星降る庭で、きみを見た

夜灯 狐火

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第三章 夜帳のきざし

29 夜を纏う八咫烏

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 月光の中に立つ、その影。

 紫の瞳が、狐面の奥で細められた。

「さ、片付けはこっちに任せて。先生は、ひよっこ共を守ってな」

 冗談めいた口調とは裏腹に、その太刀筋には一切の情けも容赦もなかった。
 呻く暇すら与えず、腐れ落ちた魔獣――ニガミたちは、白銀の閃きとともに瞬く間に斬り伏せられてゆく。

 ──そして、再び訪れる静寂。

 風が、ぴたりと止まった。

 その中で、ただひとつだけ。
 しゃり、と、剣についた血を払う乾いた音だけが、夜の空気を裂いた。

 狐面の男が、ゆるやかに歩み出す。

「フン、無様じゃあないか。なぁ? ミナト」

 にやりと口の端を吊り上げて笑う男の背後で、夜の森がざわめいた。
 騒ぎに呼応するようにざわめいていた風は、不意に静まり返り、辺りに漂っていた異臭も、潮が引くように消えていった。

 白銀の斬撃が、淀んだ空気までも浄化していったのだ。

 それでも──

 レンはただ呆然と、その男を見つめていた。

 斬撃の鮮やかさでも、異臭の消失でもない。
 その気配、その存在感、その笑み……どれをとっても、この世のものとは思えなかった。

「……え、だれ……?」

 思わずこぼれた疑問。しかし、誰もすぐには答えなかった。

 カナメはほっと息をつき、簡易測定器を取り出して簡単な安全確認を始めていた。
 スメラギもまた、鈍く痛む胸元をそっと押さえ、目を伏せたまま小さく息を吐く。

 その動作一つで、レンにははっきりとわかった。

 ――この男は、“敵”ではない。

 レンの視線が、なおも彷徨う。
 その男は、夜の帳の中に立っていた。

 銀髪は月光を帯びて淡く輝き、顔の半分を覆っているのは、異様な存在感を放つ狐の仮面。
 その奥で光る瞳は、痺れるような紫。

 スメラギとほぼ同じ背丈。
 しなやかで均整の取れた体躯に、まるで式服のような白一色の装束を纏っていた。
 上衣は羽織のない着流し。下は股引きに脚半を巻いた、実戦向きの軽装。
 ゆるく肩に担いだ日本刀だけが、彼の異質さをさらに際立たせていた。

 気怠げな佇まい。しかしその奥には、常に“殺す”ことを前提とした気配がある。
 余裕と狂気が、薄氷の上で共存していた。

 そして、再び。
 男は、肩に担いだ刀を軽く揺らし、にやりと笑った。

「……さて。名乗りが要るかい? おチビちゃん」

 ⸻

 月光に照らされ、森の中で静かに対峙する影と影。

 その場にいる誰よりも静かに、スメラギは動揺の色ひとつ見せず、微かに目を細めた。

「……久しいな、キュウビ」

 それは、懐かしさを滲ませた呼びかけだった。

「はん。相変わらずだなぁ、ミナト。今も昔も甘っちょろいまんまだ」

 涼しげな声にのせて、男――ビャクヤ・キュウビはにやりと笑った。
 その態度からは、かつての“師”に対する敬意など微塵も感じられない。

 レンの眉がぴくりと動いた。

(えっ、ちょっと待って……今、先生のこと、呼び捨てにした!?
 ていうか、“ミナト”って、先生の名前……!?)

 唐突に明かされた名前と、それを当たり前のように口にするこの男の馴れ馴れしさに、レンの思考が一瞬フリーズする。

 それでも、次の瞬間には思わず一歩前へ踏み出していた。

「なんだよお前! さっきから黙って聞いてりゃ!!!」

 その勢いに、キュウビがふと仮面越しにレンへと視線を向けた。

 仮面の奥、紫電のような瞳がじわりと細められ、闇をなぞるように少年を捉える。

「……ああん?」

 低く、どこか鼻にかかったような声。
 一拍遅れて、獣が息を潜めるような静かな殺気が空気をひやりと撫でた。

 レンは一瞬、背筋を凍らせる。

「な、……なんだよ」

「……はーあ」

 キュウビは大げさに肩を竦め、深いため息をひとつ吐いた。

「ミナトが新しい弟子を取ったって聞いてさぁ、期待して血沸き肉躍らせて来てみりゃ……なんの変哲もねぇド素人のポンコツか。笑わせるねぇ」

 鼻で笑うような声に、レンの顔がさっと赤くなる。

「ミナトぉ、ガキの子守はそこの小娘だけにし、と、け、よ」

 ビャクヤがすっと自然な動作でスメラギの肩に腕を回した。
 肩に腕が回された瞬間、空気が一瞬、ぴんと張り詰める。スメラギはそれを無視するように、淡々と腕を払いのけた。

 まるで、そこにあるのが当然であるかのような、迷いなき距離感。

 その馴れ馴れしさに、レンの血がかっと沸騰した。

 ……なんなんだよ、こいつ。先生に触れていいのは、お前なんかじゃないだろ。

「なっ、馴れ馴れしいんだよさっきから!!!!」

 怒鳴るような声に、キュウビはわざとらしく「おやおや」と鼻を鳴らし、レンの反応を愉しむように口元を歪める。

 彼の目には、明らかに挑発の色が浮かんでいた。

 爆発寸前のレン。その横で、呆れたようにひとつため息をついたのはカナメだった。

「あにでしー、今日はなんなんです? “ミツアシ”の任務はどうしたんですか?」

 腕を組み、あからさまに嫌そうな顔で問いかけるカナメ。

 その一言に、キュウビが肩を揺らして笑った。

「ああ? 決まってんだろ。愛しい愛しいミナトに、会いにきたんだよ!」

「うげっ、始まった……兄弟子の妄想……」

 顔をしかめながら、カナメは頭を抱える。
 その反応もまた、何度も繰り返されたやり取りなのだろう。

「妄想じゃねぇよ! 純愛だっつってんだろ!? なぁ、ミナト!」

 キュウビが声を張り上げるが、スメラギは無言のまま、肩に回された腕をそっと振り払った。

 その動作には、手慣れたような冷静さがあった。

 そして、視線をわずかに上げ、夜の森の奥を見やる。

「……まさか“夜帳とばり”が出てくるとはな。初めからそうしていればよかったものを」

 その言葉に、キュウビの目がわずかに細められる。
 唇の端が持ち上がり、仮面の下で静かに笑みが広がった。

「へぇ、気づいてたか。さすがは俺の先生だねぇ」

 彼の背後――森の影に紛れるように、いくつもの気配が現れる。

 それは闇に潜み、王命を帯びて動く特務部隊。
 王直特務局・夜帳部。

 その中でも最精鋭と名高い「八咫烏班」を率いるのが、ビャクヤ・キュウビその人だった。

 元はスメラギ・ミナトの教え子。

 退魔師としての腕は超一流。
 行動は破綻すれすれで、感情のブレーキは基本的に壊れている。

 そして何より――

 彼の、スメラギに向ける執着だけは、誰にも手がつけられない。

 木々がざわめき、月が雲の向こうへと身を隠す。

 その闇の中でなお、仮面の奥の紫の瞳だけが、ぎらりと確かな輝きを放っていた。
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