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第三章 夜帳のきざし
20 ここは世界の裏側。
しおりを挟む学術機関の校舎は、どこまでも広く、どこまでも迷路のようだった。
幾何学的な意匠が連なる廊下、角度によって色が変わる透魔ガラスの窓、浮遊する標識と、階層間を行き来する螺旋の移動床──慣れない者にとっては、空間そのものが試練のようだ。
そんな構造に翻弄されながら、レンはようやく目的の講義室に辿り着いた。
制服のネクタイはやや曲がり、前髪には風で乱れた跡がある。全速力で駆けてきたせいで、息もほんのり上がっていた。
だが、胸の内にあるのはただひとつ──
この授業だけは、どうしても出たかった。
「すみません……遅れました。講義参加の許可をいただいている、高等課程のイシミネ・レンです」
溌剌とした声が、静まり返った講義室に響く。
視線が一斉に入口に集中する。重厚な机列、深い色の壁、魔術専用黒板の前──
すべての視線を受けるには、あまりにも場違いな登場だった。
レンの背中に、緊張がじわりと広がる。
「……席は空いている。入りなさい」
淡々とした、それでいて微かに柔らかさを含んだ声が教室の前方から届いた。
声の主──スメラギは、教壇の前に静かに佇んでいた。
深い海を思わせるような黒に近い濃紺の詰襟ジャケットと、漆黒のクロークコートが、まるでこの空間そのものの一部のように馴染んでいる。
背筋は真っ直ぐで、指先の仕草ひとつすら乱れがない。
声の調子は変わらず平坦だが、不思議と冷たさを感じさせなかった。
それはほんの一瞬、レンにだけ向けられた、小さな温度だった。
「……失礼します」
小さく会釈し、空いていた席に滑り込む。
レンは教科書を取り出し、周囲のページを盗み見るようにして正しい箇所を探した。
板書は既に始まっていた。複雑な魔術理論の数式と詠唱の構文図。
急いでペンを走らせるが、慣れない用語に苦戦し、文字も歪む。
(やば……これ、ちゃんと理解できるのか?)
けれど──視線を上げるたび、そこに立つスメラギの姿が、レンの不安を払いのけた。
空気を裂かぬように動く指先。正確な手つきで描かれる符号と文字列。
低く静かな声が、教室全体を支配するように流れていく。
講義というより、それはもはや「儀式」に近かった。
……必死でノートを取り続けるうちに、時間が流れていた。
「──では、ここまで。課題の提出は、次回講義までに。端末からの術式納録でも可だが、形式は指定通りに」
淡々と告げられた言葉とともに、スメラギは教壇を離れる。
彼は左手のカフスボタンを、丁寧に、静かに整えた。
魔素に反応してわずかに煌めく銀の細工。その仕草すらも、教室の空気を変えていく。
そして、黒衣の裾を払うように背を向け──
まるで音を立てずに、講義室を後にする。
レンは、その背中を、無意識に目で追っていた。
言葉もなく、ただまっすぐに。スメラギの肩の線が、忘れられないくらいに。
何かを理解したわけではない。けれど──この講義を、彼の教えを、どうしても追いかけたいと思った。
レンの胸に、はっきりとひとつの輪郭が宿っていた。
(……やっぱり先生、全然違うや。てか、ジュツシキノーロクって何!?)
