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第三章 夜帳のきざし
28 ヒカリを厭うもの
しおりを挟む「……以上で、採取は終わりだ」
静まり返った空気の中、スメラギの低く押し殺した声が、ひとしずくの水音のように響く。
指先に編まれていた魔法陣は、音もなく霧散し、封じられていた魔獣の残骸と魔素の断片が、小瓶の中へと吸い込まれていった。
その傍らで、レンとカナメがようやく緊張を解き、慎重に最終確認の手順を終える。
「……終わった、んだよな?」
レンの声には、まだどこか不安の色が残っていた。
応じたのは、カナメのやや低めの声だった。
「終わったように“見える”だけかもしれない。最後まで気を抜かないで、イシミネ」
真剣な口調だった。
カナメの手の中で、魔素測定器の針がようやく静止し、沈黙の余韻に一抹の安堵が滲む。
(それにしても——)
レンの視線が、自然とスメラギの背中へと向かう。
ゆっくりと肩で息を吐くその姿は、どこか遠く、細く、脆く感じられた。
頬の血の気は薄れ、身にまとう魔素の波も未だ不安定なまま。誰の目にも、彼の消耗は明らかだった。それでも、表情は一片たりとも崩れない。感情を剥ぎ落とした仮面のように、無表情のまま立っていた。
「先生、あの、さっきの光のやつ……大丈夫だったんですか?」
レンが一歩踏み出し、声をかける。その声は、心配よりもむしろ戸惑いの色を帯びていた。
スメラギの背中は、少しだけ揺れたように見えた。だが、返ってきたのはたった一言だけだった。
「……案ずるな」
それだけで、スメラギは振り返りもしない。
まるで、それ以上を問うこと自体が禁忌であるかのように。
レンは言葉を失い、その背中をただ見つめる。
胸の奥が不意に軋んだ。
(先生……)
距離ができた。心ではそう思いたくなくとも、そう感じてしまう。かつて見た悪夢の予兆のようにも思えた。
沈黙の中、レンはその想いに少なからず胸を痛めながら、森へと続く石段に足を踏み出した。
夜の帳がすでに社を包み込み、カサリビの淡い灯も、いつの間にか消えていた。
冷たく澄んだ空気が肺を刺す。葉擦れの音だけが、ひっそりと辺りに響いていた。
三人の足音が、乾いた石道に小さく刻まれていく。
──その様子を、木立の奥から見下ろす影があった。
闇に気配を溶かし、音もなく潜む者たち。その輪郭は曖昧で、そこに人間の形があるかさえ定かでない。
そのうちの一つが、口の端を吊り上げ、愉しげに笑った。
——ふっ
掌に乗せた魔素の欠片に、そっと息を吹きかける。
霧のように散った魔素は空気を染め、瞬く間に森の空気を変質させた。
次の瞬間、静寂に包まれていた森が、異様な臭気とともにざわめき始める。
「……な、に……この匂い……!」
カナメが口元を押さえ、思わずその場に膝をついた。
レンも顔をしかめ、喉の奥から込み上げてくる吐き気を必死にこらえる。
鼻腔を焼くような腐敗の臭気。空気そのものが濁ったような、濃密で不快な瘴気が、森全体を満たしていく。
「——来るぞ」
スメラギの声が鋭く響いた直後、彼の指先に魔法陣が再び描かれようとした、その刹那——
草木を押し分け、這い出してきたのは、泥と腐肉をまとった異形の獣だった。
半ば崩れ落ちた殻。目も口もない不完全な肉体。それは呻き声のような震えを放ちながら、地を這うように現れる。
「……ニガミ、か。だが、これは……」
スメラギの眉がわずかに動く。
名は知られた下位の魔獣。しかし、放たれる気配は異質だった。
目に見えぬ何かが、意図的にそれを強化している。
「に、ニガミって……!?」
レンが叫ぶ。その声にカナメが息を呑み、驚きと怯えを隠せない様子で言った。
「腐敗と瘴気を媒介に繁殖する魔獣……瘴気域ではよく現れるけど、本来は単体で行動しない、弱い下位種だよ。でもこれは……」
説明を終えるより早く、魔獣の咆哮が森を裂いた。
地を打った咆哮は斬撃となって走り、接触した場所の草木を瞬時に腐らせる。
スメラギがかろうじて結界を張り、直撃を逸らすが、漂う瘴気のせいで魔素の制御が著しく鈍る。
それに加え、彼の体内にはまだ、先の光魔法の反動がまだ残っていた。
本来なら、指先ひとつで払える程度の魔獣。それなのに今は──
(……まずい)
魔素を構築しようとした瞬間、胸の奥——心臓の位置に近い内側に、鋭い痛みが走る。
痛みに耐えながら、スメラギは一歩、また一歩と前へ出た。
「下がっていろ」
その声は掠れ、けれども揺るがなかった。
ふらつく足取りのまま、彼はレンとカナメの前に立ち塞がる。
震える指先で魔素を結ぼうとした、そのときだった。
夜を切り裂く、銀を纏った紫電の閃光が走る。
風そのものを切り裂くかのような鋭い太刀筋が、ニガミの腐肉を寸分の隙なく両断し、瘴気ごと霧散させた。
「なっ——!」
レンの声が出るよりも早く、次の一撃が続く。
銀の軌跡が闇を裂き、魔獣の群れを次々と斬り伏せていく。
月明かりを浴び、白銀にきらめく髪。
わずかに揺れる狐の半面。
その男は、静かに立っていた。
「……“先生”が倒れるとこなんて、見たくないんでなぁ」
目元を覆う仮面の奥、紫の瞳が笑っていた。
狂気すれすれの優しさを滲ませながら、彼──ビャクヤ・キュウビが、一歩前に出る。
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