人公は受けです

望まれなかった代役婚ですが、投資で村を救っていたら旦那様に溺愛されました。

ivy
BL
⭐︎毎朝更新⭐︎ 兄の身代わりで望まれぬ結婚を押しつけられたライネル。 冷たく「帰れ」と言われても、帰る家なんてない! 仕方なく寂れた村をもらい受け、前世の記憶を活かして“投資”で村おこしに挑戦することに。 宝石をぽりぽり食べるマスコット少年や、クセの強い職人たちに囲まれて、にぎやかな日々が始まる。 一方、彼を追い出したはずの旦那様は、いつの間にかライネルのがんばりに心を奪われていき──? 「村おこしと恋愛、どっちも想定外!?」 コミカルだけど甘い、投資×BLラブコメディ。

愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない

了承
BL
卒業パーティー。 皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。 青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。 皇子が目を向けた、その瞬間——。 「この瞬間だと思った。」 すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。   IFストーリーあり 誤字あれば報告お願いします!

その捕虜は牢屋から離れたくない

さいはて旅行社
BL
敵国の牢獄看守や軍人たちが大好きなのは、鍛え上げられた筋肉だった。 というわけで、剣や体術の訓練なんか大嫌いな魔導士で細身の主人公は、同僚の脳筋騎士たちとは違い、敵国の捕虜となっても平穏無事な牢屋生活を満喫するのであった。

異世界転移した元コンビニ店長は、獣人騎士様に嫁入りする夢は……見ない!

めがねあざらし
BL
過労死→異世界転移→体液ヒーラー⁈ 社畜すぎて魂が擦り減っていたコンビニ店長・蓮は、女神の凡ミスで異世界送りに。 もらった能力は“全言語理解”と“回復力”! ……ただし、回復スキルの発動条件は「体液経由」です⁈ キスで癒す? 舐めて治す? そんなの変態じゃん! 出会ったのは、狼耳の超絶無骨な騎士・ロナルドと、豹耳騎士・ルース。 最初は“保護対象”だったのに、気づけば戦場の最前線⁈ 攻めも受けも騒がしい異世界で、蓮の安眠と尊厳は守れるのか⁉ -------------------- ※現在同時掲載中の「捨てられΩ、癒しの異能で獣人将軍に囲われてます!?」の元ネタです。出しちゃった!

処理中です...