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第二章 火を見るよりあきらか
閑話 春のまほうと、黒いローブ
しおりを挟むイシュ・アルマ学術機関――その広大な敷地の片隅に、白い外壁と低い木柵に囲まれた、小さな校舎がある。
そこは幼稚舎。まだ教科書ではなく、魔導絵本や光るキューブで魔素を学ぶ、小さなマナたちの学び舎だ。
校庭では、風の魔素を小さく呼んでしゃぼん玉を飛ばす子、光の粒で輪を描く子、土の魔素でお山をつくる子が、それぞれ夢中になって遊んでいる。世界はまだまるくてやさしく、魔法はキラキラと、ただうれしいものだった。
「はい、みなさん、お部屋に戻りましょうね~! 今日はね、とっってもすごい人が来てくれています!」
担任の女性教諭が手を叩くと、子供たちは一斉に目を輝かせた。
「今日はね、“ほんもの”の魔導教授が、読み聞かせに来てくれました。スメラギ教授です。みんな、お名前は聞いたことあるかな?」
「あるー! こおりのせんせーでしょ?」
「つよくて、まほうがきれいなんだって!」
「こわいひとって、パパがいってた!」
「……ちょっと静かにしましょうね」
教諭は笑いながらも、教室の後方を向いた。
黒いクロークコートを静かにまとい、静かに立っている人物。
スメラギだった。
いつもの講義のような威圧はなかったが、子供たちは直感的に、彼が“ただものではない”ことを理解した。
でも──彼の目元の伏し方、戸惑いがちに教室の空気を測る仕草、柔らかく揺れる黒髪を見て。
「……あれ、こわくない」「なんか……かっこいい……」
そんな呟きが、ぽつぽつと広がっていく。
憧れと、ほんのりの恋心が芽吹くように、幼い目が彼を見上げた。
「どの本が……いいか……」
スメラギは、絵本棚の前でそっと呟いた。
すると一斉に、小さな手たちが絵本を差し出してくる。
「これがすき! まほうのいろがいっぱい!」
「せんせー、これよんでー!」
カラフルな絵本の山に埋もれそうになりながら、スメラギは目をしばたたかせた。
「……にぎやか、だな」
その様子を、園長が笑みを浮かべて見守っていた。
「みんな、今日はせっかくの機会ですからね。“先生にいちばん読んでほしい本”を、ひとつ選んでみましょうね?」
子供たちは「うーん」「どれにするー?」と一斉に相談を始める。
それでもやはり決まらない。次第に子供たちは焦り始める。
その間、スメラギは顎に手をあて、親指と人差し指で輪を作るように顎をなぞり、少し首を傾けて瞬きを繰り返す。考え事をするときの、彼の癖。
また明るい子供達の声がまばらにざわつき始めた頃。
「……ならば、これを」
彼が静かに選んだのは、『ぼくのまほう、わたしのしゅるい』。属性魔素の入門絵本だった。
黒いコートの袖をそっと整え、絵本を開く。
「これは……“まほう”の、はじまりのはなし、だ」
声は低く、けれど不思議と温かい。
彼の声音には、魔素の奥深くに触れるような律動があった。
「……この子は“ひのまほう”がとくい。ぽかぽかして、でもときどき、カッとなる……火は、そういう魔素だ」
子供たちは一言も喋らず、目をまんまるにして、ただ聞いていた。
彼の言葉は、魔導の理屈を越えて、子供たちの魔素の芯に届いていた。
──そして、読み聞かせが終わった。
「ありがとうございました、スメラギ教授……!」
保育士のひとりが、教室の隅で拍手を送りながらそっと呟いた。
「……あれが、あの教授……?」
「かっこいい……声やばい……推せる……」
「普段、あんなに魔術論難しいのに……」
軽く照れながら囁く彼女たちの目も、まっすぐな尊敬と憧れと、ちょっとの推し活で輝いていた。
そのころ、後方の出入り口では、見学名目でついてきたレンとカナメがこっそり覗いていた。
「……な、なあヒウラ、スメラギ先生めちゃくちゃ良かったよな、今……」
「うん。元々イケボだけど……あんな優しい声。初めて聞いたかも」
「なんか、あれ??……俺、知らなかっただけか? 先生、こんな顔するんだな……」
二人とも、胸がじんわりと温かくなっていた。
──だが、そのあと。
「スメラギせんせー!!」
「わたし、おおきくなったら、せんせーのおよめさんになる!!」