⸻
講義が終わると、教室の空気がふっと緩んだ。
張りつめていた静寂が解け、椅子を引く音、筆記用具をしまう音、囁くような声がぽつぽつと立ち上がる。つい先ほどまで、魔術陣の構造式すら息を呑んで見守っていた空間が、急に現実に引き戻されたようだった。
だがその中で──まだ誰もが、完全にはあの講義の余韻から抜け出せていなかった。
スメラギが講義室を去った瞬間、彼のまとう魔素の気配ごと空間の重力が変わった気がした。音もなく閉じた扉。その背を見送ったあとの静けさには、どこか取り残されたような寂しさがあった。
レンもまた、そんな空気の中で、ようやく張っていた背筋をゆるめた。
机に突っ伏し、肩で息を吐く。
全身がくたくただ。緊張と興奮が、遅れてどっと押し寄せてくる。
「おつかれさま。緊張したでしょ?」
耳に届いた柔らかな声に、レンは顔を上げた。
そこには、カナメが笑顔で立っていた。制服のクロークを肩から羽織り、すみれ色のメッシュが光を受けて煌めいた。
その姿に、レンは一瞬目を瞬かせてから、ほっとしたように笑みを返した。
「ヒウラぁあ……いてくれてよかった。もう、朝からずっとテンパっててさ……」
「だろうね。スメラギ先生の授業って、初見だと“洗礼”みたいなもんだから」
「それもそうなんだけど……来る途中で迷ってさぁ……絶対、道変わってたって!!」
「道が変わってた? ああ、多分イタズラ妖精のせいだよ」
「いたずらようせい……?」
レンが目を丸くすると、カナメはくすっと笑う。
「見慣れない魔素があると、好奇心で揶揄ってくるの。困ってる人間の反応が珍しいみたいで、ね」
「えっ、そんなの、いるの?」
「いるよ。よくスメラギ先生が窘めてる。先生、妖精語も分かるっぽいし……あの人、そういうとこ本当に人間離れしてるから」
「ふぅん……やっぱり現実味ないや」
ぼそっと呟いたレンの言葉に、カナメは「ふふ」と笑って隣の机に手を置いた。
「まあ、すぐ慣れるよ。たぶんね」
微笑み合う二人の間に、ひとときの穏やかな空気が流れた——が、それを遮るように、数人の男子生徒が近づいてくる。
授業中にも同じ空間にいた、顔も名前も知らない生徒たち。レンやカナメと同年代に見える。制服の肩章を見るに、彼らも特待生らしい。
その表情に浮かんでいたのは、探るような冷笑と、ほんの少しの悪意だった。
「へぇ。あんたが噂の編入生? 遅刻しても怒られないんだ。初日から“氷の教授”に特別扱いされて、いい身分だね」
レンは眉をひそめたが、言い返さなかった。目も合わせたくなかった。
「でもさぁ、あれだけ歓迎されてるってことは、“特別”な理由でもあるわけ? ……顔はそこそこだけど、それ以外は、なんか普通だし?」
「てか、そのペンなに? まさか手書き? 自動筆記、知らないの?」
小馬鹿にした声と笑いが続く。レンは唇を引き結び、黙ったまま耐えていた。
けれど、やっぱり言葉が出てこない。心のどこかで、何かがきゅうっと縮こまる。
「氷の教授も、見る目ないよね。こんな平凡な奴連れてきて。……もしかして、そーいう趣味?」
その瞬間。
「——やめて」
鋭く、けれど芯の通った声が空気を裂いた。
カナメだった。
一歩踏み出し、先頭の男子生徒と向き合う。瞳の奥に宿ったのは、揺るがない怒りの光だった。
「他人を値踏みして、意味もなく見下して、それで気分がいいの? すごく、ちっぽけだよ」
沈黙が落ちる。彼らはわずかに言葉を失いかけるが、カナメは続けた。
「私も、色んなふうに見られてきた。“誰かの子孫”とか、“誰かの弟子”とか……名前より先に肩書きが歩くと、勝手に比べられるし、好き勝手言われる。でも、それって本当に、しんどいんだよ」
静かな声が、教室の空気をもう一度張り詰めさせた。男子生徒たちは気まずそうに視線を逸らし、踵を返して去っていった。
彼らの背中が完全に見えなくなったところで、カナメはようやく肩の力を抜く。