「ぼくも!! ぼくがせんせーを、およめさんにするの!」
どっと押し寄せる幼い求婚者たちに、スメラギはあからさまに動揺した。
「いや……それは……その……」
頬をわずかに赤らめ、うろたえるスメラギ。
「──ダメーーーッ!!!」
教室の隅から突然叫んだのは、イシミネ・レンだった。
「せんせーは、おれのお、お、およ──じゃなくて! えっと! とにかく! ダメーー!!」
「……あんた何言ってんの」
カナメが呆れ顔でため息をつく。
そして子供たちは、さらに声を上げて笑った。
──春の光の中、魔素のきらめきと共に響いた笑い声。
そこには、“ほんものの退魔師”と、“ほんとうのやさしさ”が確かに存在していた。
———
【研究室の片隅に】
あまり陽の射さない研究棟、石造の螺旋階段の先。魔術理論学部魂魄理論学科所属、スメラギの研究室。
冷えた石壁と魔術式の陣列が静かに張り巡らされ、常時結界の張られた室内には、訪れる者も少ない。
分厚い資料に囲まれたその一角――
その“らしくない”空気に、誰もが一度立ち止まる。
そこには、子供たちの絵があった。
大きな画用紙に、にぎやかなクレヨンの線。
中央には黒髪の長身――スメラギらしき人物が、微笑みながら描かれている。
その周囲を、笑顔の子供たちが取り囲んでいた。
服は黒だけど、背景はまるで虹のように七色に光っていた。
──その色は、魔素の痕跡だった。
土、風、火、水、植物、音……幼いマナたちが、無意識のうちに自分の魔素を込めて描いたもの。
まるで、想いが具現化したように、絵そのものが“生きて”いた。
額縁もない、貼り付けただけの一枚。
けれどその周囲には、淡く揺れる結界の残響が漂っている。
──誰にも触れさせないように。
──色が、香りが、魔素が、失われないように。
そこに気づいた者は、密かに噂する。
「教授、あの絵に、軽い保護術かけてません……?」
「でも、術式の系統が微細すぎて……たぶん、本人の癖みたいなものかも……」
スメラギは何も言わない。
誰に尋ねられても、いつもと同じ、淡々とした無表情でやり過ごす。
けれど研究机の上には、時折、あの日読み聞かせた絵本が置かれていることがあった。
まるで、ふとした合間に、彼が読み返しているかのように。
あの声、あの眼差しを、誰よりも覚えているのは、もしかしたら彼自身なのかもしれない。
研究室の空気は静謐で厳か。
だが、その一角にだけ、春の名残のような、魔素の温もりが、そっと残されていた。
——
【……ずるい、なんて】
特別講義の手伝いを終えたレンは、帰り際ふと足を止めた。
スメラギの研究室──
扉は半ば開かれていて、中の様子がこぼれ出てくる。
薄闇に沈んだ部屋。並ぶ本、封術の印、魂魄理論の板書の痕跡。
そのすべてが張り詰めた静けさを湛えているのに、ただ一箇所──
壁に貼られたクレヨンの絵だけが、そこだけ季節が違うみたいに、やさしく、明るかった。
「……あっ……」
レンは気づいた。
それは、こないだの幼稚舎の読み聞かせ会で、子供たちが贈った絵だった。
七色の魔素が混ざり合い、世界にひとつしかない彩りになっている。
中央のスメラギの絵は、いつものような仏頂面じゃなかった。
小さな子たちに囲まれて、微笑んでいた。
彼の、あんな顔──
あんな、やさしくて、きれいな顔を、自分はまだ知らなかった。
研究机に置かれた絵本のページが、風もないのに、一枚、ふわりとめくれた。
スメラギの指が、そっとその端に触れていたから。
声はない。
でも、きっとあの日の続きを、彼は読んでいる。
「……ずるい……なんてさ……」
思わず口をついて出た言葉に、自分で苦笑する。
誰に向けたのかもわからない。
でも、胸のずっと奥──心臓の、もっと奥のほうが、きゅっと痛んだ。
あったかくて、うれしくて、でも息が苦しくなるような。
これはただの“憧れ”なんかじゃない。
“尊敬”でも、“憬れ”でもない。
わからない。
もっと違う。
もっと深い。
もっと、どうしようもない。
「……俺、どうしよう……」
誰にも届かない声が、研究室の廊下に溶けていく。
スメラギの部屋からは、ページの紙音が、まだ静かに、続いていた。
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