「……ありがと」
レンがぽつりと呟いた。
「いいの。ムカついたから言っただけだし。……でもさ、レンも、少しずつ言い返せるようになるといいよ。自分のために」
「……うん」
レンは頷いた。
まだ不器用で、何もうまく返せなかったけれど——彼女の隣に立つだけで、自分は自分のままでいてもいいのだと、思えた。
まだ何も分からない。けれど、ここでなら、何かを見つけられる気がした。
この場所で、新しい物語が、静かに動き出していた。
⸻
午前中の講義が終わり、重く張り詰めていた気配も少し和らいでいる。昼休みの鐘が鳴ると、レンはカナメと連れ立って、大食堂へと足を運んだ。
天井の高いホールには、光る浮遊灯がふわふわと浮かび、陽光の代わりにやわらかな白光を落としている。床は滑らかな石造りで、空間を満たすのは料理の匂いと、談笑と、そして不思議な気配。ニャルやキノッペ達が、相変わらず忙しなく飛び回っては盆を運び、魔法の道具で皿を並べていた。
「今日のおすすめはこれ。イシュ・アルマ名物、浮遊サンド。具材がこぼれない魔術式付きなんだよ」
カナメが差し出したのは、ふわりと宙に浮かぶサンドイッチだった。パンの表面はこんがりと焼かれ、香ばしい湯気が立ちのぼる。浮遊しているのに、ひと口かじるとその存在感はしっかりとしたものだった。肉のジューシーな旨みと、香草の鮮烈な香りが、舌の上でふわりと混ざり合う。
「うま……!! 高校の焼きそばパンくらい、うまっ!!」
あまりの感動に、思わず大きな声が出た。
「あの焼きそばパン、いつも買えないんだよね……食べたことあるの、いいなぁ」
「それがね、裏技があんだよ。今度教えてあげる」
「え! ほんと! ありがと! ……ってか、食べながら喋んないでよ」
くすくす笑いながらたしなめるカナメに、レンは慌ててサンドイッチを飲み込んだ。目の前の木製トレーには、透き通ったガラスのグラスが置かれている。中にはきらきらと光を散らす液体。
「これ、何のジュース?」
「〈星霧泡(せいむほう)〉っていう炭酸飲料。炭酸の粒が、流れ星みたいに弾けるの。舌の上でね。初めて飲むとちょっとびっくりするかも」
言われてレンがひと口飲むと、細やかな泡が、舌先でまるで星屑がはじけるように弾けた。さわやかで、どこかライチのような香りと、すっきりとした酸味。
「わ、ほんとに星みたい……!すごっ……」
目を丸くして感嘆するレンに、カナメが微笑を浮かべる。
「ふふ、気に入ってもらえてよかった」
いつしか、レンの肩の力はだいぶ抜けていた。重ねられる言葉のひとつひとつが、あたたかくて、やわらかい。知らない土地、知らない学び舎、知らないルール。そんな“初めて”だらけの中でも、誰かと分かち合える時間があるだけで、こんなにも安心できるのだと知る。
「あ、そうだ。なぁ、ジュツシキノーロクって、なに?」
「術式納録、ね。要するにオンライン提出のことだよ」
「あ、なるほど」
「術式端末っていう魔素を利用したガジェットがあって、それを使ってやり取りするの。スマホとか、パソコンとか、それとおんなじ」
「なるほどなぁ……同じ国なのに、こうも言葉が違うと困っちゃうな」
「ふふ、同じ世界でも、ここは“裏側”。だからね」
その言葉に、レンはふと手を止める。“裏側”という響きに、ほんの少しだけ、胸の奥がざわめいた。けれど、カナメの声がすぐにその不安を包み込む。
「……でも、大丈夫。ゆっくりでいいよ。私も、最初は何も分かんなかったし。だんだん慣れていくものだから」
「うん。……ありがとな」
小さく呟いたその言葉に、カナメは何も言わずに、笑みだけを返した。
こうして、イシュ・アルマでの最初の昼休みは、穏やかな光とともに静かに流れていった。空の色が、ほんのりと茜に染まりはじめていた。
